叫んで五月雨、金の雨。

錦魚葉椿

第1話

「亜希さんが亡くなった――――― 」

 電話口からの音声をとりあえず復唱する。

 職場の喧騒はすうっと遠くなる。口から出してみても頭で処理できなかった。

 亜希さんはまだ60歳にもなっていなかったし、とても訃報とつながらない生命力あふれた人だ。

 電話連絡は亜希さんの住むマンションの管理会社からだった。

 管理会社は警察から電話があって、緊急連絡先の私に連絡したと言った。

 亡くなったのは昨日らしい。

 私は午後半休を取って、警察に駆け付ける。

 既にそこで母が暴れていた。

 ――――― そうだった。この人が亜希さんの一番の血縁者だった。


 亜希さんはこの母の妹である。要するに叔母。

 母と亜希さんは昔から本当に仲の悪い姉妹で、葬式程度しか会わない関係性にもかかわらず毎回毎回大げんかをする。

 最後の大げんかは二人の母親の葬式で、母さんが投げた焼香台がおばあちゃんの遺影に直撃して真っ二つになり呆れ果てた僧侶は途中で帰ってしまった。なおそのとき亜希さんの反撃により仏壇は扉が半分取れた。

 その時の喧嘩の火元が図らずも『独身の亜希さんの葬儀代を誰が出すのか』だったなあと思い出す。

「なんでアタシが亜希の葬儀代ださないといけないのよ」

 警察に響き渡る叫び声はとても素面の人とはおもえない。

 目の当たりにすると、やはり体が竦む。自分で自分の食い扶持が賄えるようになって、家を出て以降は、どうしてもというときだけ連絡を取り、それ以外は全力で疎遠にしている。とてもじゃないが精神が持たない。

 夜勤に出勤してくる警察官らしき人たちがチラッと一瞥して通り過ぎていく。

 警察だからか、誰もそんなに動揺していないのだけが救いだ。

 いつもこんな感じで素面です。

 外は梅雨の土砂降り。

 私は少し離れた長椅子に座って他人のふりを決め込んで外を眺める。

 叩きつける雨が窓ガラスの外側を伝って流れている。

 今日、沖縄が梅雨入り。昼に見た検索サイトに流れるトップニュースを思い出す。



 どうして亜希さんは、土砂降りの夜にひとり、車道を渡ろうとしたのか。

 黒い傘に部屋着の黒いワンピース。

 免許証だけはいった小銭入れだけもって、酒のつまみをぶら下げて歩いていて車にはねられた。はねた車は車検切れ。ベトナム人が運転していた盗難車。

 スマホを持っていたら、勤務先かどこかに電話が行って大絶賛絶縁中の姉には連絡がいかなかっただろうに、免許証から照会されてしまったから戸籍から兄姉に連絡が行ってしまったのだろう。

 母さんは二時間たっても怒鳴り続けている。

 ああなってしまうと、しばらくコミュニケーションが無理なことは娘の私が一番よく知っている。

 親戚から「強烈な静香ちゃん、苛烈な亜希ちゃん」と並び称され、この世でただ一人彼女を言い負かしてきた妹は、今この建屋の霊安室なのだから、トイレに行きたくなるなどののっぴきならない生理現象が発生するまでは膠着状態が続くと予想できた。


 亜希さんはすらっと背が高かった。

 そして専門職で高収入。

 私の母は「目立ったところの何もない父と結婚し、平凡極まる私を産んで、専業主婦を貫いて、父の稼ぎを馬鹿にして、その上早死にした父の年金で生活し、知識のすべてをワイドショー番組から収集する」という生活を送っている。お金には困っていない。むしろ遺族年金と生命保険金で焼け太りだ。

 亜希さんはそんな姉を心底あからさまに蔑んでいた。

 一切の許容も妥協もなく。

 片眉を吊り上げて顔をしかめてから話し出す。

 亜希さんの侮蔑はついでに私にも向けられていた。

 独身を侮蔑し続けた姉から産まれたのに、どうもこのまま縁遠く過ごしそうなうえに、世間にひけらかすような目新しい資格も技能もない。つまらない仕事に就いた薄給の姪を、愉快そうにいじり倒す。

