第五話 もう誤魔化せない
―透人―
先輩について外回りに出た帰り、「今日はもう直帰でいいぞ。」と言われた。
そっか、営業職ってそういう日もあるのか…と思いながらスマホを見ると、ちょうど定時を過ぎた頃だった。
就職してから一ヶ月弱。さすがにミスは減って来たけれど、今度は慣れない業務に振り回されて、なかなか定時で帰れる日が無い。
早く帰ろう。今日は久しぶりに慶ちゃんと一緒に夕飯が食べられる。
そう思ったら口元がほころんでしまって、道行く人に変に思われないように咳払いでごまかした。
駅まで急いで歩く道すがら、気が付くと以前桃瀬さんと並んで歩いた桜並木の下に来ていた。
花びらはとっくに散ってしまって、枝を見上げるとすっかり葉桜に変わっている。
あの夜、強い風が吹いた刹那。花びらに攫われそうに見えた桃瀬さんの、白い横顔を思い出す。
『どうしたの、名木ちゃん。』
思わずつかんだ手首の感触が、まだ手の中に残っている。
『俺はここにいるよ?』
絡めた指先は、赤ちゃんみたいに細くて頼りなかった。
どうして、あんなに哀しそうな目で俺を見たんだろう。
まるで、いつか本当に消えてしまう事を知っているみたいに。
「ただいまー。慶ちゃんー?」
玄関の戸を開けて呼んでみたけれど、廊下が薄暗いしまだ帰っていないみたいだった。
「せっかく早く帰って来たのに、またすれ違いか。」
独りごちてネクタイを緩める。あんなに手こずっていたネクタイも、もう簡単に自分で結べるようになった。
朝は俺より先に起きて、夜は俺より先に寝る慶ちゃん。土日は基本部活に出ていくし、たまに休みでも次の授業の準備で忙しい。
…寂しい。
一緒に住んでいるのに。今までは、こんな事なかったのにな。
Tシャツにカーディガンを羽織り、ウエストの楽なパンツに履き替えて取り敢えずテレビをつけてみる。
夕方の情報番組、今は天気予報の時間らしい。明日は晴れ。…慶ちゃん、まだ帰ってこないのかな。
スマホを手に取り、メッセージを打ち込む。
『まだ帰ってこない?』
しばらく見ていると、返信がきた。
『まだ。どうかした?』
『今日早く帰って来たんだ。』
『ごめん、遅くなりそうだから夕飯は好きに食べて』
絵文字も何もない、素っ気ない文面。
「…はぁ。」
ため息が声に出た。
スマホの画面を消し、またテレビに視線を戻す。天気予報は終わって、今日のニュースをアナウンサーが読んでいた。
夕飯どうしよう。…食べたくないな。
今日だけじゃなく、仕事を終えて帰ってくると疲れすぎていて食欲なんか無い。いつもは慶ちゃんが作っておいてくれるから、食べようっていう気になるだけだ。
ご飯じゃなくて、何か甘いものが欲しい。ふとそう思って、思い出したのはショートサイズのキャラメルラテ。
テレビを消す。スマホと鍵だけ持って、俺はマンションを出た。
家に着いた時にはまだ明るかったのに、電車を降りて外へ出た時にはすっかり日が暮れていた。
木目調の優しい雰囲気の扉にはまだ「OPEN」の看板がかかっている。開けると、扉の上部に付いたカウベルが小さく鳴った。
「あれ?名木ちゃん?」
入るなり名前を呼ばれてどきりとする。他に誰もいない店内で、桃瀬さんは一人テーブルを拭いていた。
「珍しい、私服じゃん。」
言われて、部屋着のまま出て来たことを思い出して恥ずかしくなる。
「今日は仕事休み?」
「違くて、その…今日は早く仕事が終わったから。」
「着替えてわざわざ来たの?」
きょとんとされ、猛烈に恥ずかしくなってくる。
何やってるんだ、俺。あまりにも不自然すぎる。
「えっと、急に甘いもの飲みたくなって。」
「そっか!何飲む?」
桃瀬さんはそれ以上深く突っ込まず、にこにこしながらカウンターの中に入った。
「はい、お待たせ。」
隅っこのテーブル席で待っていると、桃瀬さんがショートサイズのカップを二つ持ってきてくれた。そのまま、俺の向かいに座る。
「どうぞ、キャラメルラテ。」
