第三話 刹那の桜吹雪
―透人―
桃瀬さんが連れて行ってくれたのは、会社のある大通りから一本裏路地へ入ったところにある、隠れ家のような雰囲気のカフェレストランだった。
「昨日から迷惑かけっぱなしで、本当にすみません。」
席について注文を終え、改めて謝ると桃瀬さんは困ったように笑った。
「名木ちゃん、謝ってばっかりだなあ。ありがとうって言って?」
「あ…ありがとうございます。」
「うん、どう致しまして。」
満足そうに笑って桃瀬さんはお冷を口にした。水を飲むたびに上下する白い喉仏に、何故か視線が吸い寄せられる。
「そう言えば、怒ってなかった?」
「誰がですか?」
「彼氏。」
飲みかけた水を危うく噴き出しそうになった。
「だいじょうぶ?」
「え…何で彼氏って…!」
慶ちゃんとのことは誰にも話してないのに。まさか、俺酔っぱらって余計な事を?!
「俺、てっきり名木ちゃんは一人暮らしだと思ってさあ。鍵まで勝手にポケットから拝借して部屋に連れて行ったのに、男が出て来たからびっくりしちゃった。」
運ばれてきたサラダを口にしながら笑って桃瀬さんは言うけれど、言われたことの内容が全く記憶にない俺は青ざめるしかない。
「部屋まで…うそ、俺そんなに酔っぱらって…?」
「もうべろんべろんよ。挙句、彼氏の顔見た途端にふにゃふにゃの可愛い顔で抱き着いちゃって。」
「うそー?!」
「声大きいよ、名木ちゃん。」
しー、と言われて慌てて口を押える。
「あ、あの…。」
「ん?」
「本当に、すみませんっ!」
テーブルに顔を打ち付けそうな勢いで頭を下げる。ちょっとやめてよ、と桃瀬さんは慌てて俺の顔を上げさせた。
「あんなに酔ったのはそもそも裕斗が無理に飲ませたからだし、気にしないで。」
「でもまさか、初対面の桃瀬さんにそこまで迷惑かけてたなんて…しかもめちゃくちゃ醜態晒してるしっ…!」
一体どんな顔をして慶ちゃんに抱き着いたのか、想像しただけで顔から火が出そうだ。そもそも、慶ちゃんはそんな事は一言も言ってなかったのに。
「まあいいじゃん。ラブラブな彼氏がいて羨ましいけどな。」
何でもないことのように言う桃瀬さんの顔を見る。
「あの…引かないんですか。」
「え?」
「男と付き合ってるのに…。」
フォークに刺したレタスを小さな口に運び、桃瀬さんは優しく笑う。
「俺、別に男とか女とか気にしないよ?」
「本当に?」
「本当。俺も、ついこないだまで彼氏いたしね。」
「そうなんですか?」
急に気持ちが軽くなる。絶対引かれると思ったのに、まさか同志だったとは。
「何で別れちゃったんですか?」
思わず聞くと、桃瀬さんは一瞬ふと遠い目をした。
「うん…一緒にいるのがしんどくなったから、かな。」
「もしかして、同棲していたんですか?」
「そこまでしてないけど、合鍵は渡してたからなあ。半同棲ってやつ?」
「そっかあ…やっぱり、一緒に住むって難しいですよね。」
「あれ、彼氏と上手くいってないの?」
興味津々な顔つきで桃瀬さんが聞いてくるので、つい色々喋ってしまう。
ちょっと神経質なところがあるから、物を置く位置とか買ってくる洗剤の種類とか、細かい事にいちいち文句をつけられること。
優しい言葉より厳しい言葉が返ってくることのほうが多くて、愚痴も言いづらいこと。
お互い忙しくなってから、会話が減ったこと。
あんまり、構ってくれないこと。
「4年も一緒にいると、お互い空気みたいになってるところもあって。それはそれで気楽なんですけど、何かちょっと違うなって思ったりとか。しょうがないんですけどね。」
