第3話 五月四日(金曜日)

 朝、雨樋の穴から石畳へ落ちる雨音で目覚めた。もう外は白々としていた。暗い空の下、小雨がサーサーと静かに音を立てて降っていた。近くの田圃から蛙の鳴く声が聞こえた。昔に比べれば、蛙の数もめっきり減った気がする。

 布団から起き上がり、丁寧に折り畳んで押し入れに上げた。

 父と母の目を通したであろうN新聞の朝刊が、折り畳んで畳の上の卓袱台に置いてあるのが目に留まった。

 茶の間に新聞を持っていき、寝間着のままで新聞に目を通した。トップニュースは九州自動車道の玉突き事故だった。

 その斜め下に、黒地に白抜き文字で、「二日続きの変死事件」とある。


 二日続きの変死事件 三日(木)午前十時半ごろ、猪里市豊吉町の畑の畦道で、中国人女性(二八)が着衣のまま倒れているのを農夫が発見、警察に通報した。猪里署によると女性は死亡、首にちぎれた縄が巻かれてあった。稲和県警は自殺か他殺の疑いで捜査を進めている。県警は、昨日の少女変死事件も踏まえて容疑者の情報を集めている。


 記事を目で追うのを終えたとき、携帯電話が鳴り電話に出た。

「もしもし、門倉です」

「門倉さん?」

「あ、いえ、わたしは、今は川畑久野です」

 まだ半分寝ぼけていた。電話の相手がだれだかわからなかった。

「川畑さん。『あおば』の高橋です」

「ああ、高橋さん。昨日はお世話になりました」

 急に頭がはっきりしてきた。

「実は犯人に心当たりがありもして」

「犯人? ちょっと待ってたもんせ。紙と鉛筆を」

 そばにメモ帳とボールペンがあったので、それらを手にしてひったくるように携帯を取る。

「だれです? 高橋さんのおっしゃる犯人とは」

「犯人は……うう、苦しい」

「いけんしました?」

「ちょっと気分が」

「大丈夫ですか? しっかりなさって」

 久野は携帯を握りしめ、うろたえた。

「吐き気がする。すみません」

 そのひと言を残して、電話は突然切れてしまった。

 もう少しで犯人の見当がつくところだったのに。気分が急に悪くなるとはついてなかった。

 通り雨が降り、畑で農作業をしていた幸一郎と真由美の安否が気にかかり、傘を持って畑に出ようと玄関に向かった。

 玄関に風呂敷包みが置いてあった。開いてみると、弁当を入れるようなタッパーが二つ重ねて置いてある。どこかの家からの差し入れだろうと思い、それを持って台所へ行き棚にしまっておいた。

 久野は台所の炊飯器からご飯をよそい、味噌汁と漬物をおかずにして胃袋に流し込んだ。

 玄関から両親の声がした。雨合羽姿だ。農作業から帰ってきた様子だった。

「畑に行っちょったの?」

「そうじゃ。そろそろ野菜が穫れる時期じゃで」

 幸一郎は答えた。

「濡れて風邪をひくといけんよ。早よ、上がり」

「水曜、木曜と連続して殺人事件が起きたじゃろが。畑で話をしたどん、話題はそのことで持ち切りじゃっち」

 幸一郎は眉間に皺を寄せた。

「犯人はいつ捕まるとね」

 真由美は久野に訊ねた。

「わたしに訊かれても困るち」

「毎日起きるんが気味の悪かこつたい。水曜は水死体、木曜は木に首吊りちてみんなは言うげな」

 幸一郎は近所の人たちの気持ちを代弁した。

「今日は金曜じゃで、金粉にまみれるちてだれかが言うちょった」

 真由美は真に受けていた。

「うんにゃ。どっかの金庫から死体があがるじゃろだい」

 幸一郎も噂を信じていた。

 そのとき、ちょうど時計は朝の九時で、遠くの方で、鐘楼が九回鳴るのが聞こえた。

「いつも鐘楼が鳴るたびに、遺体発見の電話が警察に掛かっちょるちゅう話じゃ」

 話はオフレコのはずの秘密にまで及んだ。

「何時にだれが殺されちょるか。推理小説みたいじゃち。考えただけで恐ろしか」

 真由美は眉を寄せた。

「だれか知らんけど、玄関にタッパーが置いちゃったど」

 話を変え、久野は真由美に言った。

「どこかん人の差し入れじゃっど。今日も遅うなるようなら相棒と一緒に摘まみんさい」

 話の途中で、さきほどの高橋のことを思い出し、ちょっと気になることがあるから、と食器をそそくさと流しに持っていき、バタバタと部屋に入って着替えた。トートバッグにタッパー、カメラ、携帯にノートパソコンを詰め、車に乗り込んだ。

