第2話 五月三日(木曜日)

 朝の八時に目が覚めた。いつもより遅い時刻だ。けだるい朝で小雨が降り、空気は湿気を帯びていた。庭から臨む景色は、木々の葉がしっとりと濃くて、向こうの丘あたりは霧が薄く煙っていた。

 窓を開け、田舎の空気を吸い込んでみる。不如帰の鳴き声が裏山からこだまする。実にのどかな環境だ。濡れた葉と土の匂いが、むかし嗅いだときの懐かしさと変わらず、気持ちを安らかに保ってくれる。

 両親はとっくに朝飯をすませていたようだった。寝ぼけて顔を洗い、寝間着のままで部屋に戻った。昨日投函された紙をもう一度見ようと、トートバッグの中から取り出し、文字を見つめた。

 犯人なのか。もしくは事件のいきさつを知る者、犯人を庇うものか。共犯者の可能性だってある。どうやってこれを入れたのか。歩いて投函したのか。それとも車で送ってもらい、近くで降りて歩いてきたのか。

 いずれにせよ、久野が昨日現場に居合わせたこと、新聞記者として事件の解明に関わろうとしていることに、敏感に気づいた様子だった。

 今日は、憲法記念日で祝日だが、猪里警察署に行かなければならない。念のため、車に細工をされてないか確かめた。どうやら大丈夫だった。

 飯野に電話を掛けた。

「飯野くん、おはよう」

「川畑さん。おはようございます」

「さっそくだけど、猪里署、何時に行くね?」

「八時四五分でお願いします」

「わかった。八時四五分ね。遅れないでよ」

「心配なかです」

 猪里警察署に集合する時間は九時前と決まった。

 それにしても、だれが事件解明の邪魔をしようとしているのか。その人物こそまさに犯人そのものかもしれない。まずは警察に行き、被害者のくわしい死因を突きとめねばならない。

 その前に、遅い朝食を一人で食べ、食卓の上に置いてある朝刊に目を通した。新聞記者の性で、どうしても新聞記事が気になる。

 N新聞は、やはり一面のトップに少女変死の記事を持ってきていた。昨日の事件をどう報じているかが気になった。大きな見出しが紙面を飾っている。紙面を食い入るように見つめて読んだ。


 女生徒の遺体、温泉で 二日午後四時、稲和県猪里市南町の温泉宿、渓山荘で猪里市立第二中三年の沖本陽菜乃さん(一五)と見られる遺体を番頭が発見し、警察が駆けつけて死亡を確認した。番頭の話では、営業直前に女湯に入ったとき、浴槽に大きな透明のビニール袋が浮かんでいた。袋の中に人が衣服をつけずにうつ伏せで入っていた。稲和県警によると、遺体の状況から自殺や事故ではなく他殺とみて調べを進めているという。警察は検視解剖を行っていて死因はまだ不明。


 昨日のうちに実家から写真と原稿を送っておいたので、久野と飯野の原稿が新聞に記事として掲載されていた。

 携帯の受信フォルダを開けると、

《原稿は届いた。とりあえず記事になって助かった。Qちゃんは飯野くんのサポートをよろしく頼む。警察に張り付かせてやってくれ》

 と中平からの返信が届いていた。

 朝早く、真由美は庭の隅に植えていた色とりどりの花のうち、咲いていた数本を摘んだらしく、新聞を読みおえた久野に声を掛けた。

「あんたは、陽菜乃ちゃんにこの花を手向けてきなさいよ」

 小雨の降る中、花を取ってきてくれた母の心遣いに、

「母さん、あいがと」

 と礼を述べた。さっきまで読んでいたN新聞の経済欄を一枚めくって、花を包んだ。

 それを机の上に置いて、持ってきた旅行かばんの中から、昨日の服とは違うチェックのワンピースと無地のカーディガンを出し、着替えた。そのまま洗面所へ行き、歯を磨き薄化粧をしてトートバッグを持って車に乗り込んだ。

 しばらく走っているうちに雨は止んだ。幾重にも鼠色の雲が重なっては広い空をゆっくり流れている。交差点をいくつか過ぎて、コンビニまでやってきた。

 速度を落としてコンビニの駐車場にクラウンを停め、店内に入った。飲み物とM新聞を買った。他紙が事件をどう報じているのか、ライバル紙の記事が気になる。外に出て雨をよけるようにして車に乗り込み、中で新聞を広げた。さっそく新聞の社会面に目を通してみる。大きな縦見出しだった。


