秘密の喫茶店

緑川えりこ

特製ドリンクを飲み干して

家を出て、右に真っすぐ。そうしたら赤い滑り台がある小さな公園が目の前に現れる。その公園を真正面にして、右へ曲がると、次は細い路地が見える。

涼風すずかぜにちかは、出来るだけ全速力でその細い路地を駆け抜けた。


初夏を告げる青い風が肩まである髪をさらっていく。

真上にいる太陽が細い路地にまで満遍まんべんなく光を届け、まさに五月晴れという言葉が相応しい。


――着いた!!

にちかが駆け抜けた先には、西洋チックな建物が一軒ひっそりと佇んでいる。店先に大量に飾られている花は、最初ここを訪れたときに花屋かと見間違ったほどだ。


その西洋チックな建物の正体は、インスタなどのSNSにも載っておらず、サイトもない、見つけた人だけが来ることのできる秘密の喫茶店。


「ランちゃーーーん!!」

にちかは、花に囲まれた店の扉を開けた。

「あら!にちかちゃん。いらっしゃい」

扉を開けるとすぐに、端正な顔立ちをした人物が笑顔でにちかを迎えてくれた。

肩の上で綺麗に切り揃えられたつややかな金髪はいつ見ても美しい。


「今日も飲む?ランちゃん特製ドリンク」

美しいその人物は、くるんとカールした長いまつ毛を片方伏せてお茶目に微笑んだ。クールな切れ長の眼とは反対のチャーミングな仕草がにちかの心を鷲掴みにする。

天使?この人はやっぱり天使なの?

超絶美形の金髪の美しい店主――ランを見て何度そう思ったことだろう。

「飲む」

にちかは、ランに悶えるのを必死に堪えながら言うとランは「おっけー、待ってて」と言うと、赤いドットのついた膝丈のワンピースの裾を可憐になびかせながら、カウンターの奥の方へと姿を消した。



「にちかちゃん、はい、お待たせしました」

ランはカウンターの奥からすぐに現れ、にこりと微笑んだ。

にちかが座っているカウンター席にコトンと小さな音と共にグラスが置かれた。

目の前に置かれたその細長いグラスには、氷と共に透き通った美しい赤色をした液体がしゅわしゅわ、ぱちぱちと音を立てている。

「ありがとー!今日はなに?凄く綺麗な赤色……」

にちかは、グラスにゆっくりと顔を近づける。

わずかに薔薇の香りが鼻をかすめた。

「今日は、ランちゃん特製ローズスカッシュよ」

「ローズスカッシュ……」

「そう!ローズティーと炭酸を組み合わせた、香りも見た目も美しい、ランちゃん特製ドリンク」


ランは、にちかが訪れるといつもオリジナルのドリンクを作ってくれた。

ジンジャーココア、桜のミルクティー、甘酒スムージー……。訪れる度に違う飲み物で、そのどれもに「ランちゃん特製」という言葉が頭についていた。

「美味しそう」

「美味しそうじゃなくて、美味しいわよ。召し上がれ」

確かに。美味しくなかったことなんて一度もない、自信満々のランを見ながらにちかはそう思う。

ごくり。

そう言われて一口含めば、炭酸のぱちぱちとした爽快感と清涼感が口の中に広がり、一気に喉を通っていく。

その両方が、心の中のモヤモヤを洗い流してくれる。

口の中にわずかに残る薔薇の香りが、澄み切った心に自信という風を連れてきてくれるようだった。


「うぅ、なにこれ!美味しい!!」

にちかは身体の隅々まで炭酸が行きわたったのを感じたあと、ぷはぁ!と思い切り息を吐いた。

「もう、にちかちゃん。ビール飲んでるおじさんじゃないんだから。先月から花の女子高生でしょ?」

ランはクスクスと笑っている。

やっぱり、神々しくも反則的なこの笑顔――。

花の女子高生と言われた自分よりもよっぽど花という言葉が似合う目の前の人物に、にちかの心臓は激しく動きはじめる。


初めてランに会った時もそうだった。

生まれて初めて見た完璧なくらい美しい人。そして、美しい人が笑うとさらに美しいということもそのとき初めて知った。




にちかがこの喫茶店を初めて訪れたのは6カ月前の12月のことだった。その日は、酷く冷え込んでおり、天気予報では雪の予報が出ていた。

どんよりとした重たい空の下、家へ家へと足を進める。


――2人とも高校、どこに行くか決めた?

