第3話 人々の陰

 ときおり航海から帰ってくるデイヴィスは、そのたびにオルソンの屋敷へ行って何やら渡しているのをマリサは見ていた。それは何かはわからないが、航海で得たものであるようだった。いつもはマリサにあまりいい顔をしないオルソンの妻、マデリンもこの時は機嫌が良かった。

「アルバート、久しぶりに街へ行きましょう。子どもたちもつれてね。ぜひともお願い」

 甘えたように夫、オルソンに話しかけるマデリン。

「街へ行くの?やったー!」

 アーネストが言うと弟たちも喜んではしゃぎまわる。

「そうだな、お金が入ったからほしい物を買ってやろう」

 オルソンの返事にマデリンも子どもたちも大喜びだ。マリサはその中に自分は含まれていないことを理解している。一緒に遊んだり勉強したりするとはいえ、自分は彼らの家族ではない。その場から下がろうとすると

「マリサも一緒に行こう。買い物の勉強をしよう」

 そう言ってオルソンが手を差し伸べる。

 それはいいことなのだろうか。ふとマデリンの顔を見ると表情が和らいでいる。そのことに安心したマリサはようやく笑った。

「ありがとうございます、領主様」

 街へ行くことがなかったマリサはそのにぎわいを知らない。ましてお金で物を買うこともしたことがない。見たことがない世界へ行くことに気持ちが高ぶった。


 翌朝早くマリサ達は使用人たちに見送られ、馬車で街を目指す。マデリンはいつもよりおしゃれをし、滅多に使わない高級な香水を吹きつけており、酔いそうになるくらい馬車の中にその香りが漂っていた。

「奥様、とてもいい香りです」

 マリサが言うと当然のことだとばかりにマデリンは微笑む。

「マリサもこの香りのよさがわかるようになったのかしら。フフッ」

「はい、奥様。特別な日に着ける香水だからきっと宝物の香水だと思います」

「あらあら、なかなか上手にものを言うのね」

 マデリンはマリサについて使用人の子どもと言う認識しかなかった。マリサが来た当初に『貴族の血を引いている』とオルソンが言っていたが、トラブルに巻き込まれそうでむしろ使用人の子どもとしてみた方が良かったのである。


 街へ着いたマリサ達はマデリンの買い物に時間を割いた。オルソンは子どもたちに1シリングずつお金を手渡す。

「このお金はこの辺の大人が一日働いて得るお金だ。それを忘れずに買い物をしてみなさい」

 子どもたちは乳母と一緒に店へ繰り出す。オルソンはと言うとマデリンの買い物にじっくりと付き合うつもりだった。


 1666年にロンドンで大火があって以降、避難経路の確保と安全への配慮から店の軒先へはみ出して商品を並べることがなくなり、ガラス窓越しに商品が見えるようにして販売されていた。

 マリサにとってこの人通りの多さは衝撃だった。老若男女、とても多くの人が往来を行き交っている。走り回れば誰かにぶつかりそうになるくらいだ。中には肌が黒い人も誰かの使用人として歩いている。

「マリサは何を買うの?」

 あまりの人の多さにじっとしていたマリサにアーネストが声をかける。

「アーネスト様、私は何を買っていいかわかりません」

 買い物をしたことがないので買い物の仕方もわからなかったのだ。

「じゃあマリサ、お菓子を買おうよ。イライザもきっと喜んでくれるよ」

「はい、ではそのようにいたしますのでどこで何を買うか教えてください」

 そう言うマリサを引き連れて子どもたちが店を巡る。と、ある店先へ来るととても甘いにおいが漂いだした。そこにはいくつかの焼き菓子が売られている。マリサの知らないお菓子ばかりだった。

「このお金でこの焼き菓子を買うことはできますか」

 お菓子の中からキャロットケーキを見つける。

「買えます。十分買えますとも」

 店の主人は貴族の子どもたちが来たことで喜んでいる。貴重で高価な砂糖の代わりにニンジンをたっぷりいれたケーキだ。今までにもイライザがニンジンを使ったケーキを作ってくれたことがあるので安心感がある。

