第十三話 たった一瞬でも良い
―朔也―
雨に濡れて湿った服を脱ぎ、タンクトップの上からネイビーのカーディガンを緩く羽織ってソファに沈み込んだ。
窓を叩く雨音は激しさを増すばかりで、遠くから雷の音まで聞こえ始める。部屋の中の湿度が高いのか、気持ち悪くなってきて体を横たえた。
「…?」
ポケットの中でマナーモードにしたままのスマホが震える。寝転がったまま手に取り画面を確認して、固まった。
「名木ちゃん…。」
出るべきか迷ったが、結局通話ボタンを押す。
「…もしもし?」
『…。』
何も聞こえてこない。電波が悪いのかと画面を見るけれど、そういうわけでもない。
「名木ちゃん、どうしたの。」
呼びかけると、雨音に混じって洟を啜るような音が聞こえた。
「…泣いてるの?」
いくら聞いても返事がない。聞こえるのは雨音と、だんだんと近づいてきた雷の音だけ。
…どうして、電話から雨と雷の音が聞こえるんだ?
「名木ちゃん、どこにいるの?」
『…っ、外…』
「外ってどこ?」
まさか。
起き上がって窓の側に寄り、カーテンを開けて下を見下ろす。
エントランス近くの垣根の影に、うずくまる人影があった。
「何やってんだよ…!」
俺は通話を切ると、スマホをテーブルに放って玄関を出た。傘を持ち、エレベーターに乗って一階のボタンを押す。扉が開くのももどかしく、手で押し開けるようにしてエレベーターを降りる。
「名木ちゃん!」
傘を差し、外へ出た。途端に激しい雨が傘に叩きつけてくる。
「ばかっ、何やってんだよ!」
今更傘を差しかけたところで手遅れな程、名木ちゃんは頭のてっぺんからぐしょ濡れになっていた。
「…ごめんなさい…っ。」
うずくまっていた名木ちゃんが、泣いてるのかどうか最早分からないくらいに濡れた顔をあげる。
「会いにきちゃいけないって、思ったんだけど…。」
「いいから部屋おいで、風邪引くだろ!」
名木ちゃんを無理やり立たせ、部屋まで連れて歩いた。
スーツのジャケットとパンツをハンガーにかけ、部屋干しするときに使うハンガーラックに引っ掛けてドライヤーの風を当てる。
そんなに安いものじゃなさそうなのに。こんなに濡れるまで、何故あんな所にうずくまっていたのか。
カタン、と音がしたので振り返ると、シャワーを浴びて出てきた名木ちゃんが居心地悪そうに濡れた髪をタオルで拭いていた。
「おいで。」
手招きして名木ちゃんをソファに座らせ、ドライヤーの風を向けた。大人しくされるがままになっている名木ちゃんの髪の毛を、かき回すようにして乾かしていく。
「名木ちゃん、癖っ毛なんだね。」
「…桃瀬さんは、猫っ毛ですよね。」
「そう。だから、ちゃんとセットしないとすぐへたるんだよ。」
「髪、切りました?」
「うん、ちょっとだけね。」
あらかた乾かし終えて、ドライヤーのスイッチを切る。雨音しか聞こえない部屋の中に、沈黙が落ちる。
「…これ。」
名木ちゃんが不意に、袖が余った長袖のシャツを引っ張ってみせる。
「こないだ、部屋に来た男の人のですか。」
「…だって、名木ちゃん俺のじゃ小さいだろ。」
タンスに残ったままだった、雅孝の着替えだった。返しそびれたままずっと仕舞われていたもので、背が同じくらいだから着れるかなと軽い気持ちで貸しただけだ。
「あの人、彼氏なんですか?」
「…違うよ。雅孝とは、とっくに別れてる。」
目を背け、少し離れて隣に腰を下ろす。
「…嘘つき。」
名木ちゃんは、スウェットの膝のあたりをぎゅっと掴んで俺を見た。
「さっき見ちゃったんです。桃瀬さん、あの人の運転する車から降りてきたじゃないですか。」
「…見てたの?」
「何で嘘つくんですか。」
「嘘じゃないって、雅孝とはとっくに…」
むきになって反論しかけ、口をつぐむ。弁解しなくても、誤解させたままの方が都合がいいかも知れない。
「…好きなんですか?あの人の事、本当はまだ…。」
名木ちゃんが傷ついたように瞳を潤ませる。
「…たとえそうだとしても、名木ちゃんに関係ないでしょ。」
精一杯、冷たい言い方で突き放したつもりだったのに。
「関係なくないです。」
「どうして。」
「俺…桃瀬さんの事が好きです。」
今まで堪えていたらしい涙が一粒、名木ちゃんの頬を伝った。
「…だめだよ、名木ちゃん…。」
頬に流れた涙を拭ってやる。
「名木ちゃんには彼氏がいるだろ。」
「慶ちゃんには、はっきり言いました…桃瀬さんが好きだから、もう一緒にはいられないって…っ。」
