【第一話 どんぐり】


 Nevermoreと啼く烏さえ現れず、後悔の夜に包まれては絶望の朝を迎え、虚無の昼を過ごし、いつの間にか日は暮れる。

 人生を無駄にし続けて、今日がやってくる。

 昔に色々あって引きこもりがちになった僕を、世間は飽きて忘れてくれても親族はそうもいかず、わざわざ本家の子供が来るらしい。…………来た。古風な呼び鈴が鳴って、シヅさんが来客を迎える音がする。足音、玄関を開ける。話し声。笑い声。足音。

 そして。

「こんにちは」

 目の前に座った少年は、僅かな緊張を含みながら微笑んだ。板についた愛想笑い。整えられた黒髪。ピンと伸びた背筋。目解家一族にありがちな、長身痩躯。大きめなサイズの、無地の黒っぽいTシャツ。生地はしっかりしていて、安っぽさなさはない。私服も親の監視下で選んでいるのだろうか。だとすれば、襟つきのシャツでないことに微かな違和感。…………………まっすぐ僕を見つめる瞳。生きている人間のきらめき。どこか懐かしさを感じるのは、以前彼の父親とよく会っていたからか。好奇心旺盛で真面目な人だった。戻らない日々。物騒で奇妙で、しかし幸福だった日常。

 和洋折衷の過ぎる部屋で彼は畳に正座をし、僕は華奢な造りの籐の椅子に腰かけている。挨拶を返したらそれが会話の始まりになるとわかっていて、僕は彼に言葉を発しない。脚を組み頬杖をつき、わざと冷めた態度で彼を見下ろしても、子供は緊張してばかりでこちらの思惑に気付かない。

 席を立って、台所へ向かった。

「シヅさん」

 やっぱり追い返してもらおうと家政婦に声をかけたが、彼女は出掛ける支度をしていた。

「…………シヅさん」

「あら、はいはい。なんでしょう。お茶のお代わりでも?」

「違う」

「二人だけで過ごすようにってのが奥さまからの言いつけですもの。じゃ、あとは若いお二人でごゆっくり」

「……………使い方が間違ってる。見合いじゃないんだから」

「私より若いでしょう」

 六十代の彼女はさらりと言ってのけ、勝手口から出ていった。おおぶりのイヤリング。化粧し直した顔。大胆な白い花が咲く青のカットソーと、ラフなベージュのズボン。お気に入りのショルダーバッグ。微かに残る香水の匂い。またお友達とお芝居でも観に行くのだろうか。意外と彼女は派手な服装を好む。それにしても今日は気合いが入ってるな。

 仕方ないから自分で追い返すかと、部屋に戻ったら、彼は髪を引っ掻き回していた。

 服装もさっきと違う。

 下は同じだが、白地にどんぐりのパターン柄のTシャツになっていた。どんぐり。

 どんぐりって。

「あ、戻ってきた」

 パッと僕を見た彼の顔は、さっき認識したものと同等なのでほぼ間違いなく同一人物ではある。同一人物ではあるが、パーマをかけたようなくしゃくしゃの髪に変な服、少し猫背、気の抜けた表情。なんなんだこいつは。先程よりは年相応だがそれにしたって猫かぶりが凄い。まるで変装だ。

