第十二話 すれ違いの果てに
―朔也―
カフェの戸締りをし、裏口から出て鍵を閉めた。外はすっかり暗くなっている。
ぽつ、と顔に水滴が落ちて来た。気のせいかと思ったけれど、また更に水滴が落ちてきて雨の匂いが強くなる。
しまった、傘無いや。
どうしようかと思ったけれど、どんどん雨脚は強くなるばかりでやむ気配はない。
頭上に手をかざして顔にかからないようにしながら、近くのコンビニへ向かって歩き出す。
車のヘッドライトが眩しい。そう思ったら、隣に黒塗りの外車が横付けされた。ウインドウが開く。
「…乗れ。」
運転席の雅孝を見て、俺は露骨に顔をしかめた。
「いいって別に。」
無視しようとしたら、大粒の雨が勢いよく降ってきた。
「早く、濡れたらまた熱出るぞ。」
強い口調で促され、仕方なく助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締めると同時に走り出す。フロントガラスを叩く雨粒の音が激しさを増していく。
「…この間から、随分と都合のいいタイミングで現れるよね。」
嫌味を言うと、今日はたまたまだ、と低い声で返事が返ってくる。横を見ると、雅孝は意味もなく鼻先をこすった。
「…嘘つき。」
小声で呟く。昔から、何か誤魔化すときに鼻を触る癖は変わらない。
「…今日、は?」
言い方に引っかかり、聞き返す。
「こないだ倒れた時は、渡辺先輩から連絡もらったんだ。」
「裕斗が?何で?」
「あの若いの、渡辺先輩の会社の後輩なんだろ。」
あの夜、急に部屋に来た名木ちゃんの事を思い出す。
「…そういう事か、裕斗のやつ。」
余計なおせっかいをしてくれて。あんなところ、名木ちゃんに見られたくなかったのに。
「ていうか…どうやって部屋入ってきたの、お前。」
玄関はオートロックだし、あれだけ気が動転していた名木ちゃんが、勝手に人の部屋の鍵を開けたとも思えない。
「まだ合鍵持ってたから。」
雅孝はそう言って、スーツのポケットから鍵を出して見せてきた。
「返すの忘れてて助かった。」
俺は、雅孝が手にした合鍵をじっと見つめた。過去の記憶が脳裏によみがえる。
―雅孝と知り合ったのは、今から5年前。
その頃は体調が今より良くて、俺は池袋にあるダーツバーでバーテンダーとして働いていた。
「おっ、桃瀬じゃん!久しぶり。」
「裕斗。」
当時まだ就職したばかりの裕斗が、友人達を連れてたまたまバーにやって来た日があった。
「高校の卒業式以来じゃん。こんな所で働いてたんだ。」
「そう、バーテンダーやってみたかったんだよね。かっこいいじゃん?」
「いいよなあ、家が金持ちだと自由に好きなことが出来て。」
何気ない裕斗の言葉に黙って苦笑を返すと、慌てた様に「そういえば体調どう?」と聞かれた。
「最近は元気だよ。」
「まじ?」
「じゃなきゃ、こんな場所で夜遅くまで働いていられないって。」
何か飲む?とグラスを手に取ると、裕斗の隣に近づいてきた人影があった。
「渡辺先輩の知り合いですか?」
「おお、こいつ桃瀬。高校の時の友達。」
裕斗が俺を見る。
「大学の後輩でさ。やっと酒飲める年になったから遊びに連れて来たんだよ。」
「柳雅孝です。」
低い声、ちょっと見上げてしまうくらいの長身。やっと酒が飲める、ということは二十歳になったばかりだろうか。それにしてはやけに落ち着いた空気を纏った男だった。
「よろしく、柳君。」
「雅孝でいいです。」
「そう?じゃあ、雅孝。」
それが、俺と雅孝の最初の出会いだった。
初めて連れてこられたダーツでいきなり勝てるはずもなく、雅孝は散々に負かされては罰ゲームと称してテキーラを飲まされていた。
「だいじょうぶ?もうやめなよ、そろそろ意識飛ぶよ?」
三杯目くらいのテキーラショットを作りながら雅孝に忠告したけれど、クールな顔して負けず嫌いなのか、大丈夫です、と強がりを口にしてショットグラスを手に取ろうとするからさすがに止めた。
「…やめなって。」
