第2話


 エリーシャが初めて狩ったウサギは、エリーシャ自身が解体した。

 エリーシャは狩った獣の処理の仕方を知っていた。ハンナがするところをいつも間近で見ていたからだ。ハンナはどんな大きさの獣も容易く捌いていた。自分も同じようにできるだろう、とエリーシャは思っていたが、思うよりも獣の扱いは難しかった。

「上手にできてるよエリーシャ」

「そこはナイフを使わなくても大丈夫だよ」

「骨に肉が残っても一緒に煮ちゃうからいいよ」

 ハンナはエリーシャの側で適度に指示を与えてくれた。犬たちは解体したウサギの内臓をいただこうと待っていた。

 ウサギが獣からひと塊りの肉と毛皮になった頃、エリーシャは全身汗まみれになっていた。いつもハンナが何気なくしていたことがこんなに大変だったとは。呆然とするエリーシャの髪にハンナは頬擦りをしてくれた。

「慣れたらもっと簡単にできるよ」

「本当?」

「うん。エリーシャは器用だからね」

 それからエリーシャはハンナが鹿を解体するのを手伝った。いつもは見ているだけであったが、ハンナが手伝いを求めたのだ。皮を剥ぎ、肉をいくつもの部位に分ける。その工程のほとんどはハンナが行ったが、それを手伝うことでエリーシャは見るだけではわからない手応えのようなものを感じた。

 肉と毛皮を家へ運び終えた頃には日が傾いていた。鹿肉は地下へ保管し、この日はウサギを食べることにした。

 ウサギの肉は細かくした骨と一緒くたに煮た。暖炉でスープを煮る間、エリーシャはハンナにウサギ以外の獣の捌き方を聞いた。犬たちはハンナに与えられた鹿肉に齧り付いていた。

 ウサギのスープはエリーシャの好物だ。





 気がついた時、エリーシャは木と石で作られた部屋に寝かされていた。暖炉では赤々と火石(かせき)が燃え、幾重にも毛皮と毛布の重ねられた寝台は居心地が良かった。

 吸い込む空気は暖かい。身体も熱い。けれどエリーシャは寒気を感じていた。

 風邪を引いたのだろう。ぼうっとした意識でエリーシャは考える。寒風が入り込むあの監獄では平気だったはずなのに。こんなに暖かい場所で風邪をひくなんて、気が抜けてしまったのだろうか。

 ぼんやりとした視界の中、人狼は吹雪の気配と共に現れた。外に通じるのだろうドアから吹き込んだ冷たい風がエリーシャの頬を撫でる。人狼は足元に数匹の犬を伴っている。犬の身震いと共に雪が飛び散る。

 もぞ、とエリーシャの毛布が動いた。エリーシャは動いていない。エリーシャの手足ではなく、毛布の塊だと思っていた温かな毛玉が蠢き、寝台から飛び出る。ころころと跳ねるように走るそれは三匹の子犬だ。子犬たちは立ち耳に巻き尾の犬にまとわりつく。

「起きた? 具合、どう?」

 人狼が人になっていた。エリーシャは子犬ばかりを目で追っていて気付かなかったが、壁に狼の毛皮が掛けられていた。

 エリーシャを覗き込むのは夕焼け色の髪をした女性だった。若草色の瞳を見上げ、エリーシャは彼女の髪を燃えるようだと思った。ふわふわと渦巻く毛先に暖炉で踊る火を思ったのだ。

「まだ熱あるね」

 大きな手のひらがエリーシャの額に触れた。その手は長く外にいたせいか冷たい。だがエリーシャにとってはその冷たさが心地よかった。

 冷たく優しい手はエリーシャの額から頬を撫で、最後に指先で顔にかかる髪を避けてくれた。

「ごはん作るね。ウサギは好き? シカの方が元気でるかな」

 待っててね、と言い残し、手はエリーシャの胸のあたりを二度叩いて離れた。


 それからの数日をエリーシャはほとんど眠って過ごしていた。時折目が覚めた時に赤毛の彼女が食事を与えてくれた。それはエリーシャの知らないスープで、塩気があり獣の油の匂いがするものだった。以前のエリーシャであれば受け付けなかっただろう。

 監獄での食事はほとんど味のしない、冷たいものばかりだった。今のエリーシャにとって、温かく味のある食事は何でも美味しい。

 エリーシャは起き上がる体力すらなかった。発熱のせいか全身の関節が軋み、痛んだのだ。赤毛の彼女はエリーシャが匙を持つ元気すら無いのを見ると、親鳥が雛にそうするように口移しでスープを与えてくれた。