 今夜、沖本家で通夜があると聞いて、真由美の黒のドレスを拝借した。

 朝の道路を飛ばして、猪里署に向かった。

 到着すると、飯野はすでに取材を始めている。

「お早う。どう?」

「どうもこうも、金曜日じゃから金融機関は気をつけにゃならんちて、町のみんなは騒いじょります。例の殺人事件で」

 飯野はあたりを憚らず、大きな声で話した。

「でもさ。昨日も今日も祝日でしょ?」

「それがいけんしたですか」

「シャッターの降りた金融機関には、ふつう忍び込めんじゃろ」

「そう言われると、そうですね」

「飯野くんは風説を信じとるの?」

「おいは半信半疑です」

「犯人の狙いは別で、ほんとうはだれか一人だけを殺すのが目的で、それをカムフラージュするため無関係な人たちを巻き添えにして殺しちょる気がするわ」

「なるほど。いい推理ですね」

「ところで、『あおば』の高橋さんが犯人に心当たりがあるち、今朝わたしの携帯に電話を掛けてきちょったんよ」

「それは大収穫ですね。で、だれが犯人と?」

 飯野の大声に、口を結んで右手の人差し指を立てて、

「それを言う前に、吐き気を催して電話が切れた。そいで、飯野くんを迎えにいき、二人で『あおば』に行こうち思うちょったところよ」

 と飯野の耳元で囁いた。

 そこへ藤宮警部補が通りがかった。すかさず、飯野は捉まえた。

「藤宮さん。今回の連続殺人で新たに分かったことはありますか」

「報道メモを見てくれ。迂闊なことはこちらから言えん」

 二人はすげなくあしらわれた。

 その日の午前九時半、報道メモが発表され、次のことが飯野宛のメールに書かれていた。

《所轄署は稲和県警猪里署、容疑は殺人、被疑者不明。被害者は沖本陽菜乃(一五)女、職業中学生。容疑の概要は、五月二日に温泉の女湯で変死した陽菜乃さんの死因が判明。科捜研の検視の結果、中に入れたドライアイスが溶けて炭酸ガスによる中毒死と判明した。致死量は一〇〇グラム。被害者は首を絞められ意識不明のまま、衣服を脱がされて九〇リットルの透明ビニール袋に入れられたと見られる。所持品の卓球用具と着替え、かばん、携帯は、黒のビニール袋に入れられ、裏の駐車場の矢能川に捨ててあった。袋の中にすべてが入っていた。

 なお、市の監視カメラには、陽菜乃さんがひとりでコンビニに入るのと出る姿が映っていた。それから先は消息不明》

 報道メモに目を通した飯野は久野に訊ねた。

「陽菜乃さんは、渓山荘の湯に入りにきたのではなかですね」

「そりゃ、そうじゃろだい。部活帰りでコンビニに寄っただけよ」

 警察はドライアイスの入手ルートをネット販売に絞り込み、購入者情報を開示してもらったのだろうか。

 二日たち、やっと一日目の死因が分かった。ネットの情報開示請求を警察がしたならば、ドライアイスの購入元のパソコンのアドレスと所在地も分かるはずだ。


   *


「百姓が金庫の中で眠っちょる。十時よ。おやつの時間ね。助けてあげて。隠れん坊ばしちょる」

 またしても遺体発見の電話だ。今回も前回と同様、女の声でふざけた言い草である。

「隠れん坊じゃない。きさまが殺したんだ」

「あら、そうなの。証拠は?」

「もうすぐ令状を持って、そちらに行く。せいぜい首を洗って待っちょるがよか!」

 刑事課の神取刑事の声は荒々しかった。

 電話は無言でプツリと切れた。

 そのとき、鐘楼が一〇回鳴った。朝十時を告げる音が南町に響き渡る。それを待っていたかのように、連続殺人事件捜査本部からも制服を着た警官と私服の警官がたくさん出てきて慌ただしくなった。彼らは大急ぎで駐車場へ向かった。

 神取刑事は困惑していた。捜査令状を持って携帯会社のauに情報開示を要請して、遺体発見を知らせる奇妙な電話の発信元の番号と名義人、住所などの情報を手に入れた。が、その持ち主の男はインターネットでその携帯を転売していた。

 ネットで売った相手は匿名を使い、住所も空き家になっていた。空き家の住所に携帯端末が届いたかどうかはわからないが、大家の話によると、アパートのその部屋は二年以上空室らしく、鍵は掛かっていたが、一階にある郵便受けは開けっ放しだった。身元不明の携帯を使って、犯行予告とも取れる遺体発見の電話を掛けてくる女とは、だれなのか。頭を悩ませていた。


 一方で、県警本部刑事部捜査二課の刑事らは、猪里市において市役所の水道局と星永産業の贈収賄事件を追っていた。水道局の元職員からのタレコミがあり、捜査に半年以上かかっていた。

 容疑は、水道局の新しい下水道工事の入札に関して、星永産業が受注できるよう便宜を図る見返りに、星永から金を受け取ったというものであった。

 ところが、なかなか金の流れが把握できなかった。どうやら、市長が一枚かんでいるのでは、との憶測が課内で飛び始めた。

 星永産業から贈った金が市長の懐に入り、市長自らが密かに水道局に星永産業が受注するように便宜を図るよう指示、その際に受け取った金の一部が市長から水道局の職員に流れたらしい、という図式の情報が入ったのだ。

 自治体の首長が関与した官製談合である。

 税務署からは、市長の払った税金は適正であり、なんの落ち度もないとのお墨付きが出ていた。

 星永から市長を経由して水道局の職員に渡った金を洗い出すには、市長本人を取り調べるか、市長個人の口座の金の出入りを調べなくてはならない。おそらく、口利きした市長は、星永産業に、次期市長選挙で何千票かの票集めを依頼したのだろうと推測された。

 二課の担当刑事は、市長の口座に不審な金の動きがないことを最近になって確かめ、どうやら自宅のどこかに現金を隠し持っているのでは、と疑り始めていた。

 ちょうどそれが四月のゴールデンウィーク前のことである。捜査は大型連休明けに再開されるところだったが、猪里市で連続殺人事件が起き、市長と星永産業の癒着の解明は持ち越しとなった。

 その癒着の黒い噂をN新聞の社会部でも一部掴んではいたが、なにぶん、星永産業の殿田専務と関係の深い副社長から直々に、裏が取れていない事実は書かぬよう指示があり、警察発表があるまで社会部は動けなかった。