ちらりと裕斗達の様子をうかがう。あっちもあっちで出来上がっていて、こちらの様子は気にしていない。
「ちょっと待って。作り直す。」
雅孝からショットグラスを取り上げ、中身を半分以上捨てて烏龍茶で割ってやる。
「ほら、これ飲んで来い。ばれやしないから。」
「でも、これじゃ。」
「充分罰ゲームだろ、きっと美味しくないよ。」
そう言って笑ってやると、ずっと仏頂面だった雅孝の口元に微かに笑みが浮かんだことを覚えている。
その数日後、突然知らない番号から電話がかかってきた。出てみると雅孝で、裕斗に番号を聞いてかけてきたらしい。
「二人で飯行きませんか。」遠慮がちに誘ってきた声は、見た目の雰囲気に似合わず緊張していた。
それをきっかけに、時々誘われて二人でご飯を食べに行くようになった。
特に共通の趣味があるわけでも無かったけど、何となく雅孝の隣は居心地が良かった。
「コーヒーとお酒、飲めないんだ。」
ある時そう言った。行きたいところがある、と連れてこられた、とあるバーの前だった。
「バーテンダーなのに、お酒が飲めない?」
「よく言われるけどね。一杯飲んだら潰れちゃうよ、俺。」
「…じゃあ、酒飲まなくても良いんで付き合ってもらえませんか。」
「良いけど。」
木目調の重い扉を開けて中に入ると、特に変わったところも無い、普通のカウンター式のバーだった。
「ジントニック。」
聞き慣れた低い声でシンプルなカクテルをオーダーすると、雅孝はこちらを向いた。
「朔也さんは、何を。」
「じゃあ…いちごミルク。」
ちょっとおどけてマスターの方を見ると、黙って頷いてくれた。
「バーで、いちごミルクですか。」
「良いじゃん?俺、お茶も飲めないからさあ。」
「甘いものが好きなんですね。」
「いや、苦いのがだめなの。」
「それは知らなかった。」
目の前に、太めのストローが刺さったミルキーピンクのグラスが置かれた。雅孝が、軽くグラスを合わせてくるのでそれに倣う。
「話したいことでもあった?」
大きめのイチゴの粒を口の中で転がしながら問いかける。雅孝は驚いた様に俺を見た。
「どうして?」
「んー…何か、緊張してない?」
「そんな事ないですよ。」
言ってる事とは裏腹に雅孝は一気にグラスを空にすると、ウォッカベースの強いカクテルの名前を口にした。
「飛ばすねー。」
苦笑しながら、少しずつ甘いミルクを口に含んだ。
二杯目のカクテルもほとんど無くなってきたところで、朔也さん、と静かに名前を呼ばれた。
「何?」
「彼女とか、います?」
「いないけど。」
「…。」
雅孝は手にしたグラスを傾けたまま、口をつけようとしない。
「どしたの、急に。」
「いえ…」
「雅孝は付き合ってる子いるの?」
「いません。」
「なんだ、じゃあ好きな子は?」
「…います。」
「おっ、どんな子?」
ドアが開く音がして、一組のカップルが入ってきた。雅孝の隣を一席空けて、並んで座る。
「…可愛い人です。」
雅孝はこちらを見ようとせず、控えめな照明の反射するグラスの水面を見ていた。
「へえ。年上?」
可愛い子、ではなく、人、という言い方に引っかかって聞き返した。
「…そうです。」
マスター、と、隣のカップルの彼氏が呼ぶのに反応して、カウンターの中の店主がグラスを磨く手を止めてそちらを向いた。
雅孝が顔を上げた。目があった。残り少なくなった、いちごミルクのグラスに添えていた左手を不意に掴まれた。視線を落とす。
大きい手だな、と思った。握ってくる力の強さに驚いて顔を上げたら、随分近くからアルコールの匂いがした。
一瞬、息が止まったのかと思った。
注文を聞き終えたマスターが再び正面を向く。ゆっくりと、瞬きをしてみた。鼻がぶつかりそうなくらい近くに、雅孝の顔があった。
「…雅孝。」
「…。」
「…酒臭い。」
え、と小さく声を漏らして、雅孝は自分の口元を押さえた。
「…すいません。」
「やめてよねー、俺まで酔っちゃうじゃん。」