 温泉で少女の遺体 変死か? 二日午後四時、稲和県猪里市南町の温泉宿、渓山荘で猪里市立第二中三年の沖本陽菜乃さん(一五)の遺体を番頭が発見。女湯の浴槽でビニール袋に入れられ服をつけずに下を向いて浮かんだ状態で見つかった。陽菜乃さんは連休中に卓球部の部活で他校へ試合に出掛け、その帰りだった。家族の話では、当日は朝から出掛け、途中連絡はなかった。「まさかこんな姿になるなんて、まだ信じられない」と両親は号泣した。稲和県警は、異常な状態で見つかったことから、他殺によるものと推定し、調べをつづけている。被害者の所持品も含めて容疑者の情報提供を呼びかけている。事件前、少女の周辺で目立った出来事やトラブル、いじめなどはなかった。


 なんてことだ。むごい。改めて思った。犯人は残酷な大人だろう。新聞の情報を頭に入れた。卓球部の帰り道で所持品は見つかっていない。少女の周りでトラブルなし。

 赤の他人の無差別殺人かもしれない。また、そう装っただけで知り合いの怨恨殺人の可能性もある。

 被害者の家族の談話を聞けなかった分、M紙に頭一つリードされた感が否めなかった。N紙の方は、辛うじて、遺体の発見された現場のカラー写真を掲載できたので、読み手が女湯の見取り図と比較して、実際の現場の大きさを把握しやすいだろうと思った。

 コンビニを出て、猪里警察署に車を飛ばした。朝から「サツ回り」だ。

 新人時代を思い出す。

「N新聞社会部の門倉久野と申します。よろしくお願いします」

 久野は、庁舎から出てきたスーツ姿の刑事を捉まえ、頭を下げて名刺を渡した。

「新入りさんか。おなごに務まるかな」

 さっそく相手の刑事から皮肉の先制パンチを見舞われた。相手は涼しい顔をして、こちらに名刺を渡した。猪里警察署刑事課課長 警部 島谷銀次、と書いてあった。

「島谷部長、ここ数日で起きた事件か事故についてお聞かせください」

「おいは部長じゃなかよ。事件の類いもなか」

「そうでしたか。とんだ失礼を」

「三時に出回る日本記者クラブの報道メモを見てくれ」

 担当の島谷課長はすげなく言った。

「それだけで済むのなら、新聞記者はわざわざ足を運びません」

 久野はむっとした。

「ほう。それで?」

 意地悪そうな島谷は、久野を試しているような口ぶりだった。

「この前の豊吉町で起きた強盗事件。あれの続報はなかですか」

「まあ、地域の小さな強盗事件じゃち、なかことはなかよ」

「なら教えてください」

「県警の発表どおりじゃち。犯人の動機はありふれたもんじゃ」

「それだけですか」

「だから、発表したとおりじゃと言うとろうが。副署長から聞いとりゃせんかい?」

 それからも最初の一年はサツ回りがつづいたが、第一印象で心よく思われなかったせいか、島谷は苦手な相手になってしまった。もちろん、これまでのN新聞と猪里署とのパイプは保てた。ただ、一年目でもあり、個人的に島谷警部は強面の刑事に映った。

 結果的に、サツ回り初体験は、島谷刑事にいいようにあしらわれたのだった。

 あの島谷は腕利きの刑事で県警本部に異動になったと聞いたが、はたして彼のような敏腕を連れてくる事態に発展するのだろうか――。

 久野は新人以来の島谷との再会を待ち焦がれているような、逆に会いたくないような気持ちになった。

 猪里署に着いたら、昨日の水死体の死因や状況などを細かく訊ねてみようと思った。久野の推理では、遺体はビニール袋に入れられていた事実からすると、別の場所で気絶させて運び込み、衣服を脱がしてビニール袋に詰め込んで湯船に放置した。もしくはなんらかの事情があり、脱衣所で少女が服を脱いだときを襲って殺した。そして、服を隠すか持ち去って、遺体をビニール袋に入れて浴槽に浮かべた。

 ドライアイスで中毒死するとは知らなかったが、アイスクリームが溶けないように袋などに入れる日常から考えて、もしかすると死亡推定時刻をずらすための巧妙な細工であったのかもしれない。そう推理した。