   *


 警官が出てきたかと思うと次々にパトカーに乗り込み、サイレンを鳴らしながら、庁舎から続けざまに出ていった。

「また殺人が起きた様子じゃ」

 飯野は顔をしかめた。

「飯野くんはパトカーの後を追って。わたしは、一人で『あおば』へ行ってみる」

「わかりもした。気をつけて」

 飯野と合流して三〇分もたたないうちに、再び別れた。

 豊吉町へ向かっているとき、携帯の着信音が鳴った。車を路肩に停める。現場の飯野からの電話だった。

「やはり金融機関が狙われました。南町三丁目の南陽信金の金庫の中から遺体です」

 恐れていたことが起こった。

「飯野くんはそのまま現場を取材して。わたしも遅れて現場に向かうから」

 久野は指示を出し、自らはあおばに行ってから南町三丁目へ向かうことにした。

 民宿『あおば』に着いた。呼び鈴を鳴らすと夫が出てきた。妻は病院に救急車で運ばれたと言う。

「いけんして吐き気を起こしたか分かりませんか」

「さあ。朝ご飯を食べ終わって、川畑さんに電話を掛けるち言うたとき、吐き気を催して。おいもおどろいてな。救急車を呼んでくれち妻が言うから呼んだ」

「因みに昨日泊まられた客はおりましたか」

「うんにゃ。あげな事件が起きたばかりじゃち、おらんど」

「とにかく、わたしも病院に行ってみます。どこの病院ね?」

「聖愛病院。青野里の」

「ありがとやした」

 久野はすぐに車に戻り、また南町に戻ってきた。聖愛病院は猪里市の中でいちばん大きく新しい総合病院だった。

 病院に到着したころには一一時を回っていた。途中で聞いた鐘の音がやたらと恨めし気に聞こえた。

 病院の駐車場にクラウンを停め、大急ぎで一階の受付に駆け込む。患者名を告げると、「二階にいますよ」と言われた。

 二階のナースステーションに行き、高橋峰子という患者が入院しているかと訊ねたら、「二〇五号室にいます」との返事だった。

 面会できる時間だったので、四人部屋の二〇五号室を訪ねた。

 高橋は廊下側のベッドに仰向けに寝ていた。両目はぱっちりと開けている。

「高橋さん」

 年の近い久野はベッドに近づき、高橋の白い手を握った。

「川畑さん、私の見舞いですか」

「あなたのことが心配でやってきたのよ。お体、大丈夫?」

「ええ、なんとか。どうやら食中毒だったみたいです。先生に診断していただいて、一時間ほど前に胃の洗浄と輸液を行ったところです」

「輸液?」

「点滴で、水分や電解質を体にいれることのようです」

「そうなの。たいへんだったのね。いけんしてまた?」

「もしかしたら食べ物でなにかにあたったのかもしれないわ」

「どうぞお大事に。こんな状態で訊くのも気が引けるんですけれど、電話で言おうとしていた犯人の心当たりというのはだれね?」

「私の娘の友人に、市長の娘さんがいまして」

「猪里市長の娘さん?」

「ええ。鹿原志保という大学生です。その子は現在、大学を休学中なんです」

「いけんして、志保さんが犯人かもと?」

「一日目の変死事件を覚えているでしょう? あの沖本陽菜乃さんの家庭教師だったんです。鹿原志保さんが。たしか中二の冬まで」

「なんですって!」

 久野は思わず大声を上げ、あわてて口を塞いだ。

「隣町の噂までくわしくはないけれど、娘によると、志保さんは、『教え子の覚えが悪い。丁寧に教えているのに無駄話ばかりに夢中で、腹が立つ』と漏らしてイライラしている様子だったと言います。それだけで犯人と決めつけるのは早計ですけど」

 天井を向いた高橋は言った。さらに、彼女はときどき何を考えているのか分からないときがあるから、と娘の由紀も距離を置くようになったというではないか。

 久野は頭に入れておくべき、重要な証言だと思った。高橋の勘は当たりかもしれない。

 久野は辞去して病室を去り、南町三丁目の南陽信金に向かった。現場について五分後に、鐘が正午の時を知らせた。朝からあちこち回り、お腹が空いたなあ、と思っていると、向こうからやってきた飯野も、

「バタバタして腹が減りもした」

 と言った。久野は思いだしたように、トートバッグからタッパーを一つ取り出し、飯野に差し出した。

「これ、近所のひとからの差し入れ。よかったらたもんせ」

「ありがとやんす」

 飯野はタッパーを受け取り、さっそく弁当をパクついた。

「こん青いのはヨモギですか」

 弁当に添えられていた割り箸で、玉子焼きの緑の〝筋〟を差している。

「かもね。何かは知らんちゃ。もらいもんじゃち」

 飯野はおかずだけを食い、握り飯を最後に一気に平らげた。

「それで事件はどうなのよ」

「被害者は百姓の恰好をしちょったそうです。信金の黒い金庫の中の大きか札袋に入れられて死んじょりました」

「今回の連続殺人で初めての男の被害者ね。しかも、密室の殺人か。で、死因は?」

「まだ分かりもはん。司法解剖に回されちょります」

「他に分かっちょることは?」

「遺体発見の電話が午前十時きっかりにあったそうです」

「三人目の犠牲者ね。遺体の発見者と目撃情報はいけんじゃち」

「発見者は南陽信金南町支店の諸村主任です。警察からの電話で慌てて車を飛ばし、支店に入って金庫を解錠して袋を開けたら中に遺体が入っちょって、大騒ぎじゃったと」

 飯野の話では、南陽信金は二日の平日に袋の中身を確認して以来、この二日間だれも開けておらず、昨日と今日は休業日。暗証番号も主任以上の役職者しか知らないらしい。外部の人間が札束を入れる袋に触れるのも、金庫を解錠するのも不可能だ。金庫にこじ開けられた形跡もない、とのこと。

 いったいどうやって犯人は遺体を金庫の袋に閉じ込めたのか。三日と四日は祝日で店舗は閉まっていた。二日の営業日に殺害して袋に入れたとしか考えられない。

 現場を歩き回り、推理を働かせていると、飯野が突然呻きだした。

「いけんした、飯野くん」

 その場にうずくまる飯野に駆け寄る。

「吐き気がして……」

「吐き気?」

 もしや、と今朝の高橋と結び付けた。

「何か食べ物があたったの?」

「そうかも……。病院へ」

 久野はすぐに一一九番へ電話し、救急車を呼んだ。顔の青くなった飯野に付き添いながら、弁当だと心で叫んだ。差し入れの弁当。あの緑の野菜。近所からの差し入れ、とだれかが思わせたとしたら。高橋さん、飯野、久野の三人を狙ったのではないのか。

 久野はトートバッグからスマホを取り出し、検索して調べてみた。緑の山菜のうち、五月に穫れて毒のあるものを検索にかけた。トリカブトだの、スズランだの、イヌサフランだの、と毒草がずらずらと出てきた。