先ほどまでファミレスで一緒に話していた友人たちとの会話が頭の中で再生される。

――え、みっちゃんもめぐも東高なの?

高校受験を控えたにちかは、同じクラスの仲の良い友達であるみっちゃんこと美琴みことと、めぐことめぐみに目をぱちくりとさせながら問いかけた。

「そうしようかなって、東高制服可愛いし」

「そうそう、ここら辺の高校で一番可愛いよねー。あの制服着て高校生活エンジョイしたい」

2人は「ねー」と可愛く首をかしげている。

「にちかも東高かと思ってたけど、違うの?」

「私はてっきり、にちかも東高だと思ってた。にちかの家って東高から近いし」


4つの目がにちか1人に向けられる。

「あ、いや、わたしはまだ考え中!」

本当のことを悟られないようにできるだけ明るく言い放つ。

「そっか、考え中かぁ……。これはさ、わたしの個人的な希望なんだけどさ、高校も3人でいれたらいいよね」

「あ、それ、わたしも同じこと考えてたぁ。3人であの制服着てスタバとか行きたーい」

2人は幸せそうに、ふふふと笑う。

にちかは2人の笑い合っている顔を見てなんだか責められているようなそんな気持ちになった。

わたしも高校でも2人と一緒にいたい。でも、わたしが本当に行きたいのは……。


「あーー、こんなもやもやした気持ちで家になんて帰れないよ」

にちかは、ぐるぐるとした思考と一緒に家へと向かう足を止め、家の近くの赤い滑り台がある小さな公園へと足を向けた。


ベンチにゆっくりと腰かけるとセーラー服越しに無感情な冷たさが伝わってくる。

空を見上げると、ちらちらと雪が落ちて来た。

頬に落ちた雪は一瞬にして水になり、ゆっくりとその頬を伝っていく。

わたしも東高を受けるべきなのかな……。

にちかの目はどんよりとした重たい雲と降って来る雪だけを映していた。

その視界がだんだんと滲んでいく。


「大丈夫?」

突然降り注いだ声と共に、にちかの視界はピンク色の傘と人の顔を捉えた。それも、かなりの美貌の。

「どうしたの?体調でも悪い?」

真上から覗き込まれていることに焦り、にちかは目に滲んだものを拭って、慌てて距離をとる。

距離をとってその人物を見ると、かなりの美貌に加えて、モデル並みのスタイルの持ち主だった。白のタートルネックに黒い分厚いコート、黒のスキニージーンズというシンプルな格好がよりその人の美しさを引き立てている。

肩の上で綺麗に切りそろえられた金髪が、どことなく異国の雰囲気を感じさせる。

ちらちらと降り続ける雪は、まるでその人を引き立てるための演出のようだった。

「も、モデルさん?」

もしくは、天使?という言葉は飲み込み、にちかはまじまじと見つめながら尋ねると「ふふふ、違うわ。この先の喫茶店の店主よ」と笑われてしまった。


モデルであることは否定されてしまったけど、雑誌の表紙で微笑むモデル以上の綺麗な笑い顔に、自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

15年間生きてきた中で初めての感覚だった。

「今は、ちょうど買い出しの帰りなの。そしたら、ベンチで女の子が泣きそうな顔で座ってるじゃない?……だから、話しかけずにはいられなかったの。でも驚かせてしまっちゃったわね、ごめんなさい」

