第九話 壊れてゆく

―透人―

ショックな気持ちを抱えたまま部屋に帰ってくると、ちょうどシャワーを終えて歯を磨いていた慶ちゃんと鉢合わせた。

「お帰り。友達の見舞いは済んだの?」

「…ただいま。」

目も合わせずにリビングへ向かい、鞄を床に放ってソファへ沈み込む。

脳裏にまだ焼き付いている、マサタカと呼ばれた男と桃瀬さんのキスシーン。

もちろんあれは薬を飲ませるため、咄嗟に口移しをしたに過ぎない。

分かっている。だけど、あれはまるで…。

「どうかしたわけ。」

歯磨きを終えた慶ちゃんが隣に座る。

「そんなに友達の具合悪いの?」 

「…うん、そうだね。すっごく悪いみたい…。」

「風邪ひいたとかじゃなく?」

「…分からない。」

力なく答える。…そう、分らないんだ。

当たり前だけど、俺は桃瀬さんについて何も知らない。

まさか心臓が悪かったなんて。あんなにたくさん薬を飲んでいたなんて。

―別れたと言っていたはずの彼氏が、まだ合鍵を持っていたなんて。

「…シャワーしてくる。」

立ち上がり、スーツのジャケットだけハンガーにかけて俺は風呂場へ入った。


✴︎✴︎✴︎


様子のおかしい透人の背中を見送り、宮城慶一みやぎけいいちはテレビをつけようとチャンネルに手を伸ばした。

足元に、透人が放った鞄が当たって転がる。ため息をつきながら倒れた鞄を起こすと、何かが床に落ちた。

「…何だこれ。」

拾い上げてみると、どこかのカフェの紙スリーブだった。

どうしてこんなものを?

不思議に思って何気なく裏返すと、目に飛び込んできたのは『なぎちゃんがんばって!ももせ』というメッセージと、電話番号。

「誰だ、モモセって…?」

怪訝に思いながら、ここ最近の透人の様子を思い返す。

やたらと多い、遅くなるという連絡。見舞いから帰ってきてからの、どこか沈んだ表情。

脳裏に、嫌な予感が閃いた。

慶一は咄嗟に紙スリーブをスウェットのポケットにしまうと、透人がまだシャワーしている物音を確認して自室へ姿を消した。


✴︎✴︎✴︎


―朔也―

土曜日の午前中は、平日に比べて比較的静かだ。目覚めのコーヒーを買って行くサラリーマンがいない代わりに、午後からは若い女性客で混みあうけれど。

今のうちに掃除しておこう、と箒とちりとりを手に外へ出る。扉にかけたカウベルが軽やかな音を立てた。

ようやくの事で熱も下がり、10日ぶりに昨日から出勤している。無理が祟ったとしか思えず、シフトを大幅に減らしてもらった。融通がきくところがここのカフェの良いところだ。

街路樹から落ちて来た葉っぱや、キャンディの包み紙のポイ捨てをちりとりの中に掃いていると、ふと近くに人が立つ気配がして顔を上げた。

「モモセってあんた?」

「…はい?」

返事をして首をかしげる。

涼しげな目元。どこかで見たような。

「あー、名木ちゃんの彼氏サン!…どうかしました?」

みるみるうちに険しさを増した目を見返す。

「分かっていてやってるのか、あんた。」

「何が?」

名木ちゃんの彼氏はポケットに手を突っ込むと、あるものを出して俺に見せた。

…さすがに、真顔になった。

「こんなの、まだ持ってたんだ。名木ちゃん…。」

メッセージが書かれた紙スリーブ。ここのカフェのロゴが入っている。どうして彼氏がここを探り当てたのかようやく合点がいった。

そして、用件も見当がつく。

「これ以上、うちの透人に近づくな。」

怒気を孕んだ声で凄まれても、俺は苦笑するしかない。

「ご心配なく、俺そんなつもりないし。俺はただ、名木ちゃんと仲良くなりたかっただけです。」

「俺が彼氏だって分かってて近づいたのか。」

「だから、そんなんじゃないって…。」

言い返しながら、段々と腹が立ってきた。

「そもそも、何で先に名木ちゃんに話聞かないわけ?あんた普段ちゃんと、名木ちゃんと話してるのかよ。」

「何?」

「知ってます?」

俺は、名木ちゃんがどれだけ仕事でストレスを溜めているのか、どれだけ色々と頑張っているのかを話して聞かせてやった。主に、一回だけご飯を食べに行った時に聞いた愚痴の内容だけれど。

「あんた、ちゃんとそういう話聞いてやってるの?」

彼氏の手から、紙スリーブを奪う。

「こんな紙切れひとつで動揺して…」

びり、と目の前で破ってやる。

「所詮、あんたと名木ちゃんの間にある気持ちなんて、その程度って事でしょ?」

呆然としている彼氏の手に、破った紙スリーブを返す。

「じゃあね、俺仕事あるんで。」

カフェの扉を開け、入る前にもう一度振り返る。

「もう一回言っておくけど、俺と名木ちゃんの間には何もないから。あの子の事、責めないでよ。」

返事はなかったけれど、俺は気にせず扉を閉めた。


―透人―

洗濯物を干し終えてベランダから部屋の中へ戻ると、玄関が開く音がした。

「慶ちゃん?もう帰ってきたの?」

スリッパをパタパタさせながら玄関を覗きに行くと、靴を脱いで上がってきた慶ちゃんの表情が険しかった。

「?…どうかした?」

慶ちゃんは何も言わず、突然俺の肩を掴むと壁に押さえつけた。

「何っ…?!」

有無を言わさず、唇を塞がれる。驚いて目を見開いた。

「んっ…!」

押しのけようとしても、押さえつけてくる力の方が強くて身動きが取れない。キスの仕方があまりに乱暴過ぎて、段々と恐怖心が湧き上がってくる。

「…や…っ!」

耳の中を舐められ、服の中に手を入れられる。さすがに限界だった。

「…っ嫌だってば、こんなとこで!」

力任せに慶ちゃんを突き飛ばした。肩で息をしながら、体が震え出すのを止められなかった。

「何?どうしたの慶ちゃん…っ、変だよ何か…!」

「変なのはお前だろ…!」

いつも冷静な慶ちゃんが、珍しく取り乱した様子で俺を見る。

「あのモモセってやつと、どういう関係なんだ?!」

頭が真っ白になった。

「何で桃瀬さんのこと…っ。」

「浮気してるのか。」

「違う!」

勢いで否定してから、桃瀬さんに言われた事を思い出す。

『…名木ちゃん、彼氏に黙って俺に会いに来たこと、やましいって思ったでしょ。』

『ならだめだよ、もう立派に浮気。』

「…違うよ…。」

暴れる心臓を宥めるように、胸元をかき抱く。

「違うよ、そんなんじゃない…桃瀬さんとは何も…っ!」

「…もういい。」

「慶ちゃん!」

「頭冷やしてくる。」

「待ってよ、ちょっと…!」

追い縋った手を振り払われる。慶ちゃんは、部屋を出て行ってしまった。

夜になっても、帰ってこなかった。

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