「おばちゃん出てったの? 残念だなー。もうちょい話したかったのに」

「……おばちゃんじゃなくて、シヅさん」

「住み込みの家政婦とかマジでいんだね、このご時世に。びっくり」

「君のとこにもいるだろ」

「………………あー。………………家政婦とメイドって一緒?」

「………………帰れ」

「なんで? やだ」

「………………」

 しっかしすげぇ家だな、と彼はフラフラ歩いて、四方をキョロキョロ見回す。急に自分のテリトリーに異物のいる気味悪さを感じて、僕は不快になる。

「……本当は君も来たくなかったろ」

「ええ? なんで? 会いたいに決まってるじゃん。世紀の名探偵」

「………………」

「ねえねえあれって本物?」

「複製画。高校生が休日に親戚のところに来ても面白くない」

「それはどうかなー。和室にシャンデリアってめっちゃ凄いね。かっくいー」

「安物だよ」

「とか言いながらあそこにある壺は古代中国の、」

「素人の工作物」

「実はこのカーペットはインドの、」

「ニッセン」

「あの彫り物は、」

「母が箱根で衝動買いした大量生産品」

「いいなー。欄間。江戸い」

「…………仰ぐときに口を開けるな雑な言葉を遣うな姿勢は正しく」

 いちいち話すごとに珍妙なポーズを取る彼は、今度は乙女みたく腕をくねらせ、口許に手をあてがう。

「やだ、目解家の人みたい……っ」

「それは分家に対する当てつけか?」

「ちっがーうよ冗談じゃーん。すげぇとこひっかかんね。気にしてんの? 分家なの。本家だったらよかった?」

「やだ」

「ですよね」

「……………………」

「あ、ですよねって本家が言うのはよくない?」

「君は長男だろ」

「えっへん。次期当主でござい」

「聞かなかったことにする」

「ありがと」

「君は本当に目解幸多めどきこうたか?」

 彼の動きはピタリと止まり、そして僕を見た。

 傷つけたのかと思った。

 違った。

「疑う?」

 むしろますます目を輝かせて僕に挑んでくる。

「今までの君の言動挙動を見る限りは」

「俺、目解家家訓、全部言えるよ」

「第二三条」

「十五歳から遺言書は作成すること」

「第五五条」

「再婚は七回目まで」

「第八二条」

「トイレで寝るな」

「第二五六条」

「りんごの食べ過ぎはよくない。……意味わかんないけど」

「第一九九条」

「殺人の禁止。これって刑法とかけてる?」

「多分ね」

「なんで?」

「書くことなかったんだろ」

 自分は何をやっているんだろうと、自嘲した。気が緩んだ隙にパーソナルスペースを侵害され、何故彼に抱きつかれたのかわからないまま数秒固まる。

「第一条」

 今度は彼が僕を試す番らしかった。

「……人に優しく」

「THE BLUE HEARTS」

「なに?」

「なんでもない。第三条」

「…………常に礼節を重んじよ」

「第五七条」

「知識は更新していくものである」

 引き剥がそうとしても背中までべったり腕を回されていて、ちょっとやそっとでは逃げられない。

「第八条」

「……………」

「第八条は?」

「忘れた」

「忘れるわけない」

「一旦離れようか?」

「それはやだ」

「なんでだよ」

「話そらさないで答えてください。第八条は?」

「忘れた」

「忘れない。忘れてないでしょ?」

「忘れた」

「ダウト。あー、も、めんどい。目解家ってなんでこんなに八〇〇も家訓あって嘘つくのは禁止じゃないんだろ……」

「八〇〇もないよ。七五六だよ」

「どうでもいいよ」

「離れて?」

「久しぶりの他人の体温ってどう?」

「熱くてくらくらする」

「答えたら離れてあげる」

「…………………孤独の禁止」

 大正解です、と彼は満足そうに笑って、僕の脚を刈る。緩慢な動きだったので避けることは大変に容易かったが、彼がどうしたいのかを見たかったので、畳の上に倒れてあげた。そしたらまた抱きつかれた。

