東 久秀
前川みどりは幼馴染である新聞記者の前田輝(まえだあきら)に喫茶店に呼び出された。窓際の席に座っていた輝はみどりの姿を確認すると手を上げる。みどりは輝に気づき向かい合わせに腰掛ける。
「何?あの事件の事でも聞きたいの?」みどりは上着を脱ぎながら、取材を受けると思って少しウキウキした感じで輝に話しかける。
「いや、保育園に投函されたあの金はどうなったのか知りたくてな。」輝はフラットなテンションで答える。
「警察が持っていったわよ。詳しい話はわからないけど。」みどりは輝の答えにテンションが下がった。
「だよなぁ。ハァ...。」輝はため息をつく。
「実はアレ、俺の仕業なんだ。」輝は観念した様にみどりにいう。
「えっ?ウソでしょ?ワケわかんないんだけど。」
「しっ!声がデカいよ。」輝は慌てて人差し指を口元に持っていき小声でいう。
「えっ?えっ?どういう事?」みどりは声のトーンは落とした。
「とある政治家に取材をさせてもらったんだ。当たり障りのない事しか返って来なかったけどな。」輝は答える。
「なんでこうなったんだか...。」輝は頭を抱える。
「ちゃんと話てよ。」みどりは輝に言った。
「あぁ。」輝は話始める。
その日、輝は選挙戦が控えている公民党次期党首と言われる、東 久秀(あずま ひさひで)と、とある料亭で食事をしながら取材をするという、先方からの申し出があり、承諾していた。60分という予定ではあったが、東のスケジュールが推しており、急遽10分間という短い時間となってしまった。それでも輝は話だけでもと了承した。矢継ぎ早に取材は終わり、あっと言う間に時間は過ぎた。ロクな質問も出来なかったな、と輝は思っていた。それでも輝は東に礼を言い、席を立とうとした時だった。
「前田くん、本当に申し訳ない。お詫びと言ってはなんだが、別室を用意してある。食事だけでもしていって貰えないだろうか?今日は仕事ももう終わりだろう?」東は輝に言う。
「仕事は確かに終わりです。ですが先生、お気持ちだけで充分ですよ。」輝は答える。
「いや、私は君が気に入った。若いのに政治の事も良く理解されてるし、10分という短い時間の中で、核心に迫る質問が出来る。物事の本質を見抜く力が君にはある。それに誠実さも兼ね備えている君という人間に心打たれたのだよ。政治家、東としてではなく、1人の君の知り合いとして君に食事をしていって欲しい。どうかな?」東は真っ直ぐ輝を見る。
「いや、ですが...。」輝は東に圧倒され始めていた。目力というか、オーラというか見えない力が東にはある事、これがトップの政治家の力かと輝は思った。
「友人に飯を奢ってもらったと思えば気が楽になるかな?」東は笑う。
「...わかりました。先生がそこまでおっしゃるなら。食事だけして帰ります。ありがとうございます。」輝は頭を下げる。
「そうか!ここの食事は絶品だ。是非楽しんで帰ってくれ。」東はパンパンと手を叩いた。少しの間があり、障子の向こうに人影が現れる。
「私の友人を頼む。」東は障子の向こうの人物に話しかける。
「承知いたしました。」女性の声で返事があり、
「失礼いたします。」と障子が少し開けられ、和服の袖が障子の開けられた部分から見える。障子は更に開けられ、和服の女性が正座に三つ指を立てて座っていた。
「前田様、ご案内いたします。」女性は顔を挙げる。何とも端正な顔立ちで、輝は呆気に取られていた。
「前田くん、すまない。私はこの部屋で次の約束があってね。コチラで失礼するよ。」東は輝に頭を下げる。
「あ、いえ。とんでもないです。コチラこそありがとうございました。失礼いたします。」輝は東に頭を下げた。
「どうぞコチラへ。」和服の女性は輝を案内する。今の部屋から5室くらい離れた部屋に案内された。
「どうぞごゆるりと。」女性は障子を閉めて出ていった。
「失礼いたします。」入れ代わる様に別の女性の声で障子が少し開く。中に入ってきたのは芸妓。コレまた美女と呼ぶ意外に言葉が見当たらない女性であった。輝は呆気に取られっぱなしだった。運ばれてくる料理はどれも絶品で、その上、芸妓によるお酌。美味い酒。酔えない要素はなかった。だからあんなに肥えるのか。輝は東の風体を思い出していた。すでに気分良くなり大分酔いも回り始めた輝だったが、不意に尿意を催した。
「トイレはどこだっけ?」輝は芸妓に聞く。
「部屋を出て左手に少し行ったところにございます。」輝は部屋を出て長い廊下を歩き出す。他の部屋からは笑い声や三味線の音が聞こえる。輝はトイレの案内板を見るとトイレに入る。輝は個室に入り鍵をかけた。ズボンとパンツを下ろし便座に腰掛けると、トイレットペーパーホルダーの上に紙袋が置いてある事に気づいた。なんだ?輝は無造作に紙袋を手に取り中を見ると、札束が3つ入っていた。一気に酔いが覚める。コレは...、輝はマジマジと札束を見る。すると誰かがトイレに入ってきた。気配から2人いると思われる。
