第十一話 全てが恋しくて

―透人―

「…はい、ではそのように…よろしくお願いいたします。」

得意先との電話を終え、受話器を置いて息をつく。

最近になって、少しずつ任される仕事も増えてきた。嬉しいことだけれど、お陰でなかなかコーヒーを飲みに行く暇がなくなってしまった。…もちろん、そこまでしてコーヒーを飲みたいわけじゃない。

ずっと桃瀬さんの様子が気になっている。

何度も電話しようとした。その度に色々な事が脳裏にちらついて、結局通話ボタンを押す勇気が出ないまま。

遠巻きに様子を見に行こうにも、忙しくてなかなか昼休みも外へ出られない日が続いていた。

「戻りましたー、暑かったー。」

外から戻ってきた渡辺さんが、暑そうにジャケットを脱ぐ。

「外暑そうやね。」

隣の席の佐伯さんが、渡辺さんに声をかける。

「めっちゃ暑いよ。でも午後から雨降るって言ってなかったっけ。」

ネクタイまで軽く緩めた渡辺さんは、俺ちょっと飲み物買ってくるわ、と再び席を立った。

ハッと思い付き、その背中を追いかける。ちょうど昼休みの時間だ。

「渡辺さん。」

「お?どうした、名木ちゃん。」

「コーヒー飲みたくないですか?」

「コーヒー?何、奢ってくれるの?」

「俺、買いに行ってきます。」

渡辺さんは困った顔になった。

「んー、さっき外出た時に飲んじゃったんだよな。」

「…そうですか。」

せっかく良い口実を思いついたと思ったのに。

「もしかして、桃瀬の様子が気になるの?」

不意に言い当てられて、もろに動揺が顔に出た。どんどん頬に熱が溜まっていくのが分かる。

「やっぱり。そんな口実作らなくたって、素直に会いに行ってこればいいじゃん。」

渡辺さんは自販機の麦茶のボタンを押すと、スマホをかざした。ガコン、と重い音を立ててペットボトルが落ちてくる。

「もしかして柳に遠慮してるの?」

「えっ…何で…!」

どうして渡辺さんがあの人の事を?!

「ごめんね、あいつに連絡したの俺。名木ちゃん一人じゃどうしようもないかなと思ってさ。」

「渡辺さん、一体あの人とどういう…」

「あ、ちょっとごめん。」

渡辺さんは懐のガラケーを慌てて開くと、焦った様子で足早にどこかへ歩いて行ってしまった。どこか得意先からの電話だろうか。

渡辺さんの背中を見送ったまま呆然としていると、突然背後から佐伯さんにがばっと抱きつかれた。

「名木ちゃん、こないだのフラペチーノ買うて来てや。」

「え…?」

「コーヒー買いに行くんやろ?」

はい、と千円札を渡してくれる。顔を見ると、佐伯さんはいたずらっぽく片目をつぶった。

「…行ってきます!」

千円札を握りしめ、俺は急いでエレベーターへ飛び込んだ。


渡辺さんが言っていた通り、外の日差しは半端じゃなく暑い。

横断歩道を渡り、桃瀬さんが働くカフェの扉の前に立つ。ガラス窓からそっと覗くと、若い女の子を相手に接客している桃瀬さんの姿が見えた。髪を切ったのか、少し短くなっている。