 救急車の中で中平デスクに連絡を入れ、飯野が吐き気で病院に搬送される旨を告げ、飯野の家族の連絡先、今後の仕事の対処などを訊ねた。救急車はさきほどと同じ聖愛病院に入っていった。

 飯野の父が聖愛病院に姿を見せたのは、入院してから一時間と四〇分後だった。久野は、飯野がどうやら弁当にあたったことを詫び、久野の連絡先を父に教えた。

 診察した医者に彼の吐き気を催した経緯を説明し、付き添いを飯野の父に任せた。

 おまえが犠牲になるぞ――脅迫の言葉が真実味を帯びてきた。もう一つのタッパーを食中毒の証拠品として、警察に届けようと決めた。

 ひきつづきデスク宛てに、大至急、ことの経緯をメールする。一連の殺人事件の記事を担当していた飯野が差し入れの弁当を食べて食中毒を起こした様子で、聖愛病院に入院した、と。すぐさま、デスクから返信が来て、飯野の代わりに久野が記事の担当者に指名された。

 飯野の携帯を拝借し、その中身の原稿を引き継ぐことにした。

 実家に車で戻った。

 朝、川畑家に弁当を差し入れた人物はだれなのか。近所の人に訊ねて回った。すると一人の女が浮かんだ。

「背の高かおなごが入っていきよったげな」

 隣近所で、早朝に庭の水遣りをしていた顔見知りの主婦が言った。

「ここいらでは見かけん、痩せた女じゃち。水色の帽子に赤い丸眼鏡をかけっせ、わたしに一礼して通り過ぎた。服は目立たんでよう覚えとらん。そうそう、風呂敷包みば持っちょった」

 近所の別の主婦がそう明言した。

 背の高い、赤い丸眼鏡をかけた痩せ型の若い女――。

 服装こそ地味にしていたらしいが、その女はまさしく、ここに来た初日に車で拾った旅の女と特徴が一致している。あのときの女は淵井絵美と名乗り、他県からの旅行者を装ってスーツケースを持って移動していたが、あれは真っ赤な嘘だったのかもしれない。絵美の正体は志保であり、もしかすると弁当を差し入れたのも、高橋の言う大学生、鹿原志保かもしれなかった。

 五月二日の陽菜乃さん殺害のアリバイはまだ崩せていないが、犯人グループの一人の可能性は高いと見た。

 飯野の携帯を開き、朝の報道メモを再度読み返す。

 炭酸ガスの鑑定を鑑識がおこない、ドライアイスによる中毒死と結論付けたという事実から察するに、捜査本部は、当然、被害者の死亡推定時刻を割り出しているはずだ。とすると、警察は志保のアリバイを突き崩すことができると確信しているのかもしれないと思った。

 久野は、おぼろげながら、どこかで志保と面識があったと記憶していた。それがいつ頃のことで、なんの取材だったのかはどうしても思い出せなかった。

 初日に届いた、取材をつづけるな、という手紙の警告文も、N新聞をはじめとする報道機関各社への狙い撃ちだったのかと思うと身震いした。

 一方で、殿田専務が取材の自粛を要請してきたのは、市長の娘が犯行に関わっているからかもと推量した。それなら、圧力云々の筋も通る。

 しかし、痩せた女一人で全ての殺人を決行するには、いくつもの問題点があると思った。

 例えば、五月三日の事件では、馬の力で被害者を大木に吊るしあげたことや、今日の金庫の札袋に男を封じ込める事件など、女一人で為せる仕業ではない。かなりの腕力が必要だ。共犯者に男の影がちらついた。それは充分にあり得た。男が複数いて、グループで殺人を犯した可能性もあった。

 殺人の動機はバラバラで、どれかの殺人を本命にし、他はカムフラージュするために人を殺めていく。猪里市にも恐ろしい殺人鬼が住んでいるものだと思うと、腹は煮えくり返り、怒りと不安で体はぷるぷると震えてくる。

 別の見方をすれば、トンネルの出口の明かりが見え、犯人を追い詰められそうだった。そのスリルにぞくぞくしてきた。社会部記者として悪い犯人をあぶりだし、市民を不安と恐怖から救うことができるのはわたしだけだ。ペンの力の大切さと職責の重みが、両肩にずしりとかかる気がした。

 車を運転して、ふたたび南町の南陽信金に戻ってきた。途中、鐘が四回鳴るのが聞こえた。

 戻るあいだに、蕎麦屋によってかけそばを食べた。

 飯野の仇は、絶対にわたしが取ってやるわ――。

 気合を込めてウォーキングシューズで現場に入った。黄色の規制テープの近くにいた刑事を捉まえて、訊ねた。

「N新聞の川畑です。病気の飯野に代わり、わたしが事件の記事を担当することになりました。ところで、今回の遺体も連続殺人の三人目の犠牲者と見ていいですか」

「まだくわしい死因が分からんでなあ。しかし、金庫に遺体が入っちょるけん、自殺や事故死ではなかろうよ」

「他殺ですね」

「そりゃそうじゃろ」

「死因はいつごろ分かりもすか」

「報道メモを見てくれ」

「夜には判明しますか」

「なんともいえんな」

「遺体の特徴も教えられんと?」

「うん。教えられん」

「遺体は服を着けちょりましたか」

「それも言えん」

「いくつぐらいの人物ですか」

「それも報道メモに書かれるじゃろうな」

「じゃろうばかりじゃ記事にならんと」

「まあ、そうせかんと。いま、遺体の身元確認をしぃちょるとこじゃが。大体、わしらは公務員ぞ。オフレコ以外で伝えることは法律違反じゃち」

 刑事は少し苛立った口調になり、そのまま押し黙ってしまった。刑事から訊きだせることはないとみて、久野は目撃者を探した。

 ポロシャツ姿で現場にいた中年の男に訊ねてみた。

「遺体の発見者の諸村さんは知っちょりますか」

「知っちょります。うちの主任です。私も南陽信金で働いちょりますから。私は彼の上司です」

「それはとんだ失礼を。お名前は?」

「三成といいます」

「役職は?」

「係長です」

「三成さんも諸村さんと同じく休日で、警察からの要請があり、金庫を開けたのですね」

「ええ。私の立会いのもと、諸村に開けさせました」

「金庫の鍵はいけんなってましたか」

「うちのはダイヤル式の金庫で、四つの暗証番号を回し、キーで開けるタイプです。番号は私を含めて四人の役職者しか知らんし、キーはふだんから私と諸村以外は、出入りの警備員しか持ち歩いていません」