 私が亜希さんを苦手にしているように、彼女もまた私を好いてはいないだろう。

 それなのにどうして緊急連絡先に私を書いたのだろう。

 やっぱり、あんな感じでも身内に連絡が伝わってほしかったのだろうか。

 母の絶叫が館内に響き渡り続ける。

 そろそろ本気で公務執行妨害を取られないか心配になってきた。

 日はすっかり暮れて、伯父と伯父の奥さんと従兄弟の侑人と一登、母と私。

 警察署のロビーに亜希さんの親族が全員揃った夜の9時過ぎ、遂に母の狂乱タイムが終了した。


 私たちは24時間営業のファミレスに場所を移した。

 葬儀場に場所を移し、仮安置するのが普通だろうが、これ以上だれが負担するのか明確でない経費を増やさないために、遅い晩御飯は各自精算。

 亜希さんが私たちに残したものは、自賠責すら未加入の車にはねられたおかげで補償するところが何もない自由診療扱いの超高額の医療費請求書。

 死体になったら救急車が使えないから警察まで専門業者に運搬してもらった費用5万円。たぶんここから火葬料と火葬場に運ぶ運搬費もかかるだろう。

 警察の検視が済んだあとどこの葬儀場に運ぶか聞かれて、伯父さんと母さんは焼き場直行を即決した。

 もちろん僧侶なんか呼ばない。寺とは完全に没交渉。それ以外に呼ぶ心当たりもなく。朝一番、八時四十五分から焼却作業に入った。

 一昨日まで生きていたらしい亜希さんは、五年ぶりの悲劇の再会の後、ほんの十六時間で白い骨になってしまった。

 八オンスタンブラーより小さいサイズの素焼きの筒にほんのすこしだけ骨を拾って、おしまいだった。残りの骨をどうするのか、と焼き場の職員にこっそり聞いた。つまらなそうに仕事をする男性職員は「まあ、最終的には産業廃棄物ですね」と答えた。そして男性職員は私に金のトンカチを握らせる。

「撒くつもりならもっと小さくしておいてください」

 白い粉になった亜希さんは多少こぎれいな箒で掃き寄せられている。

 価値のある金属類だけ拾われてカルシウムは産廃。

 母が生きているうちに死んでも、母が死んでから死んでも、私を埋葬してくれそうな人はいない。私は九割以上の確率で、白いカルシウムになって箒で掃き寄せられて産廃になるのだ。

 こんな風に。



 渡されたその骨壺の骨をどうするかで、兄妹はさらに紛糾した。

 一族の墓に埋葬するという常識的な選択肢はなかった。

『私の骨なんかそこの池に流して、かまぼこ板にでも名前を書いて浮かべとけ』

 例の葬式での遺言の通りにすることにしよう、という結論になった。

 売り言葉に買い言葉だったはずの一言で農業用貯水池を永遠の住処にすることになった亜希さんに同情を禁じ得ない。口は禍のもとである。

 土砂降りの中、伯父さんの家の畑の農業用貯水池に骨が投げ込まれた。

 骨は静かに沈んでいき、横を深緑の大きなカメが横切る。

 池の水にたたきつける雨に遮られて、骨の行方は分からなくなった。

 せめて雨があふれて川に流れつき、早めに海に流れていくことを祈った。



 返却された家の鍵と住所を辿って、亜希さんの家の扉を開けた。

 それなりに古いが便利なところにあるマンションだった。

 北欧風に整えられた部屋は嗅ぎなれない独特の香水の匂いがする。サバトラの猫がカーテンレールの上から威嚇して唸った。


 母さんと伯父さんは昨日の夕方からの怒涛のイベント続きに疲れを隠しきれず、部屋の床にどっかりと腰を下ろした。

 警察に行って、焼き場にいって、役所に行って。家に帰って骨を流して、トンボ帰りで亜希さんの家の偵察。

 とりあえず死亡届だけは提出して、骨の処理がおわっただけだ。専業主婦の母さんと、サラリーマン退職後農家の伯父さんには、この先続く一人の人間の後始末がどれほど大変か予想できているようで予想できていないだろう。