「おじさん、せっかくだから砂糖を使ったお菓子にしてくれないか。この子は初めて買い物をするんだ」

 アーネストがそう言うと店の主人はさらに顔色をよくする。

「承知しましたよ。ではこれなどはいかがでしょう」

 店の主人が見せたのは乾燥フルーツがたくさん入ったフルーツケーキだ。砂糖を使ったアイシングで装飾されており、マリサは初めて目にしたケーキである。

「マリサ、このケーキにしようよ。イライザに食べさせてあげて」

 アーネストのこの一言がきっかけとなり、マリサは初めての買い物でフルーツケーキを買う。


 店の主人からケーキとお釣りを受け取ると、何だかワクワクして買ったばかりのケーキを眺めた。

 そして再び目を外に向けたとき、どこからか視線を感じた。みると一人の女の子がじっとマリサを見つめている。マリサより年齢は上だろう。背が高いのだが、汚れた服を着て髪の毛もボサボサである。よく見ると他にもそうした子どもや大人が片隅にいた。

「マリサ、気になっても近づいてはダメですよ。さあ、領主様のところへ戻りましょう」

 乳母がマリサ達に声をかけるが、マリサは動けないでいた。


(あの人たちは何であんな格好でいるのだろう……)


 彼らにしてみれば、同じ子どもなのに貧富の差で隔たれていることが許せないのだろう。マリサは乳母の制止を振り切って見つめている子どもたちのところへ行く。


「お腹がすいているのね。これ、食べて。みんなで食べたら美味しいよ」

 そう言って買ったばかりのフルーツケーキを差し出すと、彼らは無言で礼をしケーキと共に去っていった。

「いいのか、マリサ。母さんに食べさせようと思って買ったのだろう?」

 アーネストも乳母もマリサがなぜそんなことをしたのかわからないでいる。

「あの子どもたちはお腹が満たされたら今日一日幸せになります。母さんもきっとこうしたでしょう」

 日ごろからイライザに聖書を読んでもらっているマリサは、そこにイライザがいなくてもどうすべきかわかる気がしていた。そして残りのお金で安いキャロットケーキを買い、お釣りをオルソンに返した。

「いいのか、マリサ。まだまだ買い物をすることはできるのだよ」

「領主様、必要なものを買うことができたので私は十分です」

 その様子を見ていたマデリンは

「ほらね、マリサはお金を使うにはまだ幼いのよ。アルバート、使用人の子どもなのだから買い物なんかさせないで荷物持ちでもさせれば?」

と言い放った。相変わらずマデリンはマリサに冷たい。マリサはその理由がわからなかったが、屋敷内でも使用人の前では高圧的な物言いをするマデリンと距離を置いている。

「マデリン、マリサは……」

 オルソンが言おうとしたが

「わかっているわよ。マリサが貴族の血を引いていると言いたいのでしょう。それならなぜイライザが育てているの?イライザはあの船乗りと結婚もしていないのよ。マリサが誰の子か知りたくもないけど、我が家のお金の一部を小遣いとして与えるのも理解できないわ」

 マデリンは不満顔だ。

「公にはできない事情もあるのだ、マデリン。君が買い足りないのはわかったから次の店で買い物を続けよう」

「そうよね、アルバート。夜会に着ていくドレスの生地を選びたいわ」

 同行している乳母もマデリンの浪費癖はよくわかっていた。こうなることも予想できていたので子どもたちを連れて街の散策へむかう。


「婆や、私は何かいけないことを言ったの?それになぜさっきのような子どもたちがいるの?あの子たちは家があるの?父さんや母さんがいるの?」

 マリサが矢継ぎ早に聞いてきたので乳母はマリサを抱きしめた。

「大人になったらわかることですよ。世の中にはまだまだマリサの知らないことがあるのです」

「今教えてちょうだい。母さんはお屋敷で働いているけど私は働かなくてもいいの?」

 マリサの様子に乳母は困惑している。マリサがイライザの本当の子どもでないことは誰もが知っていることだ。あの日突然にイライザに抱かれてやってきたその子は、庶民の、それも使用人の子どもにしては似つかわしくない絹の服を着ていた。マリサが庶民の子どもではないことは明らかだった。しかもデイヴィスやイライザとも違う金髪碧眼で顔も似ていなかった。

「もしも働かなくてはいけないのなら、マリサはお坊ちゃまと一緒に遊んでお勉強することが仕事になりますよ」

 そう言って乳母はマリサに優しく話すと、子どもなりに理解したマリサはそれ以上聞くことはなかった。



 街で見たことは貧富の差だけではない。

 

