第六話 浮気なんかじゃない

―透人―

出てきた時よりもずっと沈んだ気持ちで部屋に帰ってくると、廊下に明かりがついていた。

「透人?どこ行ってたんだよ。」

リビングから慶ちゃんの声がする。

「慶ちゃん、遅くなるんじゃなかったの?」

「思ったより早く帰ってこれたんだ。」

着替えてソファで寛いでいたらしい慶ちゃんが、俺を見て首を傾げる。

「何か食べに行ってきたの?」

「えっ…ええと、会社にちょっと忘れ物取りに。」

咄嗟に嘘をついてしまう。慶ちゃんの表情がますます怪訝になる。

「明日も仕事行くのに、わさわざ取りに行くほどの事?」

「…気になったから。」

目を逸らす。慶ちゃんは、まあいいや、と言って立ち上がった。

「久しぶりに、どこか食べに行くか?」

「うん。」

慶ちゃんと外食。随分と久しぶりな気がした。


マンション近くの和食の店に入る。

「何だか久しぶりだね、慶ちゃんとご飯食べるの。」

「そうだな。今日は仕事忙しくなかったの?」

「外回り行ってて、そのまま直帰して良いって言われたから。」

「ふうん、新人の特権だな。」

うどんを啜りながら何気なく言った慶ちゃんの言葉が、ちくりと刺さる。

「俺、定時で帰れたの久しぶりなんだけど。」

「そうだっけ。いつも始末書書いてるから遅いんじゃなく?」

「違うよ、仕事が忙しいんだよ。」

「新人にそんなに仕事押し付けるなんて、ブラックな会社だな。」

「それは…俺がまだ要領よくこなせないせいで。」

「ならしょうがないな。」

「慶ちゃん…。」

声が苛立ってしまう。箸を止めて、慶ちゃんが俺を見た。

「何だよ。」

「何でもっとこう、優しい言葉かけてくれないの?俺まだ仕事始めて一ヶ月も経ってないんだよ。なのに毎日、慶ちゃんより遅く帰ってきててさあ…たまには、少しくらい愚痴とか聞いてくれたって。」

「そんなの、俺だって休みの日まで仕事してて疲れてるんだから、お互い様だろ。」

「…そんな言われ方されたら、もう何も言えないじゃん…。」

泣きそうになって、堪えるように俯いた。

せっかく久しぶりに、一緒にご飯食べれてるのに。こんな事言い合いたいんじゃないのに。

「…ごめん、透人。」

慶ちゃんの手が伸びてきて、俺の髪をそっと撫でる。

「言い過ぎた。そうだよな、透人はまだ働き始めたばっかだもんな。…悪い。」

「…ううん。」

小さく首を振る。頭を撫でてくれる手が優しくて、たったそれだけで全部許してしまえる気がする。

そうだよ、俺は慶ちゃんの事が好きなんだ。高校生の頃からずっと好きで、いくら年月が経ってときめきが薄れたって、大好きな恋人であることは変わりない。

なのに、どうして桃瀬さんに会いたくなっちゃうんだろう。

キスなんて、しちゃったんだろう。


帰り道、人気の無い道で慶ちゃんが手を握ってきた。

「ちょ…人に見られるよ?」

「いいだろ、たまには。」

さっき店で言ったきつい言葉を帳消しにするかのように、慶ちゃんの声は優しい。

「ごめんな、せっかく一緒に住んでるのに最近構ってやれなくて。」

「ううん、大丈夫。慶ちゃんも忙しいのに、毎日ご飯作ってくれて感謝してる。」

しっかり手を握り返す。

「今日さ、夕飯好きにしてって言われて、何食べていいか分からなくて。もう食べないでおこうかと思ったんだけど。」

「おい、それは体に良くないだろ。」

「そうだね。本当に、毎日作ってくれるありがたさが身に染みた。」

たとえ先に寝ちゃってても、愚痴言ってもあんまり甘やかしてもらえなくても。

慶ちゃんはちゃんと、俺の事を想ってくれている。

「ありがとね、慶ちゃん。」

そう言って笑いかけた。ふと足を止めた慶ちゃんの顔が近づく。

あ、と思ったら唇が触れていた。

「…慶ちゃん、外だってばここ。」

「なら早く帰ろう。」

さっきより早足になる慶ちゃんについて行きながら、心の中がざわついた。

…慶ちゃん、俺が違う人とキスしたって知ったら、どう思うんだろうか。


―桃瀬さんに、もう会いに来ちゃダメだよ、と言われてから、桃瀬さんが働いているカフェには行けなくなった。

元々そんなにカフェ自体行かないけれど、ふと桃瀬さんが作ってくれたキャラメルラテが懐かしくなる時がある。

仕事の休み時間、そっと鞄からあの日の紙スリーブを取り出して眺める。

『なぎちゃん、がんばって!』

黒マジックで走り書きされた桃瀬さんの字を見ているだけで、頑張れる気がして。

「…何見てるの?」

「わっ!」

びっくりして思わず紙スリーブを胸に抱き、振り返る。

「な、何?三浦…」

「いや、何でそんな物見てるのかと思って。」

見上げるような長身を屈め、俺が握りしめた紙スリーブを覗き込もうとする。

「いや、何でもないから!」

「変なの。」

低い声で呟き、三浦は「コーヒー飲みに行かない?」と誘ってきた。

「え、君と?今から?」

「名木ちゃんのそれ見てたらコーヒー飲みたくなったから。」

紙スリーブを指さす三浦。

「たまにはガス抜きしたら?奢るよ。」

「ありがとう…。」

そこまで言ってくれるならと思い、三浦と連れ立って会社近くのカフェへ入った。

「名木ちゃん、キャラメルラテなんて飲むんだ。」

自分はブラックコーヒーを飲みながら三浦が言う。

「疲れてる時には甘いものが一番なんだよ。」

そう言って口をつけたキャラメルラテは、桃瀬さんが作ってくれる物より苦い味がした。

「…にが。」

思わずそう言うと、三浦が微かに笑った。

「そりゃそうだよ、甘いって言ったってコーヒーだろ?」

「…そっか。」

じゃああれは、桃瀬さんのオリジナルの味なのか。それともまさか、俺の為にわざわざ甘めに作ってくれた…?