 眠り続け、息継ぎをするようにわずかだけ起きてを繰り返した。


 ふと目覚めた時、エリーシャは身体が軽くなっているのを感じた。起き上がっても関節は痛まず、熱がある時特有の思考にもやが掛かる感覚も無い。

「あ、おはよう!」

 ある日と同じように、狼の毛皮を纏った彼女がドアから姿を現した。足元にはやはり数頭の犬がいる。エリーシャの毛布から転がり出る子犬も同じだ。

「元気でた?」

 赤毛の彼女は木製の椅子を引き寄せ、エリーシャの側に掛けた。

「あ……はい」

「よかった」

 長く眠り続けたせいか、声の出し方を忘れていた。掠れたエリーシャの声に赤毛の彼女は頓着しない。

「痛いところない? おなかすいてる?」

 まるで躊躇なくエリーシャの髪を撫で、頬に触れる指先は冷えているが温かい。真っ直ぐに向けられる視線がなぜか気恥ずかしく、エリーシャは俯いてしまう。

 上掛け代わりの毛皮の上で組んだ指に、白く逞しい手が重ねられる。

「わたし、ハンナ」

「あ、えっと」

 若草色の瞳はゆるく細められ、エリーシャへ問う。

「名前おしえて?」

「エリーシャルト、……」

 ラブラドライト、と家名を口にしかけエリーシャは口籠った。ラブラドライト家はもう存在しない。母にも見捨てられ、追放された身だ。名乗れる家名は無い。

「エリーシャルト、です」

 今更自身が何の後ろ盾も、家も無い身であると身に染み、エリーシャは胸の奥に石を詰められたかのような心もとなさを覚えた。

「エリーシャルト」

 エリーシャルト、エリーシャルト、とハンナは幾度か繰り返していた。慣れない発音なのだろう。

「エリーシャ、と呼んでください」

「エリーシャ!」

 愛称でようやく口に馴染んだようだった。嬉しそうに繰り返す彼女にハンナはおずおずと尋ねた。

「あの、ハンナ。貴女は……ハンナマルタ? ハンニカーナ?」

 ハンナはエリーシャよりも随分年上に見えた。エリーシャの母親よりは若いが、エリーシャが今まで交流のあった貴族の子女たちの誰よりも年上だろう。気安く愛称を呼んで良い相手ではない。それに何より助けてもらった恩があった。

 ハンナは目を丸くして首を傾げた。

「ハンナはハンナだよ?」

「え?」

 王国では家名を持たない平民でも本名と愛称を使い分ける。それがエリーシャの知る常識だ。

「ハンナ、」

「うん?」

「貴女はどこからいらしたの?」

「うーん?」

 ハンナの首がまた傾いた。

「ハンナはずっとここにいるよ?」

「ずっと……一人で?」

「ううん。前はおじさまと母さまがいたよ」

 いた、と言う過去形からエリーシャはその二人が故人であると悟った。

「そのおじさまと、お母さまはどこから」

「どこから……うーん、ずっとここにいたけどなぁ……」

 ハンナは困り果てた様子で首を捻っていた。

「困らせてごめんなさい」

「ううん! ハンナも、よくわかんなくてごめんね?

 あ、でもここのことならいっぱい知ってるよ! 危ない場所とか、火石の取れるとことか」


 エリーシャはハンナに対し、どうしてだか自分と同じ追放された者なのだと思っていた。短い髪に粗野な服装をしているが顔立ちはどこか高貴であるし、言葉に訛りもない。

 ただハンナに嘘をついている様子はなかった。であれば、彼女はここで生まれ育ったことになる。危険で誰の助けもないこの森で。

 父さまと母さま、ではなくおじさまと母さま、と言っていたのも気になった。父親ではない男性とハンナの母親は、言葉通りであれば兄妹であったのだろうか。

 エリーシャは推測する。追放されたのはハンナではなくハンナの母親で、ハンナはこの北の果てで生まれたのだろう。おじさま、と言うのは共に追放された兄か弟か、それとも後を追ってきた従者の男性か。

 かつて王国では王位を巡り熾烈な政治闘争があった、とエリーシャは習った。現王家では事故に見せかけた暗殺や毒殺は茶飯事で、少なくない人数が犠牲になったらしい。その実行犯や命令を下した者たちはもちろん処罰された。その中にハンナの母親がいたのかもしれない。なんらかの罪を犯したのか、エリーシャのように濡れ衣であったのか。

 どちらにせよ身重の女性を追放するなんて。エリーシャは憤る。


「エリーシャ、お腹空いてない?」

 憤っても全ては過去の話だ。当のハンナには何の影も無い。そしてエリーシャは空腹だ。

 エリーシャが頷いたと同時に差し出されたのは木の器だ。

「はい、どうぞ!」

「ありがとう、ございます」

 湯気の立つスープは香ばしい油の匂いがした。夢うつつの中で幾度も嗅いだ匂いだ。口にすれば僅かな獣臭さと塩気のある旨味を感じられるだろう。

 ひと匙掬い、口にする。

「おいしい?」

 ハンナも同じ器を手に再びエリーシャの傍らに座った。

「おいしい、です」

「よかったぁ。エリーシャはウサギ好き?」

「ウサギ……このスープはウサギのスープですか」

「うん」

 王都では頻繁に口にすることはなかったが、エリーシャはウサギを食べたことはある。父が友人たちと狩りに行き獲ってきたものだ。丸ごとローストされた姿は生前の姿を思い起こさせ、父と友人が語るウサギ狩りの話が残酷だったのもあり、食欲が沸かなかったことを覚えている。