「名木ちゃん、色々溜まってるねえ。仕事だけじゃなく、彼氏にも不満ありかあ。」
「そんなんじゃないですけど。ただ、たまにはもっと優しくしてほしいなと思う時もあったりして。」
小さくため息をついて箸を置く。
「男同士って難しいですよね。いくら好きでも、たとえば男女だったら結婚みたいな、そういう気持ちの区切りみたいなものつけるタイミングって無いじゃないですか。そうやってずるずるしている内に、段々と一緒にいる事が当たり前になりすぎて、最初に出会った時のようなドキドキする気持ちも忘れていっちゃうんですよ。何だかそれが寂しくて。」
「…仕方ないね、それは。永遠に続くものなんてないからなあ。」
ちょっとごめんね、と桃瀬さんは鞄から小さなポーチを出すと、トイレ行ってくるね、と席を立った。
一人になり、急に色々喋りすぎたことへの後悔が襲ってくる。
別に、慶ちゃんの事が嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、最近少し寂しいだけで。
桃瀬さんは優しいから、つい話しすぎてしまう。
店を出て、夜風にあたりながら駅までの道を歩いた。
「桜、もう散りそうだね。」
川沿いにたくさん並んで立っている桜の木を見上げながら、桃瀬さんが呟く。
「今年は咲くの遅かったけどなあ。」
「そうですね…。」
同時に足を止めて桜を見上げたその刹那、急に強い風が吹いた。
「わ…っ」
思わず目を瞑る。激しくなびいた前髪を抑えて薄目を開き、―息をのんだ。
吹き荒れる風に巻き上げられた桜の花びらが、吹雪のように激しく舞い落ちてくる。その下に佇んで空を見上げていた桃瀬さんを、まるで攫おうとするかのように花びらが巻き付いて、同じ桜色をした髪に絡んでいく。桃瀬さんの白い手が、落ちてくる花びらの一つを捕まえた。
…気づいたら、咄嗟にその白い手首を掴んでいた。
「えっ、何?」
驚いて俺を見た桃瀬さんと目が合い、我に返る。
「ご、ごめんなさい!」
手を離す。ほっそりとした感触が、手の中に残った。
「なんだか、桃瀬さんが…消えちゃいそうな、気がして…。」
言っていて自分でもよくわからず戸惑う。でも、そうなんだ。
まるで桜吹雪と一緒に桃瀬さんが消えてしまいそうに見えて、急に怖くなった。
「どうしたの、名木ちゃん。」
桃瀬さんが苦笑しながら、白く細い指を、俺の指に絡めて握ってくる。
「俺はここにいるよ?」
胸の前に、握った互いの右手を見せるように掲げてくれる。どちらかと言えば色が黒い俺と違って、桃瀬さんの手は白いどころか、赤ちゃんみたいなピンク色をしていた。
すっと、その手が離れる。桃瀬さんは俺の髪の毛についた花びらを払ってくれた。
「すごい勢いで散っちゃったね。」
「…本当だ。綺麗なのに、咲くのはほんとに一瞬だけで寂しい花ですよね、桜って…。」
半分以上花びらの無くなってしまった桜の木を見上げると、だから綺麗なんじゃん、と桃瀬さんは言った。
「どんなものにも、限りがあるから美しく感じられるんだよ。月の満ち欠けがあるから満月は輝いて見えるし、晴れの日が嬉しいのは、雨の日の憂鬱を知っているからだろ。」
自分の髪に絡んでいた桜の花びらをつまみ、指先に乗せる。
「桜が美しく見えるのは、たった数日だけの為に咲いて、すぐに散っちゃうからじゃないかな。儚い一瞬の為に、懸命に咲き誇る。…俺は、桜好きだけどなぁ。」
さっきよりも弱い風が吹く。桃瀬さんの細い指に乗せられた花びらは、力なく舞って地面に落ちた。
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