 猪里署に着き、車を停める。

 飯野は庁舎の前で待っていた。

 飯野が、

「川畑さん。そのカーディガン、表裏が逆です。背中にタグが見えちょります」

 彼の指摘に、久野はしまったと思った。急いでいて、薄手のカーディガンの表裏をよく確認しなかった。口を結んだままの笑顔で飯野の肩を手ではたいた。心中で呟く。もう、いやだわ、と。

 駐車場の車から降りてカーディガンを着直し、しばらく時間を潰していたら、安全課の長里が出勤するのに出くわし、久野は声を掛けた。

「紹介します。社会部一年目の新人、飯野です」

「飯野と申します。よろしくお願いします」

 飯野は名刺を差し出した。相手は一瞥し、あらためてじろじろと眺めまわした。

「記者会見でさっそく質問したんだろ?」

 長里の耳にも入っていた。

「ええ、新米でもそれぐらいは」

 飯野は少し遠慮気味の様子だった。

「ところで、昨日の事件ですが」と前置きして、飯野は、「昨日の少女の水死体の死因はほんとうにドライアイスによる中毒死なんですか」

「いま捜査中だが、昨日も刑事が言うたように、首を絞めて意識を失わせっせ、ドライアイスの入った袋に詰めっせ、中毒状態で殺害したとみちょる。死因はまだ不明だ。新しかことはなんもないち」

「昨日の記者会見どおりですか。被害者に関することは新聞にも少し出ちょりましたが」

「ドライアイスに関しては、袋を科捜研で鑑定中らしい。何グラムのドライアイスで人体に悪影響を及ぼすのか、稲和県警の科捜研で実験している。まだ死因は特定できとらん。

 分かっとるんは、遺体の傷と、氏名と年齢、住所だけだ。捜査本部で知っとることはそれぐらいだ」

「それと卓球部」

 飯野は付け足した。

「ああ、そうじゃったか」

「脱衣所に卓球の道具や練習着などの持ち物やかばんは見つからなかったとですか」

「さあな。見つかっておらんと思うが」

「捜査本部が置かれたっちゅうことは、早い段階から殺人のセンで見ちょったっちゅうことですか」

「どうかな。何とも言えんが、ああいう自殺の方法はなかろうが」

「長里さんの安全課からも、五人前後は捜査本部に人をだしちょるでしょう?」

 久野が口を挟む。

「まあ、そうだな」

「容疑者の訊き込みはどの程度進んじょりますか」

「まだ二日目の朝が始まったばかりじゃ。そうやすやすとは目撃情報も集まらんじゃろて」

 長里は推量めいた、遠回しの言い方をした。久野はさらに食い下がった。

「ほんに大胆な犯行でしょうが。裸にすると指紋はつかんが、被害者を裸にするとき周囲に怪しまれなかったやろか。どうやってドライアイスを入手したんじゃろか。大きなビニール袋に相当量入れないと中毒にはならんじゃち思いますが」

「知らん、知らん。専門的なことは鑑識課か科捜研の人間に訊いてくれ」

 長里は顔の前の蝿を払うように手を振って、庁舎の中へ消えてしまった。

 久野は飯野に自分の考えを述べた。

「わたしは、犯人は顔見知りかもしれんと思うちょる。中三にもなって、見知らぬ人に首を絞められそうなとき、ふつうは抵抗するか、なにか証拠を残すか、振り切ってすぐにでも携帯で電話すると思うがね」

「あたいはそうともそうでないとも言えません。犯人が市民なのかそうでないものなのかも見当がつきません」

 ふと、久野は市民でないものと言われ、昨日拾った旅の女を思い浮かべた。まさかな、と思い直した。連休を利用して旅行する人は大勢いる。疑ってもきりがない。

 それに、あの絵美という若い女は、久野らに拾われてからずっと四時まで行動をともにしていた。電話ぐらいはできたとして、首を絞めたり、三時から四時のあいだに気絶した被害者をビニール袋に入れて中毒死させたりするような暇などない。

 早い話、絵美には二時半以降のアリバイがあった。徳広の答えた時刻が耳に残っていた。

 けれど――ドライアイスという小道具がアリバイに絡んで、二時半以前に気絶させ、徐々に中毒状態で死に至ったとするならばどうだろうか。

 あれこれ考えながら、ふと事故現場に寄らねばならないのを思い出した。陽菜乃の中学校に寄る前に、沖本家に寄って情報を得ようかと思ったが、いまごろは葬儀の準備に追われて対応する暇もないだろうと思い、渓山荘へ車を走らせた。飯野も車でついてきた。