「きょうはどこにキーがありもしたか」

「私と諸村のそれぞれの自宅に一つずつ」

「刑事の質問のようで申しわけありませんが、最後に金庫を閉めたのはだれで、何日の何時ごろでしたか」

「警察にも言うたんですが、五月二日の午後四時でした。鐘が四回鳴ってからです。閉めたのは諸村です」

「分かりもした。取材にご協力いただきあいがとごわした。もし、なにか思い出したことや伝えたいことがあればこの番号までお願いします」

 久野は名刺を手渡し、頭を下げた。

 クラウンに乗り込み、今日起きた金庫の変死事件に関して判明した事実をまとめ、デスクに送信した。

《中平デスクへ 以下、原稿です。

 金庫の中から遺体 五月四日(金)午前十時過ぎ、猪里市南町三丁目の南陽信用金庫南町支店において、同支店内にある金庫の札袋の中に、身元不明の普段着の恰好の男が入れられているのを、猪里署への匿名の通報により同支店職員が発見。警察の立会いのもと死亡が確認された。支店職員の証言によると、五月二日の四時以降、金庫にはだれも触れていない事実から、県警は他殺と見て死因を調べ、捜査を進めている。猪里市連続殺人事件捜査本部によると、今回の殺人が二日前から猪里市で発生している連続殺人事件と関連があるかどうか、引き続き慎重に容疑者の捜索を行っている。

 ここからは私見ですが、密室トリックであり、施錠した金庫をキーで開けられるのは南陽信金南町支店の諸村主任と三成係長、出入りの警備員だけです。わたしは、内部犯行説か、外で殺して袋に入れた内部協力説のどちらかを疑っちょります》

 原稿以外に、一連の犯行の続きならば、連続殺人の犯人は複数いるか、協力者のいる可能性があることも付け加えておいた。

 猪里署へ向かうあいだ、後ろから「あおり運転」をしてくる黒のスポーツカーがいた。しつこく車間距離を詰め、幅寄せしてくる。ときどき追い抜いて前に入り速度を落とす。

「嫌な車だわ。こんな土地柄でもあおり運転なんてする輩がいるのね」

 ひとりごちた。

 四時四〇分、猪里署に着いた。藤宮警部補か長里警部が庁舎から出てこないかと期待した。しかし、一〇分たっても二〇分たっても庁舎の出入り口には影すら見えない。

 小雨の降る中、雨合羽姿で立ち続けていて、他の用事を思い出した。

「そうだ。タッパーだ。忘れるところだった」

 飯野の被害届を出し、同じタッパーの弁当を証拠品として提出すれば、鑑定してもらえると考えた。

「すいません。二人の人間が食中毒の被害に遭いました。これと同じものを食べたんです」

「このタッパーのおにぎりを?」

「いいえ。たぶん玉子焼きの中に混じっている青い葉っぱじゃなかかと」

「青い葉?」

「調べてください。同僚と知人が嘔吐して入院したんです」

 そのあと、どういう状況でタッパー入りの弁当を入手したのか、警官に根掘り葉掘り訊かれた。食中毒の被害届は受理された。

 一般的に、稲和県に限らず、地方で起きた事故や事件の概要に関して、東京の「日本記者クラブ」に報道メモが配布され、それを東京にいる記者がまとめる。

 まとめた中身がメールの形で久野の元に届いたのは、鐘が五回鳴った午後五時のことだった。N新聞は、地元での取材と東京から上がってくる報道メモを突き合わせて原稿を書くことになる。

 しばらくして記者クラブから発表された報道メモをまとめたメールの中で、猪里市連続殺人事件に関するメモが一番上に書かれてあった。ゴールデンウィークに起きた事件としては、九州自動車道の玉突き事故よりも価値のある扱いだった。

《所轄署は稲和県警猪里署、容疑は殺人、被疑者不明。被害者名は宇志窪悟(六四)男、職業は農業。容疑の概要は、五月四日(金)午前十時頃、普段着の恰好で猪里市南町の南陽信用金庫南町支店内にある金庫の札袋に入れられた状態で、被害者が死亡していた。他殺の可能性がきわめて高い。死因は不明。現在、司法解剖中》

 以上が報道メモの変死体に関する中身だった。農夫が死亡。死因は不明。

 久野は、ますます密室トリックだと思った。

 これから不審者の目撃情報を集め、現場付近を訪ねて得られる証言などがあればそれも原稿に織り込むことになる。

 明日は五月五日だ。官公庁は、今日、明日、明後日までずっと休み。地検に顔を出せるのはゴールデンウィーク明けの七日月曜日になる。今回のような凶悪事件で稲和地検も動いてはいるが、二日の夕方に第一の事件が起きてバタバタしているうちに閉庁時刻をとうに過ぎてしまった。昔の検事なら顔見知りで連絡を取れるが、久野も年を取り、検事もどんどん交替している。現在の検事の連絡先はまだ名刺交換もしておらず、分からなかった。次は七日の午前中まで検事には会えない。

 とにかく犯人が逮捕されないかぎり、地検も動きようがないのは確かだ。

 他の新聞社、特にライバルM紙との競争もあり、土門編集長も事件の続報が入ればトップ扱いにすると宣言していた。昨日までの話だ。飯野が倒れたいま、社会部の記者として久野しか事件を追う者はいない。

 マイナスポイントは、飯野の脱落だけではなかった。紙面に関して変更を迫られた。

 五月四日の昼、次のような書簡がN新聞の社会部宛に届いていた。書簡は、事件が未解決で今後も同様の事件が起こるのを見越したように、新聞記事の影響を懸念する内容の意見書だった。