 なんでこの子がこんなに喜んでいるのかが、皆目わからない。大型犬がじゃれついてるみたいだ。うっかり頭を撫でそうになるのをこらえた。

「………………離れてくれるんじゃなかったのかな」

「嘘つくなってルールないの超素敵」

「どいてほしい」

「家訓に従ってこれから毎月貴方のところへ来ます」

「来ないでほしい」

「退屈じゃないの? 普段何してんの?」

「…………………一回どいてくれないかな」

「ひとりぼっちってさみしくない?」

「シヅさんがいる」

「シヅさんにはシヅさんの人生が。今日デートだよ、あの人」

「えっ」

 ああそうか。香水。化粧。しかし何故彼がそれを知っている。

「玄関先で言ってた。初対面のおれには言うのに貴方が知らないの?」

「……距離が近いと逆に言わないこともあるだろ」

「テレビもないし新聞もないし友達いないし外には出ないし、唯一親しい人とは近況も身の回りの変化も話さない」

「断定するな」

「そうやって全部遠ざけてひきこもニートだから反動でおれみたいなのが飛び込んでくんだよ」

「ひきこも」

「ニート」

「君は僕を愚弄しに来たのか?」

「仲良くなりに来たんだよ。ねえねえ世捨て人。世の中にはね、面白いことと楽しいことがいっぱいあるんだよ?」

「そうですか」

「ていうか情報どうしてんの? スマホ? タブ? パソコン持ってる?」

「要らない」

「貴方がひきこもってる間に元号は変わったよ」

「それは知ってる」

「今の首相は?」

「…………………」

「…………………えっ、ごめん冗談のつもりだったんだけど」

「実生活に支障はない」

「空にUFO浮いてる時代ですよ」

「騙されないよ」

「いやいや、マジで。ちっちゃいやつ」

「……………」

「えっ、えっ、マジで知らないの? UFO知らないの? 空飛ぶ円盤」

「…………騙されないぞ」

「灰皿に糸くくりつけた奴じゃないよ? UFOだよ? まあ全然未確認じゃないけど。二万ぐらいで買えるし」

「……………………」

「駄目か」

「なんだ嘘か」

「えっ?」

「うん?」

「………………………え、今ちょっと、」

「冗談に乗っかってみただけだよ」

「乗っかってんのおれですけどね」

「早くどいてくれよ」

「何がそんなに怖いの?」







 美しい日々。








「…………怖い?」

 彼の言葉を反芻する。恐怖とは、ざらついた感情だったはずだ。それとは違う。今僕の抱いている感情は、恐怖ではない。

「拒絶は恐怖からくるものでしょう? 最初から冷たいけど、っていうか冷たく振る舞おうとしてるっぽいけど、キャラ的に合ってないからやめといたほうがいいよ。キャラチェンしとこ? 設定変更今ならまだ間に合うよ?」

「………………………君の、………」

「うん」

「………………言うことの八割が理解出来ない」

 諦めて手を額にあてる。そしてまた、仕方なく彼を見上げる。

「え、なんで? ジェネレーションギャップ?」

「違うと思う」

「ああ、……自分はまだまだ若いって思ってるタイプだぁ……」

「………………本当に君は目解の人間らしくないなあ」

「ディスった?」

「うん?」

「ねえちょっと、現代語もうちょい理解しててよ」

「君が普通に喋れよ」

「ぴえん」

「……………」

「からの、ぱおん」

「どいてくれない?」

「結婚してるとは本に書いてなかったけど、」

 不意に手を触られて、また嫌悪感がゾワリと背中を撫でた。

 左手の薬指に鈍く光る。











 美しい日々。











「誰を愛してたの? 名探偵さん」

 殺してくれと、本気で思った。過去に対峙したどんな殺人者でもいいから。今、僕を殺せ。






 やめてくれと懇願した声は震えていて、急激に昂った感情が結露するのをおそれて僕は固く目を閉じる。思い出したくない。忘れてはいない。何一つ。愛すべき人達。頼もしい親友。慌ただしく、苦しく、つらく、けれど最高に楽しかった日々。

 当たり前に続くと思っていた日常。

 全部失う日がくるなんて、考えてなかった。

「ごめんね」

 謝る少年の声。ようやく他人の存在は剥がれて、けれど熱は残っていて、僕はゆっくりと目を開けて身を起こす。叱られた犬のようにちょこんと座った少年に、声をかけてやりたかったが喉が痛くて言葉なんか出てきやしない。痛い。痛い。ずっとどこかが痛くて痛くて痛くて仕方ない。

 悲しい。

 つらい。

 折角解放されたのに、今度は僕から彼に手を伸ばす。肩に触れる。君に怒ってるわけじゃないと、ようやく言葉を吐き出せた。

「……うん。でも、つらくさせた。ごめんね」

「大丈夫だよ。君の謝ることじゃない」

「昔の話NG? そしたらもう聞かないよ」

「…………そうしてくれると助かる」

「うん。ごめんね」

 またもや彼は僕をその腕に抱く。初対面でこんなにベタベタ触ってくる人間は初めてだ。彼の父親も相当変わり者で、よく僕を研究対象としてジロジロ眺めてきたが、あれよりも強烈だ。よしよしと囁いては頭を撫でて、ぎゅーっと呟いては僕を強く抱きしめる。さすがに笑ってしまう。なんなんだ、この生き物は。

