第八話 恋に臆病になる理由

―透人―

「桃瀬さん…っ。」

渡辺さんとの通話を終え、キッチンでうずくまったままの桃瀬さんの側に寄る。

「立てますか?ベッドに行きましょう…っ。」

「…っ。」

桃瀬さんは目をキツく瞑ったまま、首を横に振る。

「どうしよう…。」

―ガチャン。

「?!」

心臓が跳ね上がった。どうして玄関の鍵が…オートロックのはずなのに…!

扉が開く気配がする。俺は反射的に立ち上がった。

「誰…?!」

廊下に出る。髪の毛をきっちりセットし、明らかにどこかのブランド物だと分かるスーツを着こなした背の高い男が、俺を見て眉を顰めた。

「あんた?渡辺先輩の後輩って。」

渡辺先輩、と言われて、さっき電話した渡辺さんの顔が思い浮かぶまでに数秒要した。

「…誰だよ、あんた。」

「どけ。」

肩を押され、たたらを踏む。男は、「朔也!いんのか。」と部屋の中へ向かって呼ばわった。

「ちょ、待てよ!」

男の背中を追う。男はキッチンへ目をやると、倒れている桃瀬さんに気が付いたのか腰を落とした。

「おい、朔也。」

「…っ、雅孝…?」

顔を上げた桃瀬さんが、男に気付いて驚いた表情を浮かべる。

マサタカ?名前を知ってるってことは、知り合い…?

「苦しいのか。」

雅孝と呼ばれた男が、桃瀬さんに向かって低い声で問いかける。

その直後だった。

ずっとうずくまって荒い呼吸を繰り返していた桃瀬さんが、突然胸を押さえ、きつく眉間に皺を寄せた。

「……っ!!」

「桃瀬さん?!」

駆け寄ろうとしたら、男に突き飛ばされた。

「いっ…!」

壁に背中を打ち付ける。

「邪魔だ、どいてろ。」

男は低い声で吐き捨て、迷うことなくシンクに放られていた薬袋を手に取って逆さまに振った。落ちて出てきた薬のシートから錠剤を手に出し、コップに水を溜めて桃瀬さんの側にしゃがむ。

「飲め。」

「…っ、…っ!」

桃瀬さんはますますキツく胸元を握りしめ苦しそうにするばかりで、とても薬を飲める様子じゃない。

男は小さく舌打ちすると、躊躇うことなく錠剤を自分の口に放り込んだ。

コップの水を口に含み、桃瀬さんを抱き起す。

男は口移しで、桃瀬さんに薬を飲ませた。

「…。」

呆然としてしまった。

男の一連の動作は、明らかに慣れたものだったから。

口移しで薬を飲まされた桃瀬さんの表情が、徐々に弛緩していく。発作は治まったらしい。

男は、すっと横抱きに桃瀬さんを抱き上げると、呆然として立っていた俺を睨んだ。

「あとは俺が看るから、あんたは帰れ。」

「でも…っ!」

「帰れ。」

有無を言わさない口調に、従うしかなかった。

鞄を取り、桃瀬さんの部屋から出る。背後でオートロックが閉まる音がした。

―ショックだった。

あんなに苦しんでる桃瀬さんに何してあげられなかったことも、見知らぬ男が明らかに桃瀬さんの扱いに慣れていたことも。

キスの仕方や、横抱きに抱き上げられた時の桃瀬さんの安心し切った表情も、全部。

俺は桃瀬さんの事を、何も知らない。


―朔也―

久しぶりに抱き上げられた腕の感触が、記憶にあるより逞しかった。スーツから香るタバコの匂いは、相変わらずだ。

ベッドにそっと寝かされる。瞼にこぼれてきた汗を拭い目を開くと、雅孝は勝手知ったる様子でタンスの引き出しを開けている。

替えのTシャツを出すと、半分以上体から脱げたパイルパーカーを脱がし、汗で濡れたタンクトップを裾から捲り上げてきた。

「…えっち。」

「馬鹿か。」

いつも通り冗談の通じない真顔のまま、雅孝は淡々とタンクトップを脱がして汗を拭いてくれると、替えのTシャツを着せてくれる。

「冷たいなぁ、乗ってよ…。」

「軽口叩けるならもう平気だよな。苦しくないか?」

「もう、へーき…。」

ケホケホと咳き込む。さっき無理な体勢で飲まされた水が喉にまだ引っかかっていた。

「さっきの若いの、誰だよ。」

大真面目に言うから、可笑しくて笑ってしまう。

「若いのって…雅孝と、大して変わらないよ…。」

「付き合ってるのか。」

「…まさか、違うよ…。キスは、されたけど…。」

雅孝の眉がぴくりと動く。

「…恋愛するには体がしんどいんじゃなかったのか。」

「そうだよ…。」

胸元に触れる。発作は治まったはずなのに微かにそこが痛むのは、きっと心臓のせいじゃい。

「だから…胸が、苦しいんじゃん…。」

雅孝はため息をつくと、さっき脱がせた服を手に部屋を出て行った。しばらくして、氷枕とタオルを持って戻ってくる。

俺の頭の下に手を入れて起こし、氷枕を敷いてくれる。汗で濡れた前髪をどかして載せられたタオルも、ひんやりと冷たい。

「解熱剤は。」

「さっき飲んだ…。」

「ならもう、寝てろ。しばらくいるから。」

ぶっきらぼうなのに優しい言葉に安心して、目を閉じる。

ベッドの側に、雅孝が腰を下ろす気配がした。

―以前だったら、手を握ったり背中をさすってくれたりした。それをしないのは、『恋人』では無くなった一応の線引きのつもりなのか。

また、気を遣わせちゃったな。

心苦しく思いながらもどうしようもなく、俺はだんだんと眠りに落ちていった。


✴︎✴︎✴︎


朔也が眠った事を確認すると、柳雅孝は寝室を出た。

キッチンの換気扇を回し、懐からセブンスターの箱を取り出す。一本くわえ、ライターで火をつけて一服吸いこむ。

携帯灰皿に吸い殻を落としながら、ふと朔也の薬箱の蓋が空いたままになっていることに気づいた。

出されたままのピルケース。明らかに、自分が知っていた頃より薬の種類が増えていた。

雅孝はそっとピルケースと薬袋を引き出しに片付けると、タバコの火を消して換気扇のスイッチを切り、朔也のマンションを後にした。

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