そんなわけない。どこまで自分に都合良く考えてるんだ。

「苦いのだめなの?」

「そんなんじゃないよ、ブラックだって飲める。」

ここのはこういう味なんだと割り切って飲めば、決して不味いわけじゃない。だけど…。

窓の外を見る。横断歩道の向こう側に、桃瀬さんが働いているカフェが見える。

不意にカフェの戸が開き、桜色の髪が覗いた。視線が釘付けになる。…桃瀬さんだ。

桃瀬さんはカフェの外に置かれたプランターの花に水をやり始めた。後ろ姿しか見えない。

「そういやさ、渡辺さん達と合コン行ったんだっけ?」

三浦が話しかけてくるので、視線を店内へ戻した。

「行ったよ。」

「誰か良い人いた?」

言われて思い浮かんだのは、秘書課一可愛い女の人…じゃない。

「良い人…そうだね。」

窓の外へ、再び視線を向ける。

「いたかも、しれない…。」

「何それ。気になる相手がいるって事?」

「うん…。」

頷きながら、心の中は罪悪感でいっぱいだった。

『どこからが浮気かって?…やましいと思ったら、じゃない?』

…ごめんね、桃瀬さん。

俺はあなたの事を思い出すと、やましい気持ちでいっぱいになるよ。慶ちゃんの事が好きなはずなのに…どうして。

こんなに、桃瀬さんが気になるんだ…。


それから、何度となく同じカフェに通った。

別に、そこのキャラメルラテが気に入ったわけじゃない。どうしてもコーヒーが飲みたいわけでもない。

窓際の席を確保して外を見ていれば、桃瀬さんが時々店の外に姿を見せるからだ。外に立てかけた看板を書き替えたり、掃き掃除をしたり。

本当は、声をかけに行きたい。電話番号も知っているんだし、電話をかけたくなる時もある。

だけど、出来ない。

『もう、こんな風に俺に会いに来ちゃダメだよ。』

―拒絶の言葉が、俺を縛り付ける。

そうだよ、会いに行っちゃいけない。会いたいと思っちゃいけない。会いたいと思うたび、慶ちゃんの事を思い出して胸が痛むうちは、桃瀬さんに会いには行けない。


そうやって毎日のように遠巻きに桃瀬さんを見ていたら、ある時急に姿を見かけなくなった。

休みなのかな、と思っていたけれど、さすがに一週間姿を見かけないと心配になってくる。

…辞めてしまったのか。まさか、俺が見てることに気付いた?

居ても立っても居られなくなり、ある日ついに桃瀬さんの働くカフェへ行ってみた。

「いらっしゃいませ。」

カウンターの中にいたのは大学生くらいのアルバイトが一人で、狭い店内を見回してみても桃瀬さんの姿は見えない。

「あの。」

勇気を出して、バイトの子に声をかけた。

「ここに、桃瀬さんっていますよね?」

「ああ、桃瀬ならしばらく休みですよ。」

「えっ…?」

「体調が悪いとかで…お知り合いですか?」

不審そうな顔をされ、慌ててお礼を言って店を出た。

体調が悪い?一体、どうしたんだろう。

…不意に脳裏に浮かんだ、細い腕に貼られた採血跡の絆創膏。慌てたような、桃瀬さんの表情。

スマホを出し、あんなに押すのをためらっていた桃瀬さんの番号をタップして耳に当てた。

心臓が嫌な感じに脈打つ。…繋がらない。

二、三度かけても繋がらず、俺は一度退勤したのに再び会社に戻った。

ちょうど外回りから戻ったところだったらしい渡辺さんの元へ駆け寄る。

「あれ、どしたの名木ちゃん。」

「あの、桃瀬さんが…っ。」

「え、桃瀬?」

「電話繋がらなくて、仕事をずっと休んでるらしくて。」

ああ、と渡辺さんは面倒くさそうに足を組む。

「桃瀬ねぇ。あいつ、昔からよく体壊すからなあ。」

「大丈夫なんですか?」

「さあ…気になるなら、家行ってみれば?」

「え?」

ちょっと待って、と渡辺さんは自分のスマホを出すと、電話帳を見ながら付箋にメモして俺にくれた。

「引っ越してなければ、ここだよ。」

「行って良いんでしょうか、俺…。」

「気になるんでしょ?顔色悪いよ、名木ちゃん。」

行っておいで、と渡辺さんに後押しされ、お礼を言って会社を出た。

電車に乗り、慶ちゃんに『友達の見舞いに行ってくるから遅くなります』とメッセージを打った。

…嘘じゃない、これは嘘じゃない。罪悪感なんか感じるな、俺はただ、桃瀬さんが心配なだけだ。

これは、浮気なんかじゃない―。

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