 マリサは言語能力が高く、言葉を早くからたくさん覚えていた。耳にした言葉や乳母が聞かせるいろいろな物語から言い回しや構文をそのまま覚えることがよくあった。そのため目にする文字に対しても興味をもち、この文字は何と読むのか、どんな意味か聞いて回ることが常だった。


 界隈で気になる看板にかかれている言葉を近くの人に聞くわけだが、それがどのように読むのかわからず、残念そうに自分を避ける大人がいたことを不思議に思っていた。それは老いも若きも隔てなく文字を読み書きできない人は存在し、当たり前に人は文字の読み書きができると思っていたマリサには予想外であり、文字のない街などないのに書かれている言葉がわからず、書くことができない人の存在は先日からオルソンによって読み書きを教わっているマリサには驚きだった。

「アーネスト様、なぜ大人になっても文字がわからない人がいるの?領主様が教えたらいいのに」

 社会のひずみを感じ取っているマリサに説明できないでいるアーネストのかわりに乳母が答える。

「マリサ、お坊ちゃまを困らせないでね。世の中には文字の読み書きよりもその日食べることに精いっぱいの人たちがいます。みんなが勉強できるわけじゃないのですよ」

「それはさっきの子どもたちもそうなの?私とおなじ子どもなのに」

「そうです」

「なんでそうなるの……」

 この街で見聞きしたことはマリサの心にある考えを根付かせる。それは後に船上では同じ仲間であり民主的に物事を決めるという海賊たちの考えと合わさってゆく。


 屋敷へ帰る道中、マリサは疲れて馬車の中で眠っていた。乳母はマリサがイライザに買ったキャロットケーキを大切に持ち、今日のマリサの様子をオルソンに報告した。

「なるほどな……貧富の差と文字の読み書きができない人がいることを知ったのか……そうなら今日のお出かけはいい経験になったな」

「良いではありませんか。使用人でありながら自分が恵まれているということがわかったのだからね。これを機に身の程をわきまえるようになればこの子にとって幸せなことだわ。どれだけ私たちが目をかけてやっているのかイライザも思い知ることでしょうよ」

 してやったりと言う顔でマデリンがすましている。

「マデリン、この子は賢い。言葉を覚えるのも早いがこの年齢で社会事象を自分なりにとらえようとしている。私はマリサの後見人になろうと思う。マリサが我が元を離れ、どの道を進もうとも困ることがないようにな」

 オルソンの言葉に目を丸くするマデリン。

「物好きもほどほどにした方が良くってよ、アルバート。それ以上言うのなら私も好きにさせてもらいますからね」

「これは私掠船の擁護者としての責任でもあるのだよ」

 オルソンが言うとマデリンはマリサを一瞥いちべつし目をつむった。


 

 屋敷へ帰った一行は使用人たちに出迎えられ、マデリンのたくさんの荷物から順番に降ろされる。そして最後にマリサを抱いた乳母が降りるとイライザがその腕から我が子とキャロットケーキを受けとった。その拍子にマリサが目を覚まし、イライザを見て安心したのか胸に顔をうずめる。

「母さん、街には私の知らないことがいっぱいあったの」

「わかったわ。家に帰ってからゆっくりと聞くわね。キャロットケーキも一緒にいただきましょうね」

 優しいイライザはマリサにとって安心できる人物だ。日中はマデリンの視線に緊張しながらも3人の息子たちと一緒に勉強をしたり遊んだりしている。マデリンの存在はマリサを人の顔色をうかがうような子どもにかえていったのである。

 

 家へ帰ったマリサはデイヴィスをまじえ、その日見聞きしたことを話した。イライザやデイヴィスにはわかりきったことではあるが、マリサが社会に目を向けていることに成長を感じないではいられなかった。

 街で買ったキャロットケーキは自然な甘さがある。高価な砂糖を使ったフルーツケーキはマリサの口に入ることなく、あの貧しい子どもたちの生きる糧とされた。そのことにイライザは神に感謝をする。


(マリサが人々の幸せのために考え、行動することができたことを感謝します……)


 キャロットケーキを食べながらデイヴィスも微笑んでいる。たまにしか家へ帰らないが、その都度マリサは成長を見せてくれる。そしてロバートとマーガレットの思い出に浸ることがデイヴィスにとって楽しみになっていたのである。

 

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