第2話 「無心にして一切のことに対応できる」 柳生宗矩~兵法家伝書より~

時の三代将軍徳川家光の生涯ただ一人の兵法指南役であった柳生宗矩は、1638年、家光に兵法のことでかなり強く意見し激高、一月あまり屋敷に引き籠もったという。

何が彼をそんなにも怒らせたのか後世に詳細は伝えられていない。

沢庵和尚が宗矩の様子を見に行くと笑いながらこう応えた。

「全ては、所詮上様の御心次第。自分はなんとも思っておらず、まっすぐなものだ」

その言葉を沢庵和尚から聞いた家光は、早速宗矩に会いに行き、たわいもない話しを交わし機嫌を取ったことで二人の仲がまた回復したのだった。

沢庵和尚は、後にこのときの出来事を宗矩に問うと、

「道を会得した人の胸の内は、鏡のように何もなく澄んでいるので無心にして一切のことに対応できる。

これが平常心である」

応えた柳生宗矩に笑みはなかった。

柳生宗矩の兵法家伝書は、宮本武蔵の「五輪書」と並ぶ近大武道書の二大巨峰であるが、本来は、柳生家に伝えられる家伝書であり秘書でもある。

徳川家光の剣術指南役を拝謁後は、修身(道徳)も含めた「帝王学」として、まとめられた痕跡がある。

柳生宗矩の兵法は、

「兵法は、人を切る物とばかり思うのは、間違いである。

人を切るのではない。悪を殺すのである。

一人の悪を殺して、万人を生かす謀(はかりごと)である」

「表裏、是非、善悪が心の病である。

この病が心から去らなければ何事をなしてもいい結果は生まれない」

家光に語るべく言葉の限りを尽くして人の上に立つ者の心構えを訴え続けていたのである。

徳川秀忠の次男として生まれ、乳母の春日局、祖父の徳川家康に寵愛を受け三代将軍となった家光。

徳川幕府650年の歴史の中でただ一人正室(本妻)から出生した将軍であるが、後に伝わる業績は芳しくない。

彼が遺したものは、「鎖国」への道だったのである。


~私見~

柳生宗矩の目に映る若き将軍家光は、やんちゃな少年に過ぎなかったことだろう。

なんとかして、りっぱな将軍に育てたいと周囲のブレーンは、連日策を講じていた。

しかし良家の三代目の手に負えるような政治体制ではなかった。

1638年は、特に「島原の乱」が勃発したのである。

家光を支えようとすればするほど周囲を固める年寄りがどんどん増え、柳生宗矩が目指した帝王学が影を潜めるほどに家光への周囲からの「指導」という名の良識や見解で渋滞した。

柳生宗矩は、知ったのだ。自分が本当にこの目の前の将軍家光に教えなければいけないことは、なんだろう。

「明鏡止水」

どんな環境におかれても、心に邪念を持たず、明るく澄み切った心を持てば、心は自ずとおちつく。

水をやりすぎても花は咲かないものである。

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