「ウサギ、嫌い?」

 眉を下げたハンナにエリーシャは慌てて首を横に振ってみせる。

「ハンナのスープは好きです!」

「ホント?」

 雲の切間から日が差すようにハンナは笑った。


 エリーシャから見たハンナは不思議な女性だ。エリーシャの知る人たちは皆、感情を露わにしない。素直に笑ったり困ったりするのは年端も行かない子供くらいだ。

 いつでも微笑みを絶やさず、冷静に。嬉しくとも悲しくとも相手に悟られてはいけない。それがエリーシャの知る「成人」であり、かつて母親に厳しく躾けられた礼儀だ。

 ハンナはエリーシャが目覚めてから今までの短時間でコロコロと表情を変えた。ハンナほどの年齢の女性がここまで開け広げに感情を見せたところをエリーシャは知らない。

 それにハンナはエリーシャを助けた。エリーシャは助けたとて何の得にもならない、追放された元令嬢だ。もしかすればそんな事情は知らなかったのかもしれないが、だとしても助ける理由は一つもなかっただろう。


「もっと食べる? まだいっぱいあるから遠慮しないで!」

「いえ、もう十分です」

 ありがとう、と心からのお礼と共にエリーシャは空の器をハンナへ返した。

「お腹空いたらいつでも言って! ウサギでもシカでもハンナが獲ってくるからね」

「ウサギ、ハンナが一人で獲ってきたの?」

「うん! あ、でも犬たちも一緒だよ」

「そんな大変なこと……」

 思い返してみれば、エリーシャを救ったハンナと犬たちの動きは連携が取れており、ハンナの投げた斧は監獄長の額の真ん中に突き刺さっていた。いくら彼が油断していたとはいえ一投の正確さは目を瞠るものがある。きっとあの要領で他の獣も狩っているのだろう。

 それでも狩りは重労働だ。今が冬であることを鑑みると、ハンナ自身と犬たちが食べていくので精一杯ではないのだろうか。

 厳しい冬を越せず亡くなる農民がいる。いつかエリーシャはそんな話を聞かされて「可哀想に」と思った。その感想のなんと他人事なことか。

「ごめんなさい」

 謝罪はハンナに向けてであり、まるで他人事として憐れんだ民へ向けたものだった。

「どうしたの? なんでごめんするの?」

「貴重な食糧を私に……私、貴女に迷惑をかけているわ」

「え? そんなことないよ?

 エリーシャはハンナの家族だから、ごはんは分けて食べて当たり前だよ」

 俯いたエリーシャを覗き込む格好で、ハンナは寝台の傍らに跪きエリーシャの手を握った。食事を摂ったからだろうか。その手は温かい。

「……家族?」

「うん。あのね、母さまが言ってたの。

 この森に来る人は家族だって。

 ハンナが知ってるのは母さまとおじさまだけだけど、昔はもっと人がいたんだって。

 みんなこの森に捨てられて困ってた人たちだって。

 だから、ハンナは捨てられて困ってるエリーシャを助けたの」

 家族、という言葉はエリーシャには縁遠くなってしまったはずだった。父親は死に、母親と親族には見捨てられ、家名は消えた。

 エリーシャは一人だ。家を失い、追放され、何の力もなくこの北の果てで生きるしかない。

 エリーシャは一人では生きられない。生きるための知識も力もない。だから運よくエリーシャを助けてくれたハンナに縋るのは生きるためでもある。

「エリーシャはハンナの家族、嫌?」

「……嫌、じゃない」

 エリーシャがゆるく首を振るのを見て、若草色の瞳は柔らかく細められた。受け入れてくれて嬉しい、という感情が隠すことなく乗せられた表情だ。

 それを見た時、エリーシャの胸に湧きあがったのは紛れもない「喜び」であった。「この人が喜んでくれて嬉しい」という、他者由来の感情だ。

 純粋に人を助ける喜びはいつぶりだろうか。思えばエリーシャが聖女として人を癒すのは人々のためではなく、父──家族に認められるためであった。

「これからよろしくね、エリーシャ」

 力強い腕に抱き寄せられる。遠慮のない力にエリーシャは抵抗せず、柔らかな胸に頬を埋めた。温かで甘酸っぱい、汗の匂いがする。僅かに犬か何か獣の匂いもした。

 花でも香水でもない他人の匂いをエリーシャは不快に思わない。むしろ心地よい安心感を覚えている。このままここで眠っていたい。

 記憶の奥底から浮かび上がったのは、エリーシャが初めて傷を癒した時──癒しの力を顕現したエリーシャに驚き、またそれを喜んだ乳母に抱き締められた、あの時の温もりだった。

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