第2話 オルソンの息子たち
イライザが屋敷で働くようになった初日。
オルソンは使用人に言いつけて妻と息子たちを呼んだ。何事かと驚き顔でやってきたオルソンの妻マデリンはイライザに抱かれたマリサを見てさらに驚いた。
「まあ……なんてかわいらしいのかしら。でもこの子を見せるためにわざわざお呼びになったの?」
「詳しいことはまたゆっくり後で話すが、ここにいるイライザはこの屋敷で働くことになった。イライザが働いている間、面倒を見ようと思ってな」
「使用人の子どもの面倒を
「この子はちょっと訳ありでな……。ある貴族の血を引く子どもだと言っておこう。息子たちのいい遊び相手になることを祈っているよ」
オルソンがそう言うと、3人の息子たちもそばにやってきて次々にマリサの顔を覗き込む。
息子たちは年子で5歳のアーネストを筆頭に4歳のルーク、3歳のアイザックと言う名前でとても仲が良かった。辺境の田舎の貴族であるせいか、もっぱら遊びの相手は兄弟と森や庭などの自然だった。それだけに自分たちより小さな、しかも女の子の出現は息子たちを喜ばせた。
「へえー、女の子だ、女の子だよ」
「女の子って何て言って泣くんだろう……」
「お父さま、名前はなんていうの」
「お坊ちゃま、この子はマリサと言います」
イライザが抱いていたマリサを降ろすとマリサは不安がってイライザの足にしがみついた。
「大丈夫だよ、僕たちは君と一緒に遊びたいんだ。ほら、これあげる」
年長者であるアーネストはポケットからある物を出す。それはこっそりと隠し持っていた砂糖菓子だった。
マリサが恐る恐るそれを受け取ると、アーネストが食べるしぐさを見せた。それが食べるものだとわかったのか、マリサは砂糖菓子を口に入れた。たちまち口の中に広がる甘み。それが奴隷たちの人身売買の対価と労働を伴っていることに当然ながら知ることはない。マリサはその甘みににっこりと笑った。
「またあげるよ。ぼくはアーネスト。何でも聞いて」
「アーネスト、ずるいぞ。僕かってマリサと友だちになりたいのに」
次男のルークが口をとがらせて抗議した。
「友だちになりたいのに」
三男のアイザックも言葉をまねて言い寄った。
オルソン家の3兄弟はどの子どももオルソンにそっくりだった。そしてよく父親の所作や口真似をして使用人たちを笑わせていた。特に嫡子であるアーネストは賢く、遊び上手だった。
マリサはイライザの足元から離れると手を前に伸ばし、一歩二歩とゆっくり歩きだす。しかし足腰がしっかりしていないのでそのままうつぶせになって倒れこむ。
うえーん……
マリサが泣きだすと慌ててアーネストが抱き起した。
「大丈夫だよ。もう泣かないで」
そう言うと弟たちもマリサに駆け寄り体に着いた土汚れをはらう。
「大丈夫だよ。もう泣かないで」
「大丈夫だよ。もう泣かないで」
ルークが兄と同じ言葉を言うとアイザックも真似た。
「おやおや、息子たちはとっくにマリサを受け入れたみたいだな。マリサを取り合ってけんかをするんじゃないぞ」
オルソンがそう言うそばで妻のマデリンが
「女の子に恵まれなかった私への当てつけかしら。アルバート、この子はまだうまく歩けないようね。体も小さいしちゃんと育つかどうかわからないわよ。それでも面倒を見るの?」
夫のわがままにあきれ顔をして言う。
「心配はいらん。息子たちの養育係にそのまま引き継ぐ。この子はいつかは元の家に帰るだろうから外に出しても恥ずかしくないように育てないとな」
シャーロットと違い小さく生まれ、育ちもゆっくりだったマリサはこの時点で1歳半をとっくに過ぎていたが、体が小さくてうまく歩けないことから周りから1歳になったばかりか、もしくはそれより月齢が低いのではとみられた。しかしそのおかげで屋敷の人々に「守るべき存在」として受け入れられることになったのである。
イライザは恋人デイヴィスが航海に出ている間、日中は屋敷で働き、夜は屋敷近くの小さな借家でマリサとともに過ごした。マリサが来た当初、着ているものが刺繍が施された絹の子供服だったことから、使用人たちもマリサがイライザの本当の子どもではないことを知る。子供服をわざわざ作るのはよほどの金持ちか貴族ぐらいだ。しかも絹織物である。庶民はそんな小さな子供の衣服にお金をかけなかった。
