【第四話 kiss me】
「愛しいものに愛しいと言って何が悪いのだね」
怪人は両腕を広げ、事も無げにのたまった。
「だいたい君達の見識は狭いのだよ。男だ女だと区別をつけて何が楽しいのか。肌の色だの宗教だの、馬鹿馬鹿しいと思わんかね。くだらない。生きているもの、死んでいるもの、我輩は万物を愛しているのだよ。これぞ健全というやつだ」
山積みの死体をうっとりと眺め、彼は続ける。
「世界ごと愛している。時空さえ超えて。君達に解るか? ほら、また鐘が鳴る。日が暮れるのは早いのだ」
角川 罫 『四ツ鐘が鳴る』
家族旅行に行きたくないと駄々をこねては僕にしがみつき、帰ってきたら帰ってきたでさびしかったと抱きつく。高校生はこんなに幼かっただろうかと疑問に思う。これじゃまるで幼稚園児だ。
「礼介くん」
「はい」
「お外出よう」
「嫌です」
幾度も繰り返される会話にも慣れて、ときたまうっかりと昔の話をする。
「夏祭りだよ。今夜、花火があがるよ」
「君、友達と行かないの?」
「………………禁止されてるもん」
「そっか」
「あーでも礼介くんとなら夜出歩けるんですけどお」
「さすがに人が死にそうだから嫌ですう」
「死体発見しちゃう?」
「しちゃうだろうねえ」
勝手に人の膝を枕にして、倫太郎は唸る。
「おれも屋台で買い食いとかしてみたい」
「ああ、駄目だねえ」
「んんん、人混みにイライラしてみたい」
「危ないねえ。絶対駄目だねえ」
「礼介くんは友達とお祭りとか行った?」
「行ったねえ」
「罫くんと?」
「うん。学生のときにね」
「大人になってからは?」
「事件で忙しかったよ」
「そっかあ」
「…………でもビルから花火は見えたな」
「探偵事務所の?」
「うん」
「そのビルってまだある?」
「もう潰れてるよ」
「なんだ。残念」
倫太郎に昔のことを話すとき、不思議な感覚に襲われる。まるで全ては過去ではなく現在も進行形であるかのような、今だけがたまたま、仕事がなくて、罫も席を外しているだけの、そんな妙な気分にとらわれるのだ。
「……百貨店の屋上からも見た」
「そうなの?」
「丁度事件を解決したタイミングでね」
「あ、それ、読んだ。怪人初登場のやつでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ。怪人がピューンッていなくなったと思ったら花火がバーンッて打ち上がってってやつだよ」
「ああ、そう、それだ」
「捕まえ損ねたの、悔しかった?」
「呆気にとられてた」
「んふふ」
何故か勝ち誇って、倫太郎は笑う。
「罫も固まってたなあ」
「ふふふー。ね、ね、礼介くん」
「うん」
「やっぱり一番手強かった? 怪人」
「そうだねえ」
「ちゃんと敵だったもんね」
「そうだね」
「でも最後は捕まえたんでしょ?」
「……………………」
どうなるんだっけ。罫の小説は読み返してない。
現実と小説は違う。
やかましい蝉の声。倫太郎の髪を撫でる。覚えている。忘れていない。夢幻を失った怪人は、代わりに僕の最愛の人を拐った。
そして、そのまま行方知れずだ。
「礼介くん?」
「…………うん?」
「本当は、どうだったの?」
毎年毎日、きっと違う蝉が鳴いている。だけど僕には子供の時から蝉の声は全部同じに聞こえる。怪人にとって、あらゆる人間は、生き物は、無生物さえ、区別がなかった。
「……………小説、読んだんだろ」
「うん。でも、書かれてないことはわからないよ」
帝都の混乱を防ぐために、怪人は逮捕されたことにした。本当は、捕らえたのはまたしても変装した手下だったが、警察も僕らもそれで話をまとめた。無理矢理に幕を引いた。二度と怪人の現れないことを僕はわかっており、罫は僕を気遣った。外に出なければ僕は死体に遭遇しないので、あとは困った依頼人が僕らのもとへ訪れるのを、片っ端から断り続けて、……………やがて、名探偵の存在は忘れられた。
怪人だの謎だのがなくても、人の日常は忙しい。大震災が起きて、街は作り替えられ、疫病が流行り、罫もそれで死んだ。
僕だけが、まだここにいる。
世間を避けたせいで生き残ってしまった。
「礼介くん」
僕の左手を取って、倫太郎はまた僕の名を口にする。この指輪をつけた日を覚えている。小説には一切書かれることのなかった女性がいた。現実にいた。僕のそばにいた。
