第七話 何も知らなかった

―朔也―

『…ピンポーン……』


「…?」

予期しないインターホンの音で目を覚ました。

気がつけば外はすっかり暗くなって、開けっ放しのカーテンからは月明かりが差し込んでいる。朝から一度も電気をつけてないから、部屋の中は暗いままだ。

再びインターホンが鳴る。仕方なくベッドから体を起こすと、頭を乗せていた所のシーツが寝汗でぐっしょりと濡れていた。

「…っ。」

目眩がして額を抑えた。…熱い。全然熱が下がらない。こんな高熱を出して寝込むのは久しぶりだった。

ふらつく足取りでどうにかインターホンのモニターの側へ行く。スイッチを押すと画面が明るくなった。

カメラの前に立っている人物を認識して、目を疑った。

「…名木ちゃん…、何で…。」

通話ボタンを押しかけた手が止まる。

…だめだ。こんな姿、名木ちゃんに見せるわけには…。

頭が、ふわりと揺れる。壁に手をつき、その場に崩れ落ちた。

「…っ、はぁ…はぁ……っ。」

誰もいない部屋に、自分の荒い呼吸音だけが響く。

『ピンポーン…』

「…っ」

震える手を伸ばした。切ボタンを手探りで押す。

ピコン、と音が鳴った。…しまった、解錠ボタンを押した。

壁に背中を預け項垂れる。呼吸が苦しい。頬を冷や汗が伝っていく。いい加減な羽織り方をした部屋着のパイルパーカーが、肩からずり落ちた。

『ピンポン』

部屋の戸の横についているインターホンが鳴った。このまま無視していようかとも思ったけれど、何度も鳴るので仕方なく立ち上がる。

桃瀬さん、と扉の向こうから名木ちゃんの焦った声が聞こえてきた。

俺は、揺れる視界の中でどうにか錠に手をかけ、開けて、そして―。


―透人―

「桃瀬さんっ?」

何度インターホンを押しても開く気配が無くて、心配がピークに達した俺は思わず扉越しに呼びかけた。

どうしよう、部屋の中で倒れていたりしたら。救急車?いや、それより先に大家さんを呼んで、部屋を開けてもらうべきなのか。

焦って色々考えていると、ガチャリ、と鍵が開く音がした。ひとまず、ほっとする。

「桃瀬さん?」

扉が開いた。顔を覗かせた桃瀬さんを見て、一気に動揺した。

「ちょっ…顔真っ赤じゃないですか!」

「…平気、だよ。名木ちゃん…大げさだなぁ…、」

無理して笑おうとした桃瀬さんの小柄な体が、俺の方に向かって力無く倒れてくる。

「桃瀬さんっ、…桃瀬さん?!」

思わず抱きとめた体は、燃えるように熱かった。

「しっかりしてください!桃瀬さん!」

どうにか抱えて部屋に入る。気を失っているのか、桃瀬さんから反応が無い。

「どうしよう…っ!桃瀬さん、分かりますか、桃瀬さん…!」

何度呼んでも返事が無い。荒い呼吸音に合わせて、薄い胸元が上下する。

とにかくベッドに寝かせようと思ったけれど、力が抜けた体は思いのほか重く、無理な姿勢で抱えてどうにかリビングのソファに寝かせる事しか出来なかった。

「…っ。」

桃瀬さんが、苦しそうに眉間に皺を寄せる。いつもは白い顔が熱で真っ赤に火照り、冷や汗でびっしょりと濡れていた。

「どうしよう、救急車…!」

ポケットからスマホを出し、キーパッドを押そうとする手が震えた。

「1…あれ、救急車って何番だっけ…!」

パニックになっていると、スマホを持った手首を掴まれた。

「…平気だから、やめて…。」

「桃瀬さん!平気なわけないじゃ無いですか…!」

「いいから…。」

一言喋るたび、走って息を切らしたように呼吸が荒くなっていく。

「俺、どうしたら…っ。」

半ば泣きそうになりながら聞くと、くすり…と桃瀬さんは呟くように言った。

「薬?どこにあるんですか!」

「キッチンの…一番上の引き出しに、解熱剤あるから…。」

「取ってきます!」

急いでキッチンに入る。

