第十話 無くしてから気づくこと
―慶一―
照明の絞られた薄暗い店内に、控えめな音量のジャズピアノが流れている。
手に持ったロックグラスの氷が、カラリと音を立てる。琥珀色の液体はかなり薄まってしまって酒の匂いがしない。
「…もう一杯、同じものを。」
カウンターに立つ白髪のマスターにグラスを上げて見せる。マスターが頷いたのを確認してから、グラスに残ったウイスキーを喉に流し込んだ。
大学生の頃に時々来ていたバーだった。あの頃はかっこつけたくて、わざと度数の高い酒を頼んでは悪酔いしていた事を思い出す。
教師になってからは酒を飲むのも付き合い程度に減っていた。久しぶりに流し込んだウイスキーが胃を熱くする。
目の前に、さっきと同じデザインのグラスに入ったスコッチウイスキーが置かれた。
手に取ろうとした瞬間、背後から色白の細い指が伸びてきてウイスキーグラスを掠め取られる。
「何そんな飲んだくれてるんだよ、珍しい。」
振り返ると、久しぶりに見る顔がにやにやしながら俺を見下ろしていた。
「…世良。」
返せよ、とグラスを奪い返そうとするが、からかうように世良はひょいとグラスを高く上げてしまう。
「何飲んでるんだよ?」
立ったまま勝手にひとのグラスに口をつけ、世良は顔をしかめた。
「うっわ、強い酒飲みやがって。」
世良はようやくグラスを置くと、「マスター、俺ジントニックね。」とカウンターに向かって呼びかけ、隣の席に腰を下ろした。
「どうした、ここで見かけるの久しぶりじゃん。」
高校時代からの友人である世良とは、酒が飲める年になってからよく二人でこのバーに出入りしていた。
「お前こそ、医者がこんなところで酒飲んでていいのかよ。」
「今日はもう非番だからね、PHSも置いてきてやったさ。」
マスターがジントニックを世良の前に置く。俺は、黙って自分のウイスキーグラスに口をつけた。
「何、透人チャンと喧嘩でも?」
軽い調子で聞いてくる世良は、俺と透人がどこで知り合ってどういう関係になったのかも全部知っている。俺が酔った勢いで、このバーで洗いざらい話したことがあるからだ。何度か直接、会わせたこともある。
「…俺は、何か間違っていたのかな。」
呟くと、世良は続きを促すようにこちらの様子をうかがいながら、ジントニックを口に含んだ。
「4年も一緒に住んでるのに、余計に距離が遠くなった気がするんだ。」
「倦怠期か?」
「いや…。」
グラスを置いた。溶けかけた氷が傾いて音を立てる。
「俺はうまくやっているつもりだったんだけど、あっちは違ったらしい。」
「浮気でもされましたか。」
冗談ぽく聞いてくる世良に、「みたいだな。」と返す。
途端に吹き出す世良。
「まじ?うけるな。」
「何がおかしいんだよ。」
「いやー、あの真面目っ子チャンが浮気するような甲斐性身に着けたのかと思うと、笑えるなって。」
世良は頬杖をつき、透明なグラスに浮いた水滴を細い指でなぞる。
「高校生の頃はお前一筋で、一途だったもんなあ。…それに甘えちゃったか?」
「…。」
黙ってウイスキーを舐める。脳裏に、まだ高校生だった頃の透人の顔が浮かんだ。
「俺の幼馴染が、さ。」
世良は、半分近く減ったジントニックのグラスを傾けた。
「ほら、前にも話したじゃん。心臓が悪くて、俺が今、主治医してんの。」
「…ああ。」
「あいつがよく言うんだよな。永遠に続くものなんてあるわけないって。何でそんな希望も何も無いこと言うんだよって言い返したら、なんて言ったと思う?」
「…さあ。」
世良は小さく笑って俺を見る。
「どんなものも、限りがあるから美しいんだって。何もかも永遠に続いていたら、その内にありがたみも喜びも、何も無くなるんだってさ。だから、今目の前にある幸せを大事にしなきゃいけないんだって。そうやって少しでも長く、その幸せが続くように。」
世良はそう言うと、残っていたジントニックを飲み干し、空になったグラスを置いた。
「何があったか知らないけど、一回きちんと向き合ったら?浮気されてプライド傷ついたかも知れないけど、『永遠に続くものなんてない』んだからさ。まだ終わらせたくないんだったら、努力する事も必要なんじゃない?」
「…そうかもな。」
酔いが回って覚束ない手つきで、飲みかけのウイスキーグラスを置く。
飲んでやろうか?と笑う世良の方へ、押しやるようにグラスを滑らせた。
部屋に帰る頃には日付が変わってしまっていた。
音を立てないようにそっと鍵を開け、玄関の戸を閉める。廊下の明かりがつきっぱなしだった。
まだ起きているのかと思いながらリビングを覗くが、透人の姿はない。部屋を覗くが、ベッドが空だった。
まさか、出て行ったのか?
だとしても、自分にそれを責める資格は無い。ため息をつきながら自分の部屋に入り、立ち止まった。
俺のベッドで、枕にしがみつくようにして透人が寝息を立てている。泣き腫らしたように目尻が赤い。
「…透人。」
小声で呼びかける。すっかり眠っているのか、華奢な肩が静かに上下するだけだ。
傍らにしゃがみ、赤くなった瞼にそっとキスを落とす。身じろぐ気配がした。
「…慶ちゃん…?」
薄ら目を開いた透人が、俺の姿を認めて数回瞬きする。
「…ごめんな、透人。」
そう言って前髪をそっと撫でると、透人は微かに首を横に振った。
「ううん…。帰ってきてくれて、良かった…。」
「…ごめん。」
頬を撫で、そっと口付けた。怯えた様子で突き飛ばしてきた今朝とは違って、いつも通りに応えてくれる。
そのまま、朝までしっかり抱き合って眠った。
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