その人はそう話す間もずっとにちかに傘を傾けてくれていた。


「……わたし、泣きそうな顔してましたか」

「うーん、そうね。赤い滑り台よりも目を惹くくらいは。泣きたいなら泣いてもいいのよ。だって、涙を流すのはお肌にいいんだから」

「なんですか、それ……」

「あら?知らない?涙は身体に溜まった悪いものとかモヤモヤしたものを全部洗い流してくれるの。だから、泣いたあとの女は綺麗よ」

「聞いたこと、ないですけど……」

ない、けど。

にちかの頬を熱いものが伝っていく。

「わぁーーーん!!」

自分の中にあるモヤモヤしたものもこの涙と一緒に流してしまおう。


「っ、本当に綺麗になるんですよねっ、うううっ」

「なるわよ、絶対」

「わたし、信じますからね!!」

「もちろん。信じて。……ふふ、それにしてもあなた結構豪快に泣くのね。その泣き方、私は好きよ」

本当は、綺麗になるかどうかとかはどうでもよくて。ただ泣くための理由が欲しかった。

にちかが声を上げて子どものように泣いている間も、雪はずっと降り続けた。

その間中、にちかの頭上にはずっとピンク色の傘があった。




「おまたせ、ランちゃん特製、ハニージンジャーティー」

にちかの目の前に置かれたマグカップからは、ふわふわとした湯気と共に甘い香りが立ち上る。


公園でひとしきり泣いたあと、「涙を流したあとは、何か飲まないとね。うちにいらっしゃい」とそのままこの喫茶店へといざなわれた。


細い路地を通っているときは、このまま付いていってもいいのかと少し心配になったが、その路地を抜けてみると急に現れた西洋チックな建物に心を奪われた。

店先には、豊富な種類の花が飾られており、まるで花屋のようだった。

喫茶店の中はレトロ感溢れる落ち着いた内装だったが、こちらにもあらゆるところに花が飾ってある。


「ありがとうございます」

にちかはお礼を言い、差し出されたマグカップに口をつける。

ほろほろと解きほぐすような優しい甘さは、疲れ切っている心に貼ってもらった絆創膏のようだった。

先ほどまでは身体の末端まで感覚がないほど冷えていたというのに、あっという間に熱が灯っていく。


「……おいしい」

「でしょう?ランちゃん特製だからね。あ、今さらだけど、ランって私の名前ね。ランちゃんって呼んで」

「ラン、ちゃん」

美しくも凛々しい、響きのあるその名前が天使のような目の前の人物にピッタリだと思った。

「わたしは、にちかです。涼風にちか」

名乗られたら名乗らなければいけない気がして、慌ててにちかも名乗る。

「にちかちゃん。良い名前ね」

優しい笑顔でそう言われ、気恥ずかしくも嬉しい気持ちになる。


「あの、ランちゃんも、泣くんですか?」

「……ええ、泣くわよ。にちかちゃんくらいの歳の時は特に泣いてたかもね」

「……そう、なんだ」

「にちかちゃん。私ね、生まれ持った性別は男なのよ」

にちかは心臓が大きく跳ねるのを感じた。

「ごめんね、驚かせて」

ランは少し悲しそうに顔を伏せた。

にちかは力いっぱい首を横に振る。

「少しは驚きましたけど……。ランちゃんが男の人でも女の人でも、たとえ天使でも、ランちゃんはランちゃんです」

ランは「ありがと」と嬉しそうに口角を上げた。


「でも、にちかちゃんみたいに言ってくれる人ばかりじゃなくてね。最初は身体と心の性別が違うことにも、私自身凄くとまどった。……たくさん泣いたわ。でも、たくさん泣いたから、今の私がいるの。だから、にちかちゃんも泣きたいときは泣きなさい。その涙が今からのにちかちゃんをつくっていくから」