「………子供じゃないんだから」

「他に慰めかた知らない……」

「どこで買ったんだよ、その服は」

「可愛いでしょー。どんぐり」

 ここにねえ、一個でぶっちょどんぐりがいるの。彼は何故か誇らしげに脇腹を指す。確かに、丸いどんぐりが一つ。

「クヌギのどんぐりだろ」

「えっ、クヌギ?」

「他はマテバシイだな」

「えっ、えっ、」

 また彼が目をキラキラし始めたので、会話は成功だなと思う。あれ以上話したくない。子供を悲しませたくもない。

「……最初に着てた服はどこ行った」

「あ、これリバーシブルなんです」

 彼が裾をひらりとめくって、黒地を見せた。

「あら便利」

「やっぱかしこまって行かなきゃと思ってさあ。地味なのがこれしかなくてさあ」

「いや、絶対他にあるだろ。シャツとか」

「シャツですけども?」

「Tシャツじゃなくて。襟のついた」

「あるぅ。けどぉ。やだよ、毎日制服で白シャツ着てんのに。休日ぐらい好きな格好させろよ」

「ご両親から何か言われない?」

「俺真面目だから大丈夫」

「うん? どこが?」

 なんの実にもならない会話は、だらだら続く。

「おれ普段真面目よ? 優等生だし」

「そうなの?」

「うん。だから……疲れちゃう」

「…………」

「あのさああのさあ、なんて呼んだらいい? ずっと考えてたんだけどさあ、いいのがなくて」

「呼ばなくていいよ」

「呼びますけども?」

「……もう来ないで」

 優しく言ったつもりだが、まるごと無視された。

「やっぱ本読んだおれからすると名探偵礼介あるいは目解先生な訳ですよ。でもおれも目解だし、今は貴方、名探偵じゃないし、困るじゃん?」

「困らないよ?」

「礼介さん?」

「その呼び方は本当にやめてくれ」

「じゃああだ名つけようよ。おれはねぇ、」

「どんぐり」

「やだ。もうちょっとかっこいいのがいい」

「たとえば?」

「りんたろう」

 突拍子もないことばかり言う子供は自由奔放そのもので、しかも本人は真剣なんだからどうしても可愛いと思ってしまう。子供は可愛い。子供は可愛かった。あの子は。あの人は。

 やっぱり駄目だ。

 誰かと関わりたくない。

「……君には目解幸多という立派な名前が、」

「りんたろうがいい」

「どこから派生した」

「由利麟太郎のりんたろう」

 大昔の推理小説を知っているのには驚いた。意外と本を読む子なのかもしれない。

「あ、でも漢字はあれね。麒麟の麟じゃなくて不倫の倫」

「倫理の倫ね。物騒な説明するなよ」

「んんん。麒麟って漢字書ける?」

「書けるよ」

「へえ」

「……架空の名前なのに漢字なんて気にするのか」

「おれは書けないもん。やだ」

「そう」

「貴方は? なんて呼ばれたい?」

「……あだ名なんて要らないです」

「なんでよ、楽しいじゃん。江戸川乱歩とエラリークイーンとアガサクリスティとポアロどれがいい?」

「作者と登場人物が混ざってる」

「あ、礼介くんなんだから耕助くんでどうだろう」

「金田一?」

「着物っぽい格好してるし。おうちノスタルジィだし」

 彼はぐるりと周囲を見渡す。

「…………礼介でいいです」

「礼介くん?」

「好きにどうぞ」

「やったー」



*  *  *  *  *



 犬も歩けば棒に当たるというが、僕の場合死体を見つけてしまう。或いは何かしらの犯罪に触れる。それだから外に出ることは嫌になり、学校さえまともにいかなくなった。僕だけが嫌な思いをするだけなら、まだいい。僕が犯人だと思われて、両親が悲しむことや、警察の無駄な徒労が嫌だった。

 犯人は別にいるのに。

 僕が何かしたわけではないのに。

 …………………罫と出会ったのは、高校生の時だった。

 あいつに人を殺せるような体力があるもんか、夏になると毎日熱中症でぶっ倒れてる奴だぞ、そんな度胸があるもんか、好きな女の子に挨拶さえ出来ない奴だぞと、隙あらば僕をこきおろしつつ全力で怒って全方位に立ち向かってくれた。心ない同級生の軽口にさえ、罫は訂正と謝罪を求めた。自分は僕を馬鹿にするくせに、他の人が少しでも僕を嗤おうものなら、容赦ないほど詰めた。僕が疑われるたびに警察より先に犯人を見つけて、僕と共に犯罪に巻き込まれては強い信念を持ってそれに対峙した。そしていつでも勝利した。名探偵の才能があるのは本来彼だったが、長年共に過ごすうちに僕も追いついていた……とは思う。

 やがて罫は僕を名探偵にして小説を書くようになり、それは瞬く間に世間に愛された。生きている名探偵。実存する名探偵。紙面の中でなら僕は、不運にも死体を見つけてしまう奇人ではなく、類稀なる優れた直感力によって無意識的に犯罪の匂いを嗅ぎつけ、その結果誰よりも早く死体を見つけ、鮮やかに事件を解決する人物だった。

