ヴィシュヌ

 皆がベッドに仰向けになっているころ、ミラただひとりは黙々と読書に熱を上げていた。

「そろそろ寝なさい」と弓香は言う。「もう夜も更けてきたことだし」

「目の瞑り方、忘れちゃったから無理」素っ頓狂な物言いで返答するミラ。

「いい加減になさい」弓香がミラの後頭部を軽く叩くと、

「わかったから。うるさいなあ」とミラは本を閉じる。「じゃ寝るから出てって」

 弓香は安堵した顔で、部屋を後にする。外に出ると地球が一望できた。かつては〈青い星〉などと呼ばれた惑星だったが、今では濁った赤ワインのような色に包まれている。見るも無惨な地球の姿が視界に入ってくるたびに、月に逃れてきて良かったな、と弓香は胸を撫で下ろす。ミラの部屋から、弓香の部屋までは歩いて三分ほどかかる。弓香は娘に「寝なさい」などと言っておきながら、ひとり海に立ち寄ることにした。月にある海は、美麗かつ潮の香りが五感をくすぐるのだ。加えて夜更けということもあり、海辺には誰もいない。ここぞとばかりに弓香は海辺に横たわって目を閉じる。静寂を纏った波の音が聴こえてくる。この雄大な音楽があれば、パソコンもステレオも要らなかった。これ以上に心を癒すメロディーは存在しないと思えたからだ。傍らに置いた砂時計が刻一刻と時を刻んでゆくと、弓香は眠りに陥っていった。

 ミラの声が聴こえる。これは夢だろうか。遠くで鳴っている波の音に混じって、「お母さん、お母さん」と。声がどんどんと大きくなると、弓香はぱっと目を見開いて近くまで迫ったミラに気づく。

「こんなとこで寝ちゃって。あたしに色々言っておきながらだらしないんだから」

 ようやく夢ではないことがわかった弓香は、「ごめんごめん」と頭を下げる。砂時計を見ると、既にすべての砂が落ちきっていた。二人は海辺に並んで座り、遠くを眺める。

「ところでさ」ミラが口を開く。「お母さん、まだここが現実だと思い込んでるの?」

「何言ってんのよ、ミラ」弓香は驚いた顔でミラを見る。

「この世界は神様の夢なのよ。だってもしここが月だったら砂時計の砂だって、海の波だって――いや、もういいや、何かお母さんが可哀想になってきた」

 沈黙はこの世界の正体を暴こうと必死になる。こうやって紅い惑星を眺めて、海に寄り添って、親子二人で語り合いながら毎日が過ぎてゆく。夢と現実の境界線などとっくに失われていた。砂時計がひっくり返されると、微睡の世界が産声をあげる。

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