 星永産業は、稲和県を代表する会社です。猪里市がこのまま不名誉な新聞記事に晒されるのは、会社にとっても、市民にとっても、けっして好ましくないことです。副社長にも申し入れましたが、要するに、記事の扱いをできる限り小さくしてほしいのです。事実を知る権利は大事です。しかし、事件がせっかくの大型連休の楽しさに水を差し、猪里市を不名誉な場所に変えてしまうようなことはだれも望みません。

 会社の総意は全市民の総意と思ってください。この書状を無視して記事を大きく扱うようならば、貴社保有株式の公開買い付けなどなんらかの対抗的措置を取らざるを得なくなるでしょう。くれぐれも、事件については慎重の上にも慎重を期されるよう、筆をすすめていただきたいと願います。

                 星永産業専務取締役 殿田忠志


 殿田専務から直截の注文を付けられ、中平デスクも弱り顔だったらしい。土門編集長も株式公開買い付けだけは避けたい、と頭を抱えたという。

 久野は土門編集長からの電話で知り、

「犯人が逮捕されるまで、徹底して記事を一面の目立つところに載せるべきです」 

 と主張したが、編集長には、

「Qちゃん、すまん。長いものには巻かれんとな。逆らえないんじゃち、おいどん程度の新聞社では」

 と通告された。

 電話を替わった中平からは、もっと具体的に、

「見出しを小さくする。犯人が逮捕されてから特集を組むように」

 と命じられた。

 とにかく、事件の燃えさかる火を早く消すためにも、警察の動きを掴んで、犯人を早期に逮捕に導かねばならない――。

 その使命感だけで久野は動いていた。

 久野は、高橋の口から出た市長の娘、志保のことを知りたくて、志保の家に彼女を訪ねた。女の勘で、志保が犯人に間違いないと思った。連続殺人に女独特のねちっこさがあった。その女と親しくするものが共犯者。ドライアイスを運び、湯船にビニール袋を浮かべたり、馬を用意したり、金庫の袋に遺体を運んだりしたのだろう。最初の犯行も、陽菜乃と顔見知りの志保が車に誘い込み、首を絞めたあとで志保はアリバイ作りを、協力者は犯行のつづきを分担して行ったのだろうと推理した。

 そうと分かれば、鹿原市長宅に行ってみなければ、と車を走らせた。

 市長の家には人だかりができていた。警察の車も停まっている。ただ、市長は表に姿を見せず、立派な佇まいの雨戸は閉まったままだった。呼び鈴を押してみたがだれも出ず、しばらく待ったが空振りに終わった。

 通りががりのおばさんに訊ねてみた。

「これはなんの騒ぎじゃち?」

「市長の娘さんが怪しいち噂じゃ。警察も参考人として娘さんに事情を訊こうとやってきたどん、戸が閉まってだれも出てこんのよ」

「容疑者が娘さんなのはなんでじゃち?」

「志保さんいう娘は、大学を休学中で陽菜乃さんの元家庭教師じゃった」

「そいは知っちょっと」

「彼女は、中国人観光客の泊まった民宿『あおば』の高橋さんとこの由紀さんと友だち。おまけに、今日死んだち噂の宇志窪さんは、二年前の夏祭りで志保さんの尻を触った痴漢じゃち言うが」

「へえ、そうね。犯行の動機は分かりもすか」

「うんにゃ。わからん。でも、被害者すべてに接点があるんは志保さんしかおらんち、みんな言うちょります」

「なるほど。で、肝心の志保さんは自宅に籠っているのかしら」

「さあ、それもわからん。今朝からずっと雨戸は閉まっちょったそうな。おらんかもしれんよ」

「わかりました。ありがとやんした」

 おどろくべき口コミだ。報道メモにしか書かれていない被害者の名前がもう住民に知れ渡っている。久野は、これまでの被害者のうち中国人の女をのぞく二人は、たまたま殺されたのではなく、それぞれに志保の恨みを買っていたのではという仮説を立てた。

 陽菜乃さんは家庭教師の生徒として覚えが悪く、志保を手こずらせた。宇志窪は痴漢を働いた。二件目の李さんの殺された理由は分からなかった。

 とにかく、殺害の動機としてはいずれも薄い。嫌がらせかしっぺ返しをする程度ですまないのには、なにかがある。

 もしかすると、これから起こる殺人事件こそがほんとうの狙いで、やはり他はカムフラージュの見せしめの殺人ではないだろうか。

 雨上がりの夕焼け空を見上げた。鈍く光る鉛色の雲に、志保の気持ちを投影してみた。明日が最後の殺人かもしれない。警察も志保を追っている。明日は土曜日。土に関係した殺人が起きてしまうのか。

 デスクへ送る原稿を書き直してメールで送信したのは、六時を回ったころだった。

《中平デスクへ 連続殺人三日目。以下、原稿です。

 農夫の遺体、金庫に 五月四日(金)午前十時過ぎ、猪里市南町三丁目の南陽信用金庫南町支店で、農業を営む宇志窪悟さん(六四)の遺体を同支店職員が発見。警察が駆けつけ死亡を確認した。遺体は施錠された金庫内の札袋に入れられていた。死因は不明。県警は他殺と見て捜査している。猪里市連続殺人事件捜査本部は、今回の事件と過去二件の殺害との関連も含め、犯人の足取りを追いながら、慎重に捜査を進めている》

 毎日日替わりで変死事件が起き、市には東京からテレビ局関係者や雑誌記者らが押し寄せて奇妙な盛り上がりを見せていた。平穏だった田舎町はすっかり悪事の舞台として有名になってしまった。

 標準語を操るマスコミ連中がぞろぞろと集団で町を闊歩してカメラを回す光景は、かなり奇異に映った。まるで、妖怪の出る秘境を練り歩く探検隊のようであった。それも犯人の狙いだったのかもしれない。

 久野は歪んだ心の犯人と向き合い、せめて次の殺人を犯すのだけでも思い留まるよう説得したかった。多少自分が犠牲になってもそうしたかった。真実を報道する以上に、事件を起こさせまいとする良心は、犯行を看過することができなかった。