生活感がなく、小綺麗なキッチンだった。シンクの横に、いくつかガラスのコップが伏せて置かれている。

引き出しを開けかけ、ふとコップの横に置かれたプラスチック製の小さなボックスが目に入った。引き出しの端から、『おくすり』と書かれた薬袋が覗いている。

キッチンの引き出しって、こっちのことか。

そう思い、小さな取っ手のついた引き出しを引っ張って薬袋を手に取った。

「…え?」

薬袋に赤字で書かれた『発作時』の文字が目に飛び込んでくる。

「発作…?」

見ると、引き出しの奥には大きめのピルケースが入っていた。出してみると、何種類もの薬が仕切りごとに分けてたくさん仕舞われている。

『発作時』と書かれた薬袋を開けた。薬の説明書が出てきたので、広げる。

「『心臓の負担を軽くする薬です』…?」

突然、後ろから薬袋ごと紙を取り上げられた。

「!桃瀬さん、寝てなきゃ…っ。」

「…解熱剤は、こっちだよ。」

シンクの向こうに薬袋を放り、キッチンの引き出しを開ける。出てきたのは、市販薬のロキソニンの箱。

「ちょっ…いいんですか?!そんな物で…!」

「平気だってば…心配しすぎだよ、名木ちゃん…。」

力無く笑いながら、桃瀬さんはロキソニンを一錠手に出し、シンクに伏せられたコップを取って蛇口から水を注ぎ、ロキソニンを口に含んだ。

コップを口につける。唇の端から水がこぼれて顎を伝っていく。

「…っ。」

「桃瀬さん!」

ガラン、とコップがシンクの中に落ちた。力が抜けてへたり込んでしまった桃瀬さんの側にしゃがむ。

「桃瀬さん…っ、どうしよう、どうしたら…!」

焦る頭の中に、『発作時』という文字が浮かんだ。

「まさか、心臓が苦しいんですか?!」

力無く首が横に揺れる。発作を起こしているわけではないのか。それにしたって、市販のロキソニンなんかでどうにかなるとは思えなかった。

俺は桃瀬さんをキッチンに残し、リビングのテーブルに置きっぱなしにしていたスマホを手に取った。

かけたのは、救急ではなく渡辺さんのケータイ。

『もしもし?』

「渡辺さん!桃瀬さんが…!」

『どうしたの、落ち着いて。』

「桃瀬さんが、苦しそうなんです…!」

涙がこぼれた。あんなに苦しそうなのに、何も出来ずに結局こうして助けを乞うしかない事が情けなかった。

「救急車呼ぶなって言うし、もうどうしたらいいか分からなくて…!」

『落ち着きなよ、発作起こしてるの?』

「違うって言うんですけど…っ。」

答えながら、ああやっぱり渡辺さん知ってたのか、と悲しくなる。何も知らないくせに、俺は何でここに来たんだろう。いっその事、渡辺さんについて来てもらえば良かったのに。

「熱がすごくて…」

『ああ、ならたぶん体調崩しただけだよ。言っただろ、あいつ昔から体よく壊すんだよ。』

「そんな…」

『とにかく、落ち着いて。でも発作起こしたら、すぐに救急車呼ぶんだよ。』

「はい…。」

通話を切る。動悸がおさまらない。

発作って何だろう。一体、発作を起こしたら桃瀬さんはどうなってしまうんだろう。


✴︎✴︎✴︎


透人からの電話を切った後、渡辺裕斗は急に胸騒ぎがした。

一度置いたスマホを再び手に取り、電話帳を開いてとある名前を検索する。長いこと連絡を取っていない相手だ。番号が変わっていない事を祈りながら呼び出し音を聞いていると、しばらくして相手が出た。

『…はい。』

低い声に、探るような響き。

やなぎ?」

『…渡辺先輩ですか?久しぶりですね、どうしたんすか。』

「お前、今動ける?」

『仕事終わったところなので大丈夫ですが…何か?』

「あのさ…」

唇を舐めた。

「もしかしてまだ、桃瀬の部屋の合鍵持ってる?」

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