そう言ってにちかを見つめるランの目は、やはり美しかった。でも、それ以上に強かった。


出し尽くしたと思った涙がまた浮かんでくる。

「わ、わたし、来年受験で、本当は東高じゃなくて西高に行きたいんです。でも、仲の良い友達は二人とも東高に行くって言ってて、わたしとも一緒に行きたいって言ってくれてて。一人だけ離れるの怖くてっ。でも、調理師免許が取れる西高に行きたくてっ。……どうしても、西高に行きたいんです!!」

「そうだったの」

にちかが全部言い終わるのを待ち、ランはゆっくりと言った。

「……迷うわよね、高校をどこにするか。それで青春時代が作られるんだもの。でも、もうにちかちゃんの中では答えが出てるんでしょう?」

そう言われて、にちかはハッとした。

「心のモヤモヤを涙で洗い流したら、そこから本当の自分が顔を出したりするものよ。にちかちゃん、あのね、新しい世界に飛び込むとき、必ず不安はついてくるわ。今、にちかちゃんが抱いている不安な気持ちは正しいのよ」

ランの言葉の節々に、光が宿っている。

「でも、不安に飲み込まれてしまいそうになるときもある。そうなりそうになったら、ここに来て。不安を和らげるお手伝いならいつでもするわ。ランちゃん特製ドリンクで」

にちかにまたランの美しく優しい笑みが向けられる。


心が今度はとくんと音を立てる。

にちかは、はちみつジンジャーティーを一気に飲み干した。もう冷めていたけれど、心は得も言われぬ温かさに満ちていた。




「学校の方はどう?楽しい?」

「オフコース!!座学はよく分かんないけど、実習は最高に楽しい!」

にちかは、親指を立ててランにそう答えたあと、再びローズスカッシュに口をつける。

ランに最初、この場所に誘われてから、にちかは何度もここを訪れた。

何度も、何度も。


不安になるとこの場所に来ては、ランの特製ドリンクを飲み干した。

「それなら良かった。そう言えば、今週は東高の友達と遊びに行くって言ってたっけ?」

「うん!みっちゃんとめぐと!」

「楽しそう。いいわね、女子高生満喫中って感じで素敵よ」

クスクスと笑ったランの周りで花が咲く。

また、にちかの心臓が大きな音を立てながら早く動きはじめる。

ランを見たときに初めて知った感覚。

何度も通っているうちにどんどん大きくなった感情。

「そう言えば、にちかちゃん綺麗になったわね」

「え、そ、そう?ランちゃんに言われると照れる」

「ふふ、もしかして恋でもしてる?」

「はっ!?!?」

にちかはグラスを落としそうになったが、なんとかテーブルの上に留めた。




「にちか、ごめんね。わたし、東高行った理由、制服だけじゃないの。その、す、好きな人がね東高行くって言ってて……」

そう頬を紅潮させながら言う美琴はさながら少女漫画の主人公のような顔だった。

「わ、わたしも黙っててごめん!わたしも東高に片想い中の人が行くって言ってたから東高選んだの!」

美琴に続けてそう言った恵もまさに恋する乙女の顔だった。

三人それぞれ、第一希望の高校に合格したときに二人が打ち明けてくれた。

「にちかは?にちかは好きな人とかいないの?」

好きな人――。

そう言われて、にちかの脳裏に艶やかな金髪の人物が浮かぶ。

「あ、にちか恋してる顔だ」

「ほんとだ、今頭の中に浮かんだ人物こそ、まさににちかの想い人ね」

そう言う二人の顔は、なんだか嬉しそうだった。




「恋?な、なんで」

「恋すると綺麗になるのよ、人って」

「……あのね!ランちゃん!!わたしが好きなのはっ」

凛とした切れ長の目がにちかを映す。

「だ、だめ!やっぱ秘密!!」

言えない。

初めて感じた胸の高鳴り。

初めて感じたもどかしさ。

初めて感じた胸の痛み。

そのどれも、特製ドリンクでは決して流れることのない感情。

ここに通う理由がランちゃん特製ドリンク以外にもあることは、まだわたしだけの秘密にしておこう。

にちかは、頬を薔薇色に染めながらローズスカッシュを飲み干した。


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