 しかし、市長宅の雨戸は待てど暮らせど、ぴたりと閉じたままでだれも出てくる気配はなかった。

 一旦、途中から合流した社会部二年目の記者、品浜を市長宅に残し、峰子の家に引き返して娘の由紀に会い、話を訊いた。夜になりちょうど用事から帰ってきたところで都合がよかった。久野は名刺を渡し、

「最近の志保さんのことを訊かせてくれる?」

 と顔を見つめると、怯えた表情で、

「志保とは最近は会ってません。前は普通の礼儀正しい子だったのに、ちょっと周囲と馴染めなくなり出したみたいです」

「それはいつぐらいから?」

「昨年の秋ぐらいから」

「その頃なにかあったのかしら?」

「ちょうど学園祭の季節で彼氏ができたらしくて」

「どんな人?」

「見た目は普通で従順そうに見えました。私が、志保の彼ですか、と訊ねても、照れたように笑って首を縦に振るぐらいで」

「周囲に馴染めなくて具体的にどうなったの?」

「周りは身の丈に合った就活をしていたのに、志保は東京の大企業を狙ってはダメの繰り返しで、みんなと溝ができて一人で抱え込み、悩んじゃったみたいで」

「家庭教師の生徒の話はいつ訊いたの?」

「昨年の夏休みぐらいです。家庭教師がうまくいかないと愚痴ってました。それ以後は知りません」

「わかったわ。貴重な意見、あいがとごわした」

「志保が犯人なんですか」

「それはまだわからないわよ。警察の捜査しだいだわ。マスコミも彼女を犯人と決めつける証拠のない限り、報道できないのよ」

 久野は少しでもなだめようと明るい声を掛けた。記者としては耳寄りな話を聞けておおいに参考になった。由紀は高校時代を思い出したのか、遠い目をしていた。

 久野は晩も遅くなると迷惑だろうと思い、辞去して沖本陽菜乃の通夜に行くことにした。市長宅には品浜を残しておくことにした。

 彼には言って聞かせた。

「品浜くん。市長の家に動きがあれば、すぐにわたしに電話するのよ。どこかから車が迎えに来てもよ。いいわね」

 彼に後を託し、沖本家に車で向かった。

 暗闇の中、沖本家に到着したのは七時を回っていた。車を向かいの空地に停める。母に借りた黒のドレス姿で、一般参列者として受付で名前と住所、電話番号、勤務先を書いた。

 七時から僧侶の読経は始まっていたらしく、用意された広間の座布団のほとんどが参列者で埋まっていた。葬儀社の係員の誘導で空いている座布団に座り、前の人の背中を見た。おもむろに祭壇を仰ぎ見て、生前の沖本陽菜乃さんの明るい笑顔の遺影に、数珠を持った手でそっと合掌した。

 座って五分とたたないうちに焼香の順番が回ってきた。座ったまま遺族にまず一礼し、白木の祭壇に向かって一礼して、膝で焼香台まで寄って合掌する。お香をつまみ、目の位置まで持ち上げ、香炉へ落とす。再び遺影に合掌する。膝をつけたまま下がり、遺族に一礼してから立ち上がり、元の座布団に戻った。

 通夜は八時に終了し、参列者は互いに挨拶などを交わしながら帰るもの、ご両親を慰めるものに分かれていた。久野は、陽菜乃の知り合いでも、通っていた学校関係者でもなかったので、簡単に喪主の父上に挨拶して、その場を立ち去ろうとしたが思いとどまった。

 弔問客の中に、黒の詰襟や濃紺のセーラー服を着た第二中の生徒と思しき数人とすれ違った。友人か部活の仲間だろうか、ヒクヒクと久野の背中越しにすすり泣くのが哀れで、思わず久野ももらい泣きしてしまった。亡くなった現場を目の当たりにしたときの動揺の気持ちと愕然として腰を抜かしそうになった場面が蘇った。

 久野は制服を着た女生徒を捉まえ、訊ねた。

「あの、N新聞の川畑と申しますが、一昨日の陽菜乃さんの死ぬ前の行動について訊ねてもよろしいですか」

「はい」

「陽菜乃さんとはどこまで一緒でしたか」

「バス停まで一緒でした」

「そのあとは?」

「陽菜乃は『コンビニで買い物をするから』と言って私たちと別れてひとりでコンビニの方へ歩いて行きました」

「バスの中で、とくに困っていた様子などは話さなかった?」

「いいえ、ふだんと変わらず、明るく元気で。まさか、死ぬなんて……」

 同級生らしき女生徒は、ワーッと泣き崩れた。久野は肩に手をやり慰めた。

「陽菜乃さんは悪くない。きっと犯人は捕まるからね」

 久野の目にもまた涙がたまり、ハンカチで目を覆って沖本家をあとにした。

 道路を歩いて渡り、空地に停めたクラウンを発進させた。品浜の待つ市長の家へ戻るのだ。仕事の合間に通夜の予定を入れざるを得なかったが、はたして失礼ではなかっただろうか。

 N新聞の記事を飯野に代わって久野が担当し、事件を報道している。けっして迷惑なことを書いているつもりはないが、残酷な事件を伝えつづけるにつれ、亡くなっていった死者の魂が浮かばれるだろうかと自問してしまう。記事が凄惨な事件をおびき寄せているような錯覚に囚われ、原稿を上手く仕上げれば仕上げるほどやるせない気持ちになり、口の中になんともいえない苦味を感じた。

 九時過ぎまで市長の家に張り込んで待ってはみたが、灯りもつかず、食事の匂いもしない。物音すら立たなかった。取り囲んでいた人垣は一人へり二人へりして、いつの間にか警官二人を残すのみとなった。