「先生にお渡しする大事なモンを無くしやがってバカやろーが。」
「すみません。多分トイレに入った時だと思うんですが...。」
「テメェは当分禁酒しろバカタレ!」
「ハイ...。」
「で、どこだ?」
「多分ココだったと思います。」隣のトイレまで声は近づく。輝は生きた心地がしなかった。何も悪い事はしていないのに、自分の手にある札束、そして今し方の会話の内容を聞いてからは、鼓動が早くなる一方であった。輝は息を潜めて外の様子を伺う。いつノックされてもおかしくない状況に輝の鼓動はますます速くなる。だが、意外にも男達の足音は遠ざかっていく。輝はあれっ?と思いながらも外の音に耳を澄ませた。トイレの場所を勘違いしてないと踏んだのか、扉の閉まっている正に輝の入っている個室に人が入っている事に気づき、外で待ち伏せているのか。だが男達の足音はトイレからドンドン遠ざかる。やがて、足音は消えどこかの部屋の三味線の音しか聞こえなくなった。輝は紙袋を腹部に入れ、意を決して個室の扉を開ける。誰もそこにはいなかった。トイレの入り口にも人の気配はなく、それを確認すると足早に自分の食事していた部屋に戻った。部屋に入り障子を後手に閉めた輝はフゥと一呼吸した。
「どうかなさいましたか?」芸妓が輝に声をかける。
「いや、何でもない。」芸妓に目線を移したその先の奥の部屋に布団が敷かれているのが輝の目に飛び込んできた。
「あ、急な仕事が入ってしまってね。名残惜しいけど、今日は帰るよ。」輝はなるべく平静を装いながら芸妓に話す。
「そうですか、お客さん私の好みだから、たっぷりサービスしようと思ってましたのに。」芸妓は艶っぽい笑みを浮かべる。
「ハハっ。また来るよ。」輝は慌しく荷物を持ち身支度を整える。
「玄関までお見送りいたします。」芸妓はそう言って立ちあがる。その行動を輝は手で制した。
「急ぐから、ココで大丈夫!ありがとうございました!」言うと輝は急いで障子を開け、そそくさとその場を後にした。料亭の玄関を出てからもその歩く速度は変わる事なく、駅を目指した。最寄りの駅までは歩けば20分位かかる距離であるのに、輝は10分で駅に到着した。
「はぁ、はぁ。」人通りが多いその光景を見て少し息を整える。とにかくあの料亭から遠ざかりたい一心で輝は駅の改札を通り、帰路に着く。地元駅に着く頃には輝の動悸も治まっていた。
(どうすんだよコレ。)輝は自分の腹に入っている札束をどうすべきか悩んでいた。幼馴染のみどりの顔が不意に浮かんだ。アイツの保育園に使って貰おう。まだ酔いが残っていたのか、輝には冷静な判断が出来ていなかった。いつの新聞記事であったのか覚えていなかったが、ジャッジメントナイトと書かれたカードを置いて、1人の精神科医師の悪事を捌いた義賊がいた事を思い出していた。それの模倣をし、保育園のポストに札束を入れた。冷静に考えれば保育園がその金を使うなどあるわけがなく、警察に届けるだろうとわかる事なのに、輝にはその判断力が欠けていた。とにかく、札束を自分の身体から離したかった。そして現在に至る。
「あんたバカなの?トイレの時に渡しちゃえば良かったじゃない。」みどりは輝に言う。
「そんな事したら、顔もバレるし、男たちの会話から秘密を知られたって何されるかわかんないだろ。」輝は答える。
「...そっか。だったら警察に...言ってもムダか。」みどりは言いかけて止めた。
「証拠も何にもないもんね...。だからって何で私に言うのよ。」みどりは怪訝そうに輝に聞く。
「ゴメン。誰かに言わないと気が狂いそうになってさ。迷惑とわかってるけど、おまえに聞いて欲しかったんだよ。」輝は力なくみどりに言う。
「...ホント迷惑よ。」みどりは冷たく言う。
「ゴメン。」輝は泣きそうな顔になる。
「まったく、あんたって昔からそうよね。どうしようもなくなってから、人に言ってさ。もう、考えても仕方ないんだから、このまま無かった事にしちゃいなさいよ。あんたは何も知らないし、あんたの仕業じゃなくさ。」
みどりは言う。
「本当にゴメン。保育園にも迷惑かけてしまって。」輝は頭を下げる。
「ハイハイ。もうお終い。じゃ、私行くわね。」みどりは席を立つ。
「あぁ、ありがとう。」輝はみどりに礼を言う。
「くされ縁だからね。」とみどりは笑った。輝も少し微笑む。
「じゃあね。」みどりは手を振りながら喫茶店を後にする。喫茶店を出たみどりを尾行する男に輝も、みどり自身も気付いていなかった。
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