笑いとばそうとして、うまく笑えなかった。ほとんど水っぽくなってしまったいちごミルクのグラスを引き寄せ、残ったミルクを吸いこんだ。
店を出たところで、さっきはすいません、と謝られた。
「朔也さんが好きです。俺と付き合ってくれませんか。」
酔いの醒めた真面目な表情で正面から告白されて、何となく頷いてしまった。
さすがにいきなりキスされるとは思っていなかったけれど、俺の事好きなのかな、とは薄々思っていたし、告白された事には特に驚かなかった。そんな風にして、俺たちは付き合い始めた。
雅孝は名前を聞けば誰でもすぐに社名のロゴを思い出せるような大企業の御曹司で、そんな男が何でまた俺なんかに…と思ったりもしたけれど、顔に似合わず優しい一面のある雅孝に、段々と俺も惹かれていった。
―だけど俺は雅孝に、自分の体の事を話さなかった。
体が弱い事には気付かれていたけれど、深く突っ込んで聞いてはこないから、何となく黙っていた。
あまり口にしたくなかったし、気を使われるのも嫌だった。あの頃の俺はまだ今みたいに、自分で自分の事を受け入れられていなかったからかもしれない。
そんな風にしてずるずる付き合い続け、ある日部屋に行った時、不意にベッドに押し倒された。
…ああ、そっか。付き合ってたらこういう事もするんだっけ。
他人事のように醒めた頭でそう考え、今更無理だとも言えず、そのまま流されて寝てしまった。
終わってみれば心配していたほど体は何ともなくて、なんだ…大丈夫じゃん俺、と思ってしまった。
それが多分、間違いだった。
―あの日は、雨が降っていた。
俺は朝から具合が悪くて、食べ物もほとんど口に出来ずにベッドでずっと寝ていた。
心配した雅孝が部屋まで来てくれて、ほっと安心してベッドから体を起こした。…その瞬間だった。
突然、心臓を鷲掴みにされたような苦しさが襲いかかってきた。
上手く呼吸が出来ずに胸を押さえてうずくまった俺を見た雅孝は、当然の事ながら気が動転して大慌てで救急車を呼んだ。運び込まれた総合病院はたまたま俺が通っていた所で、その当時救急センターで研修医をしていた世良が処置に当たってくれたと後で聞いた。
世良は雅孝に薬を見せ、「発作を起こしたらとにかくこれを飲ませろ」と説明したらしいけれど、そもそも俺が心臓に病気を抱えている事を知らなかった雅孝は困惑したらしく、発作が落ち着いてから世良に「どうして付き合ってる相手にすら病気の事を黙っていたんだ」と怒られた。
どうしてと言われても、答えられなかった。
自分が病気だと認めたくない気持ちが残っていたのかもしれない。
雅孝に、本当は気を許していなかったのかもしれない。
退院した日、雅孝は悲しそうな表情をしていた。
「ごめんね、黙ってて。」
車で迎えに来てくれた雅孝に言った。
「隠してたわけじゃ無いんだ。」
雅孝は何も言わなかった。呆れられたかな、と、少し悲しくなった。
何も会話の無い車中はすごく息苦しくて、雅孝がいつも吸っているタバコの匂いだけが、やたらと鼻について仕方がなかった。
合鍵が欲しいと言われたのは、この頃だった。
何かあったらすぐ駆けつけるから。そう言われて鍵を渡した。薬箱がある場所も教えた。いざと言う時どうしたらいいのか、事細かに聞いてくる雅孝に色々と説明もした。
雅孝は優しかった。
その後、二度と俺の体を求めて来なかったし、俺に無理をさせないよう、とにかくあれこれと気遣ってくれるようになった。
嬉しかったけれど、同時にすごく悲しかった。
俺は恋人と抱き合う事すら出来ない体で、なのにこんなに恋人に気を遣わせて、一体これからどうやって雅孝と付き合っていけばいいのか、分からなくなってしまった。
「別れて欲しい」と最初に切り出した時、雅孝はまともに聞いてくれなかった。俺が好きでそばにいるだけだから、と言って頑なに別れてくれようとはしなかった。
だけどそんな関係は、俺の方が限界だった。
「もう無理だよ」
ある日そう言った。