 帝都の大事件にはいつも僕らが関わっていた。日常の可愛らしい謎解きもあれば、大犯罪者や巨大な犯罪組織ともやりあった。共に謎を解いて、たまに喧嘩して、時々、あとで思い出したくないほど、こっ恥ずかしい打ち明け話なんかもしたりした。

 冷や汗をかきっぱなしの、目まぐるしくて、泥だらけで、美しい日々。



*  *  *  *  *



「それで? どこ行く?」

 子供が小首をかしげる。罫と仲良くなったのはこのくらいの年齢だったと、懐かしさがこみあげて、それはすぐに悲しみに変わるから僕は気持ちを切り替える。

「どこにも行きたくなんかないよ」

「えー。おれ、礼介くんを連れ出すように言われてるんだけど」

「嫌です」

「死体に出会うから?」

「そうだよ」

「一回ぐらい見てみたいもんだけど」

「やめなさい」

「ごめんなさい」

「………………」

「………………でも次はどっか行こうね」

「人の話聞いてた?」

「近所散歩するぐらいならいいでしょ。かにまんじゅう食べようよ」

「なにそれ……なんで脱がそうとしてるんだ」

 戯れにペタペタと触れているだけだった手に、服を脱がされて慌てる。考えていることが駄々漏れなようで、ちっとも分からない。

 本当なんだ、と彼は呟いた。

 僕の肩にある銃創をじっと見つめて、そこを撫でる。あれだけくるくると動いていた表情は今は無であり、少しばかり恐ろしさを感じた。

「………………小説、全部読んだのか」

「読んだよ。何回も読んだ。撃たれたとき痛かった?」

「それどころじゃなかった」

「なにどころだった?」

「そんな日本語はない。…………罫を守れればそれでいいと思って飛び出したんだよ」

「怪人が銃なんか使うのって興醒めだよね」

「あの状況じゃ仕方なかった」

「………………」

「……………………僕が庇うのはおかしいな」

「相棒が死んで怒ってたんだよ、怪人は」

「うん。…………」

「今ならわかる?」

「何を?」

「大好きな人が死んじゃってさ、悲しくて悲しくて、なんもかもぶち壊してやりたいって気持ち」

「…………………………………………」

 夜のサーカス。愉快な音楽と極彩色の犯罪。華麗なる最終幕。くす玉を割るために用意されたはずの拳銃。揉み合いになった怪人の相棒と、罫の攻防。うっかり足を滑らせて、悪人は暗闇に落ちていった。スローモーションの記憶。

 落ちたのが罫じゃなくてよかった、なんて、一度も口に出したことはない。

「…………僕も罫も、自分の正義で動いた。後悔はない」

 服を元に戻す。ふうん、と唸って、子供はまた飽きもせず僕に抱きついた。

「………………君なあ、ベタベタしすぎだよ。言われない?」

「君じゃなくて倫太郎」

「倫太郎」

「うん」

「……………あ、ごめん。昔の話しちゃった。そういえば」

「僕から展開させた」

「本当はもっと色々聞きたかったんだけどなあ」

「駄目」

「駄目かあ」

「倫太郎」

「うん」

「………………」

「なあに?」

 誰かに似ている。いや、似ていると思いたいのかもしれない。失ったものが多すぎて、ひたすら欲してしまう。

「…………幸多より倫太郎のほうが似合うな」

「倫太郎顔でしょ」

「そんなものはない」

「礼介くんは礼介くんって感じするけどね」

「倫太郎」

「はーい」

「……………ちょっと思いっきり抱きしめてもいいですか」

「え、…………えっ? えっ? ん、まあ別に、いいけど、わあっ」

 許しの出た瞬間に、立場は逆転して彼は僕の腕のなかにおさまる。自分からは容易く人に触れてくるくせに、相手からされるのは弱いらしい。緊張と困惑が肌や息遣いから伝わってくる。申し訳ないと少し心は痛んだが、それより自分の欲望を優先した。

 僕は彼女との間に子供を望んでいた。

 罫とは高校生のときに知り合った。

 失った。

 失った。

 失った。

 失った。

 愛しさを、期待を、希望を、生きる力を、優しさを、癒しを、得る方法も与える場所もない人生を、あれからずっと続けている。



*  *  *  *  *



 夕方には帰るのだと事前に聞いていたのに、いざ日が翳る頃には帰したくなくなっていた。どうでもいい話をして、なんにもならない時間を過ごした。

「……もう帰んなきゃ」

「そう」

 頭の中ではガンガンに警報が鳴りっぱなしだった。軽い熱すら覚える。これ以上、人と関わるな。愛着なんて湧くな。僅かでも過去なんて思うな。心を震わすな。己を癒すためだけに哀しみを覚えるなら、そんなものは無くていい。