ずっと一生いてくれると思っていた。
「……怪人は捕まってめでたしめでたし」
「そのあとは?」
「そのあとなんかないよ」
倫太郎が真面目な瞳でこちらを見るから、心配させたなと反省する。それよりもその服はなんだ、と僕は倫太郎に言う。例のごとく派手な服には、大きくkiss me と描かれており、ちっとも可愛くないビーバーが頬を染めている。
「可愛いっしょ」
「どこが?」
* * * * *
「可愛いでしょ」
「どこが?」
もう、貴方ったらちっとも女心を理解しないんだから。彼女は頬を膨らませて僕を睨んだ。
「ほんと、女性に不慣れなのね。礼介さんって」
「可愛さを追求している場合か? 命を狙われているんだぞ」
走る夜行列車の中で、僕は大きく息を吐いた。まだ彼女が生きていてよかったという安堵。急に姿を消した彼女への怒り。脳を酷使して彼女の行方を突き止め、今度はひ弱な身体を酷使して、なんとか駆けつけた。遅れてどっとやってくる疲労。
真っ青なワンピースドレスの、胸元に描かれたペンギンの子供が、じっとこちらを見つめてくる。うっとうしい。
「死ぬなら美しくありたいの」
「君はいつも美しいよ」
「あら、ありがとう」
にっこり微笑んだ彼女の、向かいの席に座る。
「……………どうして逃げた」
「ごめんなさいね。これ以上迷惑かけたくなかったの」
「本音は?」
「私一人で出来るわ」
側に置かれた小さなハンドバッグに、彼女は手を置く。中には拳銃か。…………服と同じ色の爪を眺める。彼女は青より赤の印象が強い。燃えるような命の強い輝き。
「女一人に何が出来る」
「あら、差別だわ」
「事実だ」
「うーん、礼介さんより体力あるんだけどな。息切れくらい止めたらどう?」
「数分かかる」
ぐったりとした僕を見て、彼女は呆れながらも笑う。口の端の緊張。まとめた髪。ヒールのない靴。悲しい決意。この列車の行き先。
「………………君にそんな真似はさせない」
「貴方が思ってるほど、私、いい人じゃなくってよ」
「いい人だよ、君は」
「礼介さんって、本当に名探偵なのかしら。角川先生のがよっぽど私のこと見抜いてたわ」
「あれはただの女好き」
「あら、本人のいないところで悪口?」
「むこうだって散々言ってるさ」
「こんなところにいないで、帝都でお友達と探偵ごっこしてなさいな」
「君に人は殺させやしないよ」
「………………貴方には解らないわ」
「解りたいと思ってる」
「お優しいのね。興醒めしちゃう」
「もっと興醒めすることを言おうか」
「やめてくださいな」
「君が好きだ」
列車は長い長いトンネルへと入り、轟音が鳴り響く。
暗転。
* * * * *
「好き」
「そう。それはよかった」
甘いものを与えると倫太郎は喜んで、目をキラキラさせながら夢中になってケーキを食べている。興奮してまたベラベラ喋り出すのかと思いきや、おとなしくなるので、僕は動物を見る目で彼を眺める。
「悪の組織みたいな名前ってだいたい美味しい」
「ガトーショコラ?」
「うん。あとゴディバもね。ゴディバ男爵」
「男爵」
「知らない? グランド整備戦隊スプリンクラーは?」
「知らない」
もったいない生き方をしてるなあ、と倫太郎は言う。ケーキも食べないしね。甘いもの苦手なの?
苦手というより甘味をあえて欲したことが人生でないのだと告げると、倫太郎は奇妙なものを見る目で僕を見た。
「恵まれてるね」
「そうだね」
それだから、滅多に甘味を口にした記憶は少ない。幼い子供のうちは余所へ訪れるごとに差し出されてはいたが、中学にあがるあたりで人付き合いもなくなり、大人になってからは、誰かに無理矢理でもされないと口にしなかった。
クリームと着色料べったりのチェリーが乗ったメロンソーダ。種類豊富なフルーツパフェ。見てくれがいいだけで、別段味はなんともないロールケーキ。行列の出来るたい焼き屋。二月に売り出されるチョコレート。
──あのなあ、女と来いよ。
──馬鹿だな。女と来るための下調べさ。腹も空いてたし、丁度いいだろ?
淡く可憐な内装の喫茶店で、罫は新聞を広げる。
──それで、あのバラバラ死体の謎は解けたのか。
──まだ何にも解っちゃいないよ。罫、その話ここでするつもりか?