 人の噂を聞いた。

「市長と奥さんは、隣の市の高級ホテルに宿泊し、事態を見守っているとよ」

「あたいが聞いたところでは、市長は病気を理由に聖愛病院に入院し、いちばん料金の高か個室に入って面会謝絶だち」

 あちこちでさまざまな憶測が飛び交っていた。

 肝心の娘、鹿原志保に関しては、もしかすると男の家か、少し離れたところにあるホテルにでも潜んでいるのではと疑り始めた。

 そのまま九時半まで久野は何も口にせず、品浜と一緒にひたすら事態の推移を見守った。

 夜一〇時に最後の報道メモがメールで送られてきた。

 今日の殺人に関して、死因は農薬の大量摂取による死亡と判明した。農夫が作業をしていたときに持ち歩いていた水筒のお茶から農薬の成分が検出された、とのこと。

 久野はすぐ原稿に、《農夫は持ち歩いていたお茶を飲み死亡。お茶に農薬が大量に混入》と死因を反映させ、追加のメールを再送信した。

 一〇時過ぎに車を出して猪里署に向かった。品浜をそこで降ろし、扉の閉まった門の外から庁舎の出入りがないかを確かめようとしたときだった。灯りのついた一階の部屋の窓が開き、警官が手招きした。

 門の脇の通用口を通り、庁舎の中に入る。警官は廊下の長椅子にかけるよう指示した。

「川畑さんじゃったな。見つかったよ。食中毒を起こした成分が」

「やっぱり玉子焼きからですか」

「これがその鑑定結果じゃ」

 蛍光灯の下で、警官は、科捜研の鑑定した結果を書いたワープロの紙を見せた。

「あんたの言うとおりじゃ。玉子焼きの緑は、無毒のヨモギと毒の成分を含むイヌサフランの葉。イヌサフランが体内に入ると食中毒を起こす」

「それで、指紋とかは」

「検出されなかった。差し入れの心当たりは?」

「近所の人が背の高い女を見たと」

「やはり、被疑者と一致してるな」

「鹿原志保ですね?」

「おっと、そげな名前をあげられても困る。そちらの事件は捜査中だ」

「わかりました。遅いのでそろそろ帰ります」

「犯人はなにをしでかすか分からんから、気をつけてな」

「はい、ありがとうございます」 

 庁舎を出て、車で実家に戻った。実家に着いたのは、一一時前だった。

 居間で喪服を脱ぎ洗面所で化粧を落とした。髪留めを外して髪を下ろし、ラフな恰好に着替える。

「そら豆があるよ。たもらんね」

「あいがと。家の庭で穫れたのね」

「じゃっち。穫れたてじゃち」

「箸が進むのよね」

 久野は、食卓に出された塩茹でのそら豆から箸をつけ、ある程度食べると、こんどは冷めた天ぷらをレンジで温め、ご飯といっしょに食べた。風呂はシャワーで済ませた。

 中平デスクから返信があり、

《疲れているだろうけど、もう少しがんばってくれ》

 と慰めの言葉が綴られていた。

 部屋の灯りを点け、一人で大学ノートを開く。それまでの経緯を整理してみた。のちに特集記事を組んだときのためでもあった。

 連続殺人の裏付けを考えてみた。毎日違う犯人が関わった殺人なら、相当悪質な犯行グループだ。猪里市を危険地帯に陥れて喜ぶような、心ない部外者だろう。初日の温泉変死事件では、証拠品としてドライアイスが使われた可能性が高く、遺留品は陽菜乃さんの卓球道具などが入ったかばんと携帯。それらは矢能川から見つかった。

 二日目の大木事件は、証拠品としてちぎれた縄と馬の蹄鉄の跡だった。遺留品は李さんの衣服とパスポート。

 三日目の金庫事件は、証拠品として被害者の持ち歩いていたお茶から農薬の成分が見つかった。遺留品は仕事着。

 連続殺人と考えるのは、犯行時に目撃者がいない点、殺し方がナイフや銃などでなく、化学品や動物、劇物などの知識を持った者がいて、それらを殺人の道具に利用した点、曜日と殺人に関連がある点、鐘の鳴ったのを合図に犯人が警察に電話で遺体の発見を知らせてくる点が共通していることによる。

 犯人はほぼ一〇〇パーセント鹿原志保と彼女に関係した男らに間違いない。警察も、ドライアイスの入手ルートから割り出したパソコンの特定、ビニール袋から検出された炭酸ガスの鑑定、陽菜乃さんの立ち寄ったコンビニなどの監視カメラの解析、被害者周辺と殺害現場付近での訊き込み、民宿のおばさんの証言、信金職員または警備員に対する尋問などから、犯人を追い詰めているはずである。そのときは、まだ、市長の娘のほんとうの犯行動機を知り得なかった。

 初日から久野という記者個人への脅しがあり、警察への挑発もあった。稀に見る、周到で執拗かつ大胆な犯行は、一見するとバラバラだ。ところどころに犯人と目される志保の私憤が垣間見えるが、彼女本人の情緒の未熟さとも取れた。市長の娘でありながら、市民全体を晒し者にするような人間は、狭い田舎ではとても普通に暮らしていけないし、馴染めないはずだった。

 明日も猪里署に張りついて、犯人の殺人事件に振り回されるのかと思うと、取材や原稿入力の仕事も気が滅入った。

 とにかく、個人的な何かが潜んでいる。犯人が、いつ、だれを襲うのかが全く読めず、犠牲者の目星もつかない。

 恐らく、捜査本部も何かの証拠は掴んでいるだろうが、いずれも物証と犯人を直接結び付ける決め手を欠いているのだろう。町の噂と状況証拠だけで逮捕、送検し、検察が起訴に持ち込むには時期尚早すぎる。

 徳広に電話するのも忘れ、仕事で疲れた体を早く休めたくて、風呂にも入らず、寝間着に着替え、すぐに寝てしまった。

 その晩、犯人と対決する夢を見た。志保がピンクのスカート姿で夢に出てきて、

「たとえどんな正義面をしていても、真実を相手に突きつけることほど残酷な所業はないのよ」

 と目を剥いて言った。夢からハッと覚めた。

「真実を突きつけるって、記事を書くことかしら」

 寝ぼけながら、心がザワザワした。

 きっと町民らも、残忍な犯行手口を含めて、事件の真相が日本中に知れ渡る風評を恐れているのだろう。記者としての職責と、元市民としての愛着が睨み合って心は揺れ動き、チクチク痛んだ。

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