「一ヶ月に一度でいいって言われたけどさあ、」

 Tシャツをまたひっくり返して着て、彼は髪を撫でつける。それでも毛先が跳ねているので、古い鏡台の前で髪を梳いてやった。この髪質は母親に似たのか。

 鏡越しに視線が合う。

「…………またすぐ来てもいい?」

「駄目」

「えっ、今露骨に喜んだよね?」

「顔見せて」

「駄目」

「見せろ」

「断る」

「こっち向けや、おい」

「駄目」

 彼を帰して、一人になる。少しの頭痛。…………勝手に先程までの記憶がランダムに再生される。暗い部屋で、ぼんやりしていたら、物音がした。シヅさんが帰ってきて、明かりがつく。

「お帰り。……もっと遅いかと思ってた」

「只今戻りました。………幸多様は?」

 それは誰だ、と言いかけて、倫太郎のことだと気付く。もうすっかり偽名のほうが定着している。

「帰ったよ」

「あら、…………そうですか。……あの、……すぐお夕飯の支度しますからね」

 ぎこちない彼女の物言いに、誤解の匂いを感じて、僕は言う。きっと僕がすぐに彼を追い払ったと思ったに違いない。

「さっきまでいたよ。…………喋りすぎて疲れた」

「……………あら、……あらあら、まあ、」

一月ひとつきせずにまた来るだろう。……そうだ、シヅさんとも話したいってさ」

「そんな、私なんかが、ねえ」

 ほころんだ、という表現の似合う表情の動き。いつもより女性的な仕草。熱をまだ含んだ瞳。

「デートはうまくいったんだ?」

「………………」

「香水なんて珍しくつけてるから何かと思ったよ。今日はそこまで気温が高くないけど、わりと遠出したのかな。それとも何かスポーツでも? 運動は嫌いだと思ってたけど。姿勢がよくなってることを考えると君の性格的にヨガか日本の武術、」

 まさか泣かれるとは思っていなかった。

 ソファから即座に立ち上がり、彼女の前でおろおろする。どうして泣くのかがわからない。プライベートに踏み込みすぎたか。

「……………………私が、………………髪を切っても……何にも言わなかったのに……………」

「ごめんなさい。今後は干渉しない」

「違うわよ……嬉しいの。……昔みたいで」

 でもまだまだ勘は鈍ってるわね、と、目に涙を浮かべて彼女は僕に微笑む。ひらりとした手つきで僕に触れ、くるりとターンして消えていった。ああ、それか。ピンと伸びた背筋。

「社交ダンス?」

「半年前からね」





 二回目の訪問は翌々週で、倫太郎とシヅさんはあっという間に仲良くなる。彼らの服装を見るに、なにがしかのセンスが合うらしい。言いつけによりシヅさんはまた出かけ、僕と倫太郎は残される。

「熱出したって聞いたけど」

 馬鹿の描いたようなウインナーがデカデカとプリントされた阿呆そのもののTシャツを着ている倫太郎が、僕に言った。ういんな、じゃねえよ。なんなんだそれは。なんで売れると思ったんだ。なんで買ったんだ。この需要と供給は気にくわない。

「出した」

「おれが帰ったあとに?」

「うん」

 あの熱と頭痛は夜になるにつれ酷くなり、そこから五日間ほど寝込んだ。

「……なんか悪いことした気分」

「倫太郎が何かした訳じゃないだろ」

「いや、ほら、外からなんかわけわからん菌を持ち込んだかも」

「久しぶりに人と話したから知恵熱でも出たんだろ。嗤えよ」

「笑えねーよ。どんだけ病弱」

「本に書いてある」

「そうだった」

「なので今日も外には出ません」

 弱い先手を打つ。

 それな、と倫太郎は指を鳴らす。

「さすがに真夏日炎天下に礼介くん連れ出したら即死不可避。タイミングわりーよな。つーわけで、」

 彼はいたずらを企てた子供の顔で笑う。

「礼介くん」

「はい」

「楽しいことしよっか」

「……君の考える楽しさと僕が感じる楽しさはおそらく違、まあいいや。何したいんだ」

「気持ちいいよ、多分」

「具体的に」

「夜の運動会」

 押し込み強盗とか来てくれないかな、今すぐに。


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