そんなマリサは特に息子たちに気にいられ、イライザが朝仕事に来るとすぐに乳母とともにマリサを迎えに来て一日を過ごすようになった。自分たちのおもちゃを貸し与えたり、一緒に遊んだりしてマリサが笑顔になるとそれだけで騒いだ。それだけマリサが加わったというのは刺激だった。
しかしオルソンの妻のマデリンは線引きをしたいと考え、マリサには綿の服を仕立てさせて着せた。それはオルソンが言うように訳ありの子どもであるなら、後々やっかいな問題が降りかかることを懸念したのである。もっとも、オルソンにはそんな小さな子供に絹の服は過ごしにくいというもっともな理由をいったので本心を知られることはなかった。
月日が経つにつれよたよたと不安定にしか歩けなかったマリサはしっかりと歩けるようになった。一番喜んだのは息子たちである。
「マリサ、こっちおいで」
アーネストが呼びかけるとマリサは小さな足をしっかり動かして小走りをするようになった。
「マリサ、こっちだよ」
「こっちこっちだよ」
ルークやアイザックも同じようにマリサを呼ぶ。
マリサと息子たちは庭を走り回る。もうマリサは滅多なことで転ばなくなった。これが貴族の娘として育ったのならこんな走り回ることはしなかっただろう。やんちゃで活動量が多い息子たちのおかげでマリサはしっかりと運動をすることができ、小柄な体も少しずつ順調に発育していった。誕生日もわからないままマリサが4歳を迎えたころには同世代の女の子の発育とほぼ同じくらいになっていた。
1694年10月。子どもたちは大病をすることなく順調に成長をしていた。
「マリサ、今日は森へ探検へ行こうぜ。僕は国王だ、ルークは大臣、アイザックは騎士団長だ」
天候が良く、外出日和である。8歳になっていた国王気取りのアーネストは生えていないあごひげを撫でる真似をして威張って見せる。
「国王陛下、マリサはどんな役に?」
7歳のルークが膝まづいて国王役に尋ねる。
「決まっておる。マリサ姫だ。アイザック騎士団長、しっかりとマリサを守るように」
アーネストは父親のおしゃれな帽子をこっそりと持ってきており、アイザックにかぶせる。
「ははーっ」
アーネストの『命令』に有難く帽子をかぶった6歳のアイザックが答えた。
さすがに子どもだけで森の探検へ行くのは危険なので、執事のトーマスの計らいで乳母と庭師のジョナサンが同行をすることになった。子どもたちはイライザから人数分の昼食を受け取ると、隊列を組んで森を目指す。
オルソンの領地には荒れ野やら森やら手つかずのところがまだまだあった。特に荒れ野は耕地として痩せており、畑作や村の成立さえできていなかった。そんな荒れ地を隊列を組み、マリサを真ん中にして練り歩くアーネスト達。
1時間も歩くとうっそうとした森へたどり着いた。もっと金持ちの貴族の子どもであるなら1時間も歩くことはないだろう。オルソン家はある理由で貴族でありながら困窮した状態であり、同じ規模の貴族に比べて使用人の数が少なかった。
「さあマリサ姫、一緒に参りましょう」
騎士団長役のアイザックがマリサの手を取って誘う。マリサは微笑むとオルソン夫人のように背筋をのばして目を細めて言った。
「神々に守られし騎士たちよ。いかなることがあっても悪に染まることなく正義を貫きなさい」
マリサは物覚えが良く、特に
「ははーっ」
アイザックは騎士団長になりきっている。子どもたちは物語を真似て庭でよく剣の真似事をしていた。そのときに花で作った勲章や冠を渡すのは姫役のマリサである。普段からこうした遊びをオルソン伯爵や使用人たちは楽しんでみていた。
子どもたちは森の中へどんどん進んでいく。
「これから先に余の秘密の城がある。お前たちに見せてやろう」
国王役のアーネストが案内すると小さな湖のほとりに小さな小屋があった。それは小屋とは名ばかりで、岩や枯れ枝、木切れ、帆布の切れ端などを使ってできた粗末なものだった。アーネストが事前に庭師のジョナサンと一緒につくったものだ。そして近くの大木からつる性の植物の太いつるが降りていた。
「これはこれはご立派な城でありますこと。誠に国王にふさわしい城でございますね。湖も澄んでいて美しい」
マリサが言うとアーネストは得意げな顔をした。
「この湖の底にはアーサー王の
「ははーっ」
大臣役のルークが膝まづく。
「アーネスト兄さま、本当にエクスカリバーがここに眠っているの?婆やからそんな物語は聞いたことがないよ」
