幻のエレベーター
エレベーターに乗り込み一階のボタンを押した。ぐゎん、と激しい音が鳴ったと思うと箱はジェットコースターのような勢いで下降してゆく。恐ろしくなったわたしは非常用のボタンを連打した。しかし反応が無いばかりか箱は一向に止まる気配がない。
「誰か! 助けて!」
叫び声は空しくも無人の箱の中に響き渡って消える。咄嗟に想った。わたし死ぬんだ、と。その場に蹲り頭を抱えていると、ふいにメロディーが流れてきた。ベートーヴェンの『運命』である。耳を傾けていると、なぜか恐怖は安らいでいった。再び激しい音が鳴った。閉ざしていた瞼をそっと開けると、エレベーターは停止していた。安堵したわたしは立ちあがり「開」ボタンを押す。ドアがゆっくりと開くと、目の前に夫の姿があった。わたしは嗚咽を洩らしながら彼の腕に抱きついて「怖かったよう……」と、精一杯の声を出す。
「どうしたの」
「え、エレベーターが故障して……」
「ここはエレベーターなんかじゃないって」
「え……」
次の瞬間、自宅の玄関が視界に飛び込んできた。奇妙であり、恐ろしくもあった。
その日からわたしはどんな場所に赴こうとも、エレベーターは決して使わず、階段を使うようになった。変化はそれだけではなかった。生きてることがやけに有難く感じられるのだ。
買い物に行く途中、ポツリと一言洩らした。
「神様、ありがとう」
新しい口癖が生まれた瞬間だった。
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