良かった、元気そう。

木目調のドアを開ける。カラン、とカウベルが軽やかな音を立てた。

「いらっしゃいま…」

言いかけた桃瀬さんの表情が、俺を見て固まった。

一瞬目を逸らしかけ、思い直したように再び俺を見る。その目に何とも言えない複雑な色が浮かんでいた。

…来ちゃいけなかった?どうして、そんな顔をするの。

いつもなら、笑って「名木ちゃん」て呼びかけてくれるのに、桃瀬さんは、「ご注文は?」と言ったきり目を合わせてくれない。

「あの…ダークモカチップフラペチーノ、を。」

佐伯さんがこの間飲んでいたフラペチーノの名前を言うと、桃瀬さんは黙ってレジを打ち、「500円です。」と言ってトレイを俺の前に置いた。

佐伯さんから預かった千円札を置く。レジを打ち、おつりの五百円玉を渡そうとしてくれた桃瀬さんの白い手を思わず掴んだ。

「体、大丈夫なんですか。」

桃瀬さんは驚いて俺を見たけど、すぐに困ったように俯き、そっと俺の手をどけた。

「…ごめんね、迷惑かけて。もう大丈夫だから。」

座ってて、と小声で言って、カウンターの奥へフラペチーノを作りに行ってしまう。

俺は近くの二人掛けの席に座り、桃瀬さんの姿を目で追っていたけれど、段々辛くなってきてテーブルに視線を落とした。

迷惑だったかな。

あの日の夜、慣れた手つきで桃瀬さんを抱き上げた雅孝さんの姿を思い出す。俺を睨んだ、鋭い眼光も。

きっと、あの人はまだ桃瀬さんの事が好きなんだ。ひょっとしたら、桃瀬さんも…。

「…お待たせ。」

トン、とフラペチーノの入った紙袋がテーブルに置かれて顔を上げた。

「…ありがとうございます。」

お礼を言って、紙袋を引き寄せる。

会社に戻らなきゃ。そう思うのに、足が動かない。桃瀬さんも、カウンターに戻るわけでもなく俺の傍に立っている。

「この間、さ。」

桃瀬さんが不意に口を開いた。

「名木ちゃんの彼氏さんがここに来たよ。」

「うそっ…?!」

驚いて顔を上げる。どうして慶ちゃんがここに?!

「うちの透人に近づくな、って言われちゃった。」

「そんな…っ。」

桃瀬さんが困った様に笑う。

「名木ちゃん愛されてるじゃん。良かったね。」

どこか寂し気なその表情に、胸が締め付けられる。

「俺、もうここのカフェ辞める事にしたから。」

「え?!どうして…?!」

「ちょっと無理して働きすぎたみたい。しばらく休もうかなって。」

だからこれが最後だよ、そう言って桃瀬さんは紙袋の中からキャラメルラテを出してみせてくれた。

「今日は暑いから、アイスにした。」 

「…桃瀬さん…っ。」

キャラメルラテをしまい、はい、と俺の手に紙袋を持たせてくれる。

「今までありがとう、名木ちゃん。彼氏と仲良くするんだぞ。」

いつもみたいに明るく笑った桃瀬さんの手が俺の頭に伸び、思い直したように、肩をぽん、と叩いてくる。

「…ほら、戻らないと。休憩終わっちゃうでしょ?」

言われて腕時計を見ると、確かにもう休憩時間はいくらも残っていなかった。

「桃瀬さん、あの…っ」

何か言いかけたのを押しとどめるように、桃瀬さんの小さい手が俺の口を軽く塞いだ。

だめだよ、と唇の動きだけで言った桃瀬さんの目が泣き出しそうに見えたのは、俺の気のせいだろうか。


会社に戻り、佐伯さんにフラペチーノとおつりを渡した。

「どうやった?桃瀬さんの様子。」

聞いてくる佐伯さんは、やっぱり分かっていたらしい。

「…元気そうでした。」

「なら良かったけど、今度は名木ちゃんが元気なさそうやないか。どないしたん?」

「何でもないです。」

そう言って、営業部を出て自販機横の休憩スペースに腰を下ろした。

紙袋から、桃瀬さんが作ってくれたアイスキャラメルラテを取り出す。早く飲まないと、休憩時間が終わってしまう。

紙スリーブには、当然何も書いていなかった。メッセージの書かれた紙スリーブ、無くしてしまったのに。

ストローに口をつける。冷たくて甘いキャラメルラテ。たぶん、ミルクの量が多いんだ。コーヒー飲めないんだ、と言ってホットミルクを飲んでいた桃瀬さんの事を思い出す。

急いで飲んで、ごみ箱にカップを捨てようとした。プラスチックごみと分ける為に紙スリーブを外す。

「…え…?」

紙スリーブに隠れていたカップの側面に、黒マジックでメッセージが書いてある。

『なぎちゃん、わらって!』

ぽた、と、カップの上に雫が落ちた。うるうると視界が歪んで、とうとう喉の奥から嗚咽がこぼれてくる。

「桃瀬さん…っ!」

涙が止まらず、苦しくなってその場にしゃがみ込んだ。鼓動が胸の奥で痛いくらい高鳴る。

思い出す、明るい笑顔。柔らかそうな桜色の髪。心配になるくらい白い肌。小さな手の感触。

もうだめだ。もう誤魔化せない。

桃瀬さんが、好きだ。

心がちぎれそうなくらいに、恋しい気持ちが止まらない。

心配した佐伯さんが探しに来るまで、俺はその場から動けなかった。

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