第3話「世の人は我をなんともいはばいえ。我成すことは我のみぞ知る」坂本龍馬~十七歳の句~

 土佐藩郷氏いわゆる足軽の家に生まれた坂本龍馬は、22歳年上の兄の下の弟として生まれた。上には三人の姉がいて一番年下の龍馬は、何かと世話を焼かれることが多かった。

 12歳の時に病で母を亡くし、以来兄姉がより一層龍馬を案じ何くれとなく龍馬の身の回りの世話を焼きたがるようになった。兄姉のその過保護な姿に龍馬は些か辟易していたが持ち前の他者を重んじる性質が自身の本心を隠し為すがままにされることを由としていた。

 兄姉は、闊達で奔放な龍馬の姿を戒めながらも手のかかる龍馬を親に変わって懸命に一人前の人にしようと手がけることで、自身らも又母親を亡くした悲しみから立ち上がることができたのだ。まさに相互利益の関係であった。

 龍馬14歳からしばらくの間、その頃ちまたで若者教育の一環となっていた日本武術小栗流を学んだ。17歳になって目録を得た龍馬だったが奔放な割に兄姉の手を煩わせることの多かった性格は変わらず周囲からは、成長しても「泣き虫」だの「甘えん坊」だのと言われることが多かった。

「これではいけない。我らが過保護に育て過ぎたためにこのような言われようだ」

 父を含め兄姉たちはこれまで甲斐甲斐しく手をかけすぎたことを悔やみ、龍馬のためにどのような道に進ませるべきかと思案に暮れた。その時、龍馬が父に向かってこう言った。

「世の人は我をなんともいはばいえ。我成すことは我のみぞ知る」

 世の中の人は、私のことを好きなように言えば良いのです。私がこれからすることは私だけが知っているのですから。

 そして父に向かって一年間の江戸自費遊学を申し出てそれを許された。もちろんその影には兄姉らの後押しがあればこそだったのだろう。龍馬は、北辰一刀流の千葉周作の弟で桶町千葉定吉の道場の門人となった。定吉は龍馬を気に入り娘を嫁として添わせたいと申し出たが龍馬が入門して2ヶ月後にペリーが黒船で来港したことから龍馬の行く道は、大きく変わった。

 千葉定吉の門人として剣術を真摯に学ぶ龍馬は次第に剣士としての頭角を現していった。千葉周作の道場である玄武館は、龍馬が門人となった道場のすぐ近くにあったがこの時武士の身分制度はとても厳しく龍馬のような商家の出の下級武士は玄武館の門人になる事を許されなかった。しかし度々行われていた道場同士の錬成会などで龍馬の剣の腕の良さが評判となり千葉周作の耳にも届くようになった。

「腕に身分の違いなし」と千葉周作に認められた龍馬は、一年間の遊学を終え帰路についたがその後もう一度江戸自費遊学を果たし千葉周作の玄武館の門人として迎え入れられた。剣術修行の傍ら砲術、蘭学、兵学なども意欲的に学んだ坂本龍馬はこの後怒濤の明治維新の渦の中に飲み込まれていったのである。


 ~私見~

 龍馬は、闊達で自由奔放。枠にはまらない逸材であったことが歴史の上で明かされているが、本来の性質は思慮深く人の姿をよく見て判断する深い洞察力の持ち主であったようだ。他者の姿をよく見ているからこそ我が身の動きを弁え仲間を適材適所で活躍させることができるという大将の素質も兼ね備えていた。龍馬にとっては家族も又然り。幼い頃から家族の姿に自分がどうあれば良いのか考えて「わざと」見せかけの自分を演じていたのかもしれない。「親の目に映る我」と「我の真意」をこの言葉は、しっかり言い表している。

 いつまでも幼く愛しんできた我が子、我が弟を大海に放つ覚悟で迎えた江戸遊学を前に感じた言葉は、

 坂本龍馬の家族だけに

「前途洋々」今後の人生は、大きく開けていて希望に満ちあふれている。往け!

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戦国武将の言うことには 和乃鴎 @kazunokamome

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