「ルーク、今は遊びだからそういうことにしておいてくれ。せっかくいい調子だったのにそんな話をして崩すなよ」
アーネストが言うとそばで聞いていたマリサは湖をじっと見つめた。
「エクスカリバーが眠っているのかいないのか、それは神のみぞ知る(God only knows.)。その存在は人間の範ちゅうにない」
マリサが難しい顔をして言うと兄弟たちは目を丸くする。
「またマリサが難しい言葉を言ったぞ……。『範ちゅう』ってなんなの、アーネスト兄さん」
ルークがいうと
「『神のみぞ知る』ってどういうこと、アーネスト兄さん」
アイザックも尋ねる。
「マリサ、意味が分からない。どういう意味なんだ?」
慌ててアーネストが尋ねるとマリサはニコリとして静かに答える。
「アーネスト様、ルーク様、アイザック様、またみんなでお勉強いたしましょう」
「……まいったな……マリサにかかるとすぐにお勉強だからなあ。わかったよ……今日一日遊ぶ分、明日一日はこもって勉強しようぜ」
アーネストがそう言ったとき、一陣の風が吹き抜ける。
「あっ!」
風に吹かれてアイザックがかぶっていた帽子が飛ばされる。
「お父様の帽子が……」
アイザックが帽子を追いかけると帽子は湖岸から離れた湖の一角に着地する。
「お父様に叱られるぞ。なんで帽子に手をかけていなかったんだ」
アーネストも慌てている。黙って帽子を持ってきてしまったので罪悪感も生まれている。
帽子はそんな息子たちをあざ笑うかのように湖に浮かんで揺れていた。
「お坊ちゃま、私がかわりに叱られますからどうかお嘆きになりませんように」
乳母が息子たちを慰めるが、息子たちはあきらめきれないようだ。
「お父上も帽子のことよりも無事に皆さんが遊んで帰られることを祈っておいでですよ」
庭師のジョナサンも慰めるが息子たちの顔色は変わらない。
マリサはそんな3人の様子を見て、ふと秘密の城の大木を見た。つる性の植物が茂っており、太いつるが伸びていたのである。
(つるを持って体を揺らせば帽子のところへ行けるかもしれない)
そう考えるとすぐにつるのところへ行く。そしてつるを握ると振り子のように体を揺らし、湖へ飛ぶ。
バシャ―ン!
湖に飛び込むマリサ。
「マリサ、なんてことを!」
乳母が血相を変えてやってくる。
マリサは何とか帽子を手にすることができると思っていた。しかし、マリサは知らなかったのである。
湖の底は深く、足が届かない。
マリサは体をバタバタするが足が届かず、また水を吸った衣服は重たくマリサの動きを捉えて離さない。そうこうするうちに口や鼻から水が入ってきて息もできなくなった。
「た、助けて……」
そう言うがやっとで、そのまま体が沈む。
バシャ―ン……誰かが飛び込む音がする。
「マリサ、私につかまれ」
庭師のジョナサンがマリサを抱えたが、マリサはそのまま意識を失った。
岸へあげられたマリサは水を吐かされ、やがて息を吹き返す。心配そうに顔を覗き込んでいた息子たちはその様子に安堵をした。
うああーん……
怖さだけが残ったマリサは助かったこともよくわからず泣き続ける。
そんなマリサを乳母が抱きしめて体を撫でる。
「もう大丈夫ですよ。さあ、今日のところはもう帰りましょう。お洋服もずぶ濡れですから」
乳母は自分のストールでマリサをくるむ。そしてジョナサンがマリサを抱いた。
「ごめん、マリサ。僕が帽子を飛ばされたせいで……」
アイザックがうなだれている。
「いや、僕もお父様にだまって帽子を持ってきてしまった。僕も悪い」
アーネストも浮かない顔だ。
「そんなことよりも命が助かったことが大切ですよ」
乳母が言うとジョナサンに抱かれたマリサがくしゃみをした。
ジョナサンの提案に息子たちも同意し、残念な探険を終えることになった。ジョナサンはストールにまかれたマリサを抱きかかえ、息子とたちの後に続いて歩き出す。
屋敷に着くとすぐに事件が報告され、オルソンとイライザが迎えにくる。
イライザはマリサを受け取ると涙を出してほおずりをする。
「怖かったのね……もう大丈夫よ。神様があなたとともにいらっしゃるわ……」
失われたかもしれないマリサの命。イライザは神に感謝する。そんなイライザの顔を見てマリサもほっとしたのか泣き出した。
あーん……あーん……