「…だめだよ。」
かぶりを振る。名木ちゃんの顔を、まともに見られない。
「俺に本気になっちゃいけない。俺は…」
「なら何でこんなに好きにさせたんですか…!」
名木ちゃんが俺の肩を掴む。掴んだ手が、震えていた。
「…あのね、名木ちゃん。」
俺の肩を掴む手に、手を添える。
「前にも言ったけど、永遠に続くものはないんだよ。どんな幸せな瞬間にも、いつかは終わりがくる。だからこそ、今を大切にしたいって思えるんだ。」
名木ちゃんと二人、夜道を歩きながら見上げた桜を思い出す。
「一緒に桜見たよね。あの時、儚く散った桜を見て名木ちゃんは"寂しい"って言ったけれど、あの一瞬の美しさはちゃんと名木ちゃんの心に残っているだろ?…俺との関係だってそう。いつか終わりが来る事を予感したから惜しくなるし、束の間の思い出が美しく思えるんだ。」
肩にかけられた手を、そっと外す。
「俺、名木ちゃんにはずっと幸せでいてほしいんだ。この願いはきっと、俺じゃ叶えられない。俺じゃ名木ちゃんを幸せにしてあげられない。俺の命は、いつか急に強い風が吹いたら簡単に散っちゃうんだよ。あの日見た桜の一瞬みたいに、あっという間に消えるんだ。」
「…だったら、桃瀬さんのその一瞬を、俺にください。」
名木ちゃんが、俺の手を両手で掴んで握りしめる。
「いつか終わりが来てもいいから、たった一瞬でも桃瀬さんを幸せにしてあげられる権利を、俺にちょうだい。」
涙で濡れた瞳が、俺をまっすぐ見つめる。
「桃瀬さんが、好きです。」
「…名木ちゃん…。」
しばらく見つめ合った。
気がついたら、どちらからともなく唇を重ね合わせていた。
名木ちゃんに握りしめられていた手を開き、しっかり指を絡め合わせる。
何度もキスをした。一度離れても名木ちゃんが離してくれなくて、また離れたら今度は俺が名残惜しくてまた口付けた。
―いつか来る『終わり』に怯えながら、色んなことを諦めて生きてきた。
生きていることに、疲れてしまった時もあった。
だけど、ある時考え方を変えた。どうせいつかは終わってしまうなら、今目の前にある幸せを大事にしようと。いつ終わってしまっても良いように。後悔しないように。
でも、恋愛にだけは前向きになれなかった。
俺が消えてしまった後、残された相手の事を思ったら堪らなかったから。
…そう、分かっていたはずなのに。どうして、誰かを想う気持ちは自分の意思でどうにもならないんだろう。
気がついたら惹かれていた。近づいちゃいけないのに、繋がりを消したくなくて自分から何度も繋ぎ止めては突き放して。
本当は、こうなる事を望んでいたくせに。
気がつけばソファに押し倒されていて、名木ちゃんは俺の体に、直に手を触れかけ―ハッとした様子で起き上がった。
「…どうしたの?」
「ごめんなさい、俺…っ。」
慌てて俺を抱き起こそうとする名木ちゃんの手を引っ張り、抱きしめる。
「桃瀬さんっ…?」
「…いいよ、名木ちゃん。」
耳元で囁く。
「俺のこと、抱きたいんでしょ?」
「…っ!」
「いいよ。…しよ?」
そう言って名木ちゃんの服を脱がそうとすると、焦った様子で手を止められた。
「だめです、桃瀬さん!そんな事したら死んじゃうよっ…!」
「大丈夫だってば。」
泣きそうな顔の名木ちゃんの手を取り、自分の左胸の辺りに押し付けた。名木ちゃんの表情が、はっとなる。
「ほら…生きてるでしょ?」
「…っ!」
「…好きだよ、名木ちゃん。」
「…!」
俺まで泣きそうになりながら、名木ちゃんの顔を撫でる。
「…ごめんね、こんなに好きにさせて、…好きになって、ごめんね。」
「桃瀬さん…!」
堪らなくなったのか、名木ちゃんが強く唇を押し付けてくる。それに応えながら、シャツの裾をたくし上げて名木ちゃんの素肌に手を触れた。
名木ちゃんの頬を、汗が滑り落ちる。華奢なくせに広い背中にしがみつき、苦しくならないように息を逃しながら、―俺は、幸せだった。
もう、恋する事を諦めていた。
誰も好きになっちゃいけないとまで思っていた。
こんな風に二度と、好きな人と愛し合えないと勝手に思い込んでいた。
視界が白んでいく。明かりがついたままの蛍光灯が、目に眩しい。
名木ちゃん、すきだよ。
そう言ったと同時に、俺は意識を手放した。
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