諫めたところで結局僕も机に身をのりだし、物騒な議論は白熱する。僕たちは無抵抗なパンケーキを切り刻み、血のように赤いラズベリーソースで皿をけがす。闇色の苦い液体を飲み込む。ガラスの向こうは建設途中の巨大な橋。青空。インクの滲んだ新聞の旧漢字。やがて謎はじんわり溶け出して、バニラ味の解説は罫を満足させたようだった。
──つまり礼介。お前はあいつが犯人だって言うんだな。
──間違いない。青森から横浜までをたった五分で移動してみせ、何人もの身体をバラバラにした上で、悠長にデコレーションなぞ出来た人物は、車椅子のご老人ただ一人さ。
「おれが恵まれてるって言うの、不自然?」
黙った僕を気遣ってか、上目遣いの倫太郎に、僕は微笑む。
「そんなことはないよ。僕は君ほど責務を負っちゃいないからね」
「うーん……おれもそれなりに人生楽しいですけど」
「それはなにより」
「美味しいの食べれたし」
倫太郎のら抜き言葉を訂正しかけて、いや、もう今はそういう時代ではないのだと思い直す。時代は変わった、と思う時代さえ、もう終わった。
会話の方向性を考えて、僕は皿の上の菓子を眺める。濃厚な茶色い塊は、見るだけでお腹いっぱいだ。
「…………真夏に食べるものではないよね」
「そうなの?」
「冬のイメージじゃない?」
「うーん。それってハンバーガーの美味しい季節みたいな?」
「うーん。多分違うと思う」
「うーん。あ、わかった。ホットショコラとガトーショコラ、同じ箱にしまってるでしょ」
倫太郎は脳を指して言う。どうやら彼は記憶を引き出しではなく箱におさめているらしい。おもちゃ箱。贈答用の包装紙とリボン。からくりの小さな箱。大きなつづら。
「そうかも」
「っていうか食べないのになんでおうちに美味しいお菓子があるの」
「兄が持ってきたんだよ」
倫太郎の手がピタリと止まった。
「えっ、えっ、えっ、お兄さんいるの!」
彼が驚いたことに、僕こそ驚く。微かな違和感。椅子のきしむ音。
「いるよ」
「だっ、えっ、………………」
「冠婚葬祭で会ってるはずだ。目立つしね、あいつは」
「っ…………うん」
「テレビで観たことない?」
「テレビ?」
「ああ、今の若い子はテレビなんて観ないか。テレビっていうのはね、」
まずブラウン管というものがあって、と説明しかけた僕に、いや違うテレビは知ってるからテレビを観たことはあるからブラウン管も液晶も地デジのキリンも、と倫太郎は口早に言う。どれだけ他人の感情にうとい人でもこれは簡単に答えられるというレベルの典型的な態度。早口。いつもより少しうわずった声。瞳孔。こめかみの緊張。指先の硬直。
可哀想なので、解放してやる。もともと焦らせるつもりはなかった。
「官庁の役人だよ」
「あ、へえっ、うん」
「…………会わないか。あいつも人付き合い悪いしね」
「えー、えー、………………覚えてない、かな、うん」
まだ混乱したまま、倫太郎は最後のひとかけらを口に運ぶ。兄のがよっぽど食べ物にうとい。夏ならもっと爽やかなものを選べばいいのに。子供なら甘いものだろうと、使いを寄越したその意図は計り知れない。本家に対する媚か、弟のリハビリを案じてか、きっと、僕がいくら考えてもその全部が正解で、僕の愚鈍な思考の域の外に真意はある。本人にはどうせ何を言っても馬鹿にされるので、直接的な会話はしない。
「お兄さん、名前なあに?」
「
「ああ、……あ、あー。なんか、ああ、うん。駄目だ混乱する」
コーヒーを一気に飲み干して、倫太郎は盛大に溜め息をついた。
「だって名探偵一人っ子じゃん。…………そうだよね兄弟いたよね。なんかリアルと小説ごっちゃになる」
「本当に一人っ子だったらこんな自堕落な生活出来てないよ」
「そうですねそうですよね。誰が家業やってんだって話……そっかあお兄さんかあ。あー、なんか、頭からスッポ抜けてた」
「いいよ別に。あれとは対して関わらないし」
「仲良くないの?」
「…………………良好だよ。紆余曲折の末にお互い一切関わらない結論に達した」
「仲悪しじゃん」
「適切な距離感と言えよう」
「言えないよう」
困り顔の子供は僕を見る。
「そーいうの、ケッテレッティーウンムルウンベンベって言うんだよ」
「え、なに?」
「ケッテレッティーウンムルウンベンベ」
「どこの言葉?」
「カッタリィーヤ語」
「もう一度言って?」
* * * * *
長すぎるトンネルを抜けて、列車は次の駅に向けて緩やかに速度を落としていく。
「……もう一度言って頂戴」
「君からすれば聞き飽きた台詞だろ。今まで幾人に言われたやら」
「貴方からは言われてないもの」
「……………好きだ」
「もっと早くに聞きたかったわ」
「そう? 聞きたくなかったって言われるのがオチかと思ってた」
「酷い人」
「だって君、僕のこと避けてただろ」
「そんなことないわ」
「すぐ馬鹿にするし」
「可愛いからよ」
「罫には優しいのに」
「貴方って本当に鈍感なのね」
「すまない。女性に不慣れなもので」
綺麗に頬を伝う彼女の涙を拭ってやる。罫とは違って色恋沙汰とは無縁な僕が、こんなことをしているのはなんだか絵空事のような気がしてきた。けれどこれが現実で、彼女こそ僕の生まれてきた意味なのだと、強く実感していた。
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