ずぶぬれで泣き出したマリサを抱いたイライザに、オルソンは今日はこれで仕事を終わっても良いと伝える。
その言葉を有難く受け取ったイライザはマリサを抱きかかえて家へ帰っていった。
「お父様、僕が勝手にお父様の帽子を借りていて、その帽子が湖へ飛ばされたからマリサがとろうとしたんです。僕がもう少し思慮深かったらこんなことにはならなかった……ごめんなさい……」
アーネストに続き
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
ルークとアイザックがうなだれるが厳しく𠮟ることはせず、オルソンは息子たちに言って聞かせる。
「お前たちはまだ守られる存在だ。軽率な行いが命を脅かすことをこれで知っただろう。命を守るためには危険を予測して行動することが大切だ。それは湖だけでなく、森でも道でも屋敷内でもあることだ。3人いればそうした話し合いもできるだろう。これからは探険に行く前にじっくりと大人にまず相談をしなさい。帽子が濡れて台無しになったことは大きな問題ではない。大切なのは人が死ぬところだったということだ。私はお前たちを失うわけにはいかないのだ」
そう息子たちに言うと、そばにいる庭師ジョナサンと乳母にも声をかける。
「マリサを助けてくれてありがとう。これからも息子たち同様に頼むよ」
「承知しました領主様」
ジョナサンと乳母は顔を見合わせて笑顔を見せ、安堵した。
家へに帰ったころにはマリサは寒さを訴え、体を震わせていた。
「母さん、寒い……寒いよ……」
「体が冷えてしまったのね……暖炉に火をつけてあげるわね」
着替えをさせて毛布にくるむとイライザは暖炉に火をつけた。そこへ誰かがドアをたたく。
急いでマリサを寝かせると来客の対応をすべくドアをあける。
「まあ、ジョン!お帰りなさい」
それはイライザの恋人であるジョン・デイヴィスだった。”青ザメ”の船、デイヴィージョーンズ号の船長として大西洋を駆け回っている男だ。そしてマリサをウオルターのもとからさらった張本人である。
「無事に帰ったよ、イライザ。マリサは元気か」
「今日は事件があって大変だったのよ」
イライザとデイヴィスがマリサのもとへ来た頃にはマリサは寝息を立てていた。
「湖でおぼれたらしいの……庭師のジョナサンが助けてくれたわ」
そう言って毛布をかけなおす。
「そうか……それは危なかったな……でも助かってよかった。ロバートとマーガレットの子を失うわけにはいかないからな」
自分とイライザが育てると言いながらも現実的には幼児を連れて働くのは困難だ。オルソン伯爵が”青ザメ”を擁護する立場でなかったらマリサの養育は困難を極めただろう。
そして夕方になり、イライザが食事の用意をしている間にマリサは目を覚ます。
「帰ったよ、マリサ。今日は危なかったそうだな」
ずっとマリサのそばにいるデイヴィス。なぜなかなか父親にに会うことができないのかマリサは不思議に思っていた。
「父さん、お帰りなさい……」
そう言うマリサは赤ら顔で汗をかいており、ときおり体が震えていた。デイヴィスはその様子にただならぬものを感じ、マリサの額に手をやる。そしてマリサが発熱しているのを知る。
「熱があるな……風邪を引いたんだな」
デイヴィスがイライザに知らせようとしたが、マリサはデイヴィスの手を握って離さない。
「ここにいて、父さん。またお話を聞かせて」
マリサはデイヴィスの顔を見つめている。握っているマリサの手は熱でほてっていた。
「わかったよ。ここにいるよ。どんな話がいいかな」
「騎士とお姫様のお話は乳母がいつも話してくれるから父さんには私掠や海賊の話をしてほしい」
「そうかそうか。じゃ、怖がるなよ」
そう言ってデイヴィスはマリサの手を握ったまま私掠や海賊の話を面白おかしく聞かせていく。もちろん実際は面白いことばかりでなくかなり血なまぐさい話もあるのだがそれは避けた。
デイヴィスの話を聞きながらまたマリサは眠りにつく。それは親がそばにいるというごく当たり前のことに安心しているからだった。
普通の家族なら当たり前のことがなぜかないことに薄々気づいていたが、まだマリサにはそれについて考えることができなかったのである。
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