「ありがとうございます…いいんですか、桃瀬さん。仕事は…?」
「いいのいいの、誰もいないし。もう上がる時間だから。」
笑って自分もカップに口を付ける。
「何飲んでるんですか?」
「ホットミルク。俺、コーヒーダメなの。」
「コーヒー飲めないのにバリスタを?」
「いいじゃん、やってみたかったんだよ。」
変わった人だなあ、と思いながら、クリームの浮かんだキャラメルラテを飲む。甘くて優しい味。なんだかホッとする。
「…あれ?」
無造作にテーブルの上へ投げ出された桃瀬さんの白い腕に、小さな絆創膏が貼られているのに気付いた。
「採血したんですか?」
「えっ?ああ…ちょっとね。」
シャツを引っ張って絆創膏を隠してしまう。何で、そんな慌てるんだろう。
「どこか悪いんですか?」
「違うよ、定期健診ていうか。」
「ああ、健康診断?」
「そうそう。」
絶対違うだろうな、と思いながらラテに口をつける。
「名木ちゃん、泡ついてる。」
「えっ?」
「ここ。」
すっと桃瀬さんの指が近づいてきて、俺の唇の端を拭った。
「ん、取れた。」
桃瀬さんは、何でもないことのように俺の唇を拭った指を舐めた。あま、と呟く唇から、目が離せなくなる。
「…どしたの?名木ちゃん。」
首をかしげる桃瀬さん。桜色の髪の毛が、ふわりと揺れる。
「顔赤いよ。」
カタン、と、俺の腰かけていた椅子が軽い音を立てる。
気づいたら身を乗り出して、桃瀬さんの唇に自分のそれを重ねていた。
時間にして、たぶん2秒くらい。桃瀬さんの唇は少し乾いていて、けど柔らかかった。まるで、ピンク色のマシュマロみたいな。
「…こーら。」
ペチン、とデコピンされて我に返る。
「だめだろ、彼氏いるのにそんな事しちゃ。」
しまった、と思ったけれど、桃瀬さんは何事もなかったかのようにまたホットミルクを飲んでいる。
「そういえば、今日は彼氏どうしたの?」
「…今日は、遅くなるらしくて。」
「ナルホド、それで俺と浮気しに来たわけ?」
にやにやしながら上目遣いで見られて、瞬時に自分が真顔になるのが分かった。
―浮気。
「…浮気って」
「ん?」
「どこからが、浮気になるんだろう…。」
上の空でそう呟いた俺に、桃瀬さんはカップを置いて答えてくれる。
「やましい気持ちがわいたら、じゃない?」
「やましい…?」
「名木ちゃん今、彼氏に黙って俺に会いに来たこと、やましいって思っただろ。」
言い当てられて動揺した。桃瀬さんはカップを手の中で弄びながら、ふっと笑う。
「ならダメだよ、もうそれだけで立派に浮気。こないだたくさん愚痴は聞いたけどさ、名木ちゃん、彼氏と別れるつもりはないんだろ?」
「!…別れるつもりなんか、」
「だったら、もうこんな風に俺に会いに来ちゃダメだよ。分かった?」
口調は柔らかかったけれど、はっきり拒絶された。
何も言えなくなった俺を席に残し、ちょっと片付けしてくるね、と桃瀬さんはカウンターの奥へ消えた。
ぬるくなってしまったキャラメルラテを飲み干し、ごみ箱に片づける。
店を出る直前に振り返ると、桃瀬さんは困ったように笑って小さく手を振ってくれた。
俺は黙って会釈を返し、店を後にした。
―朔也―
落ち込んだ様子でとぼとぼと歩いて行く後ろ姿を、扉のガラス越しに黙って見送る。
名木ちゃんの姿が見えなくなったところで、外へ出て『OPEN』の看板を『CLOSE』に変えた。店の中に戻って鍵を閉める。
無意識に唇に手がいった。不意打ちでキスされた事を思い出し、今更ながら鼓動が早まる。…何で、あんなこと。
狼狽が顔に出ていなかったか心配だった。誤魔化す為に、少しきついことを言いすぎたかもしれない。
だめだよ、名木ちゃん。君には彼氏がいるじゃないか。
…なら、彼氏がいなかったらいいのか?
自問して苦笑する。何を考えているんだか。
もう二度と、恋なんかしない。…そう思ったばかりだったのに。
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