 まったくどんな生活を送っていたか想像できない人の人生の痕跡をひとつずつ潰す。勤務先に手続きをして、この家の中身を物理的に処分して、交通事故の後処理をして、下手をすれば加害者との裁判沙汰にも参加して。

 亜希さんも高給取りだったのだから、死亡退職金ぐらいはでるだろう。それなりの生命保険にも入っているかもしれない。そうすれば、見た目高額の医療費を精算しても、いくらか残があるはずで、この二人の相続財産になるはずだ。

 まあせいぜい頑張ってほしい。

 でも、亜希さんは冷静で周到な人だったから、きっと死後の処理をどうするかとか決めているだろう。骨の処理だけは今更どうにもならないが、死亡したことがわかれば、手続きをしてくれる人が現れるかもしれない。その場合は絶対に兄弟に金が行かないよう設定しているだろう。

 下手に関与したら面倒な作業を丸投げされた上に、最終的に何の利益もなく、母のヒステリーに神経を削られる未来がはっきりと予想できた。

 ――――― 逃げなければ。

 二人が戦況に気が付かないうちに、静かに撤退しなければならない。

 そうだ撤退一択だ。


「俺たち明日朝から仕事だから。形見分けもらって帰っていいかな」

 沈黙を破ったのは一登だった。

 侑人は部屋の隅の猫のキャリーバックを持ち上げた。

「俺はサバエさんを貰うよ」

 サバエさんと突然改名されたサバトラをカーテンレールからそっと抱き取る。

 私たちが部屋に入って以来、警戒してカーテンレールから降りてこなかったその猫は、嫌がる様子を見せなかった。細身のきりっとした顔、桜形に切り取られた耳、淡い緑色の瞳。

 諦めたように、あるいは自分の置かれた状況を正確に理解しているように。

 兄妹二人は金目の物を引かなかった侑人にあからさまにほっとした顔をする。

「あんたはどうするの」

 さっさと適当なものを持って帰れ、という色彩の圧が掛かった。

 おそらく、何かもらって帰るほうが彼らは安心するのだろう。自分の取り分を脅かさないかを心配しているのだ。

 何がいいだろうと見まわす。

 食卓に放置されたままのアイスペール。彼女がその夜飲むつもりだったウィスキーの氷が溶けたのだろう。半分水が残っていた。

 私はそのガラスのバケツをもらって、侑人と一登とサバトラのサバエさんと一緒に亜希さんの家を辞した。


 次に会うときはまた誰かの葬式だろう。

「うまく逃げられてよかったね」

 侑人と一登は悪い顔でにやりと笑った。

 ババ抜きのババを相手に残して、ゲームから逃げたのだから、さっさと帰ろう。と一登が言った。道ですれ違ってもきっと従兄弟だとわからない。二人とは連絡先も交わさずに駅で別れた。

 遺伝子の塩基配列以外に共通点のない人との交流は苦痛で、無意味だ。

 私はまた独りに戻る。



 帰りの駅で花を買った。

 好きな花を問われたけれどわからないので、ただ白い花を、ありったけ。

 準備していた香典袋から現金を出して、支払う。

 昨日は徹夜だった。

 靴を脱ぎ散らかして、ストッキングと喪服を脱ぐ。

 蛇口を開いて水を出し、花束を投げ入れたアイスペールに溜め、窓際においた。

 一昨日から降り続いていた雨、雲の切れ間からまっすぐに夕陽が差し込んでくる。


 カーテンを開いて窓を開けた。

 まだ降っている雨が光を通して金色に輝いている。

 亜希さん個人にはまったく思い入れもないというか、全然いい思い出がないけれど。

 私は、ただ独り、息絶えた人を悼んだ。


 未来の私を悼むかわりに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

叫んで五月雨、金の雨。 錦魚葉椿 @BEL13542

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説