「恋愛するには、俺の体はもうしんどいんだ。」
わかった、と雅孝は言った。それから、部屋に来なくなり連絡も来なくなった。
今から、半年前のことだった。
マンションの駐車場の空きスペースに車が停まったところで、俺は雅孝に「合鍵返して。」と言って手を出した。
「もう、雅孝にこれ以上甘えるわけにはいかないから。」
「…俺とやり直すつもりは、無いんだな。」
「…うん。」
分かった、と、雅孝は俺の手に合鍵を載せてくれた。
「好きなのか。」
「え?」
「あの、若いの。」
―桃瀬さん、と呼ぶ声が耳元で聞こえた気がした。
「…うん。」
頷き、足元へ視線を下げる。
「言うつもりなんか、無いけどね。」
合鍵を握りしめる。
「でも、これはけじめだから。」
内側のロックを外し、ドアを開けて外に出る。
「…雅孝。」
閉める前に振り返った。
「今まで、ありがとう。」
「…ずるいよな、ほんと。」
ふっと、片側の口角だけ挙げて雅孝が笑ってみせる。
「振るんだったら思い切り冷たく振れよ、そんな優しさいらないから。」
―透人―
帰ってくると、「お帰り。早かったな。」と慶ちゃんが出迎えてくれた。俺の顔を見てぎょっとする。
「どうした、泣いたのか?」
「慶ちゃん…。」
堪えきれず、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「何だよ、何かあったのか?」
いつになく優しい声でそう言って抱きしめてくれる慶ちゃんの体を押しのけた。
「ごめんなさい…ごめんなさい、慶ちゃん…っ。」
「何?」
「もう俺、慶ちゃんと一緒にいられない。」
呆然としている慶ちゃんの顔を見て、はっきり言った。
「俺、桃瀬さんの事が好きなんだ…!」
慶ちゃんは一瞬驚いた顔をして、すぐに申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「…俺が透人の事をほったらかしにしていたのが、いけなかったのかな。」
「違う…慶ちゃんは悪くないよ。寂しいと思ったこともあったけど、でもそうじゃない…。」
頬に流れた涙を拭う。
「慶ちゃんが俺を大事に思ってくれていることは、分かってる…だけどもうダメなんだ、ごめんなさい…!」
「おい、透人?!」
慶ちゃんが止める声も構わず、俺はマンションを飛び出した。
鞄は玄関に落としてきてしまったから、ポケットにはスマホしか無い。
桃瀬さんの番号を表示させる。何度もタップしようとしては躊躇っているうちに、画面の上に大粒の雨が落ちて来た。
慌てて、近くのバス停の屋根の下へ入る。…どうしよう。
いつか、渡辺さんに教えてもらった桃瀬さんのマンションの住所を表示させた。ここのバス停から乗れるバスで、近くまで行けたはず。
電話をかけるのも躊躇うくせに、部屋まで行ってどうするのか。
現実的な思考を振り払うように、俺はやってきたバスに乗り込んだ。
バスを降りると、さっきとは比べ物にならないくらい雨脚が強くなっていた。
小走りに桃瀬さんのマンションがある方へ走る。革靴がバシャバシャ音を立てて水たまりを跳ね上げる。もうこの靴はだめかもしれない。
桃瀬さんのマンションが見えた。濡れた前髪を伝って落ちてくる水滴を拭い、敷地へ足を踏み入れる。
車のヘッドライトが見えた。あそこが駐車場なのか。とりあえず雨宿りしようと歩き出しかけ、立ち止まった。
桜色の髪の人が、黒塗りの車から降りてくる。…桃瀬さんだ。
運転席に向かって何か話しかけている。運転してるのは…。
「…何だ。」
思わずつぶやく。
「やっぱり、まだ付き合ってたんじゃん…。」
桃瀬さんが助手席のドアを閉め、マンションのエントランスへ消えて行っても、しばらくその車は駐車場から動かなかった。
俺は近づくことも立ち去ることもできずに、雨に打たれて立ち尽くすしかなかった。
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