 渓山荘に着いたのは、午前九時四五分ごろだった。雨の中、傘をさして献花に訪れる近所の人々がいた。

 久野は車を路肩に停め、ドアを開けた。

 朝、庭で摘んだ、赤や黄色、白色の花々を渓山荘の門柱に添えて首を垂れ、両手を合わせて故人の冥福を祈った。

 黒いネクタイとスーツ姿の飯野も、目をキュッと閉じ、数珠を握って拝んでいた。

「飯野くん、これから陽菜乃さんの中学校へ行くわよ」

「話ば訊きに行くとですか」

「当然でしょ?」

 二人はそれぞれの車に乗り込み、中学校へ向かった。

 被害者の陽菜乃さんのいた猪里市立第二中学校に着いたのが、午前十時だった。鐘楼の鐘が一〇回鳴るのを聞いた。

 学校は祝日でがらんとしていたが、事件の対応もあり教頭が出迎えてくれた。教頭は応接室に飯野と久野を通した。応接室で飯野から口を開いた。

「N新聞の飯野です」

「川畑です」

 二人そろって名刺を差し出し、頭を下げた。

「教頭の森下です」

「ほんに、この度はお悔やみ申し上げます」

 飯野が頭を下げ、久野も一礼する。

「恐れ入ります。被害者の両親もたいへん悲しまれ、言葉にならないと」

「こげなことが起きて恐縮ですが、沖本陽菜乃さんについて少し訊かせてもらいたいのですが」

 飯野が切り出した。

「沖本陽菜乃は一五才で本校の中学三年生。成績は中ぐらいでした。卓球部の部活を熱心に取り組んでいたと顧問の先生から聞いちょります」

「それで、当日は顧問の先生と一緒に帰ってきたのですか」

「卓球部の生徒らは、朝から他校へ移動し、公式戦をおこないました。先生は試合後バスで南町まで同伴し、バス停で生徒らと別れました。用事があったので集団で帰れと言ったちゅうて」

「なるほど。卓球部の仲間同士で帰るとき、陽菜乃さんはだれと一緒でしたか」

「警察にも同じことを言ったとですが、ちょっとそこまではまだこちらも把握しとらんで」

 久野は質問を変えた。

「陽菜乃さんと仲のよかった生徒か、卓球部員の話を聞けますか」

「きょうは昨日と違い、祝日なので自宅にいとるでしょうな。話を訊くには、生徒の親御さんに学校から連絡を入れて承諾を得ないとならん。じゃっどん、友人が死んじょりますけん、普通の精神状態ではなかでしょう。とても話にならんと。お察しください」

「では、陽菜乃さんの葬儀の後にでも話を聞けますか」

「さあ、わかりもはん」

「わかりました。では失礼しました」

 久野はあっさりとその場を切り上げ、行くわよと飯野の袖を引っ張った。

 校門を出て近くの駐車場まで歩きながら、飯野が話しかけてきた。

「川畑さん。いつものように食い下がらなくてよかですか」

「だってゴールデンウィーク中で、友人が昨日殺されたのよ。取材できる状況じゃなかよ」

「そげんこつはわかりもす。じゃっどん、なんか死亡に関連した新しか続報を探さにゃ、記事にはならんとでしょう」

「あんた、ベテランに説教する気?」

「いやあ、そんなつもりは」

 飯野は気の強い久野にたじろいだ。

「サツ回りよ。被害者の通夜にはわたしが出席して様子を探るから、飯野くんは猪里警察署に張りつくの」

「わかりもした」

 新人の飯野は久野の命令に首をたてに振った。

 駐車場でお互いの車に別れて乗り込み、飯野は警察署に向かった。

 警察の方は飯野に任せ、久野は違う角度から手掛かりを探ろうと考えた。ドライアイスだ。ドライアイスの入手ルートが事件の早期解明の糸口になるかもしれない。

 いまのところ、警察も首を絞め意識をうしなわせたのちに、ドライアイスの袋に入れて中毒死させたと見ている。首を絞めただけでは死なないということまで計算済みだったのかどうかわからないが、保険をかけてドライアイスまで用意した。犯人は相当に慎重で完璧を求めるタイプだろうなと踏んだ。

 ドライアイスのことを調べようとしても、すぐにはわからない。経験豊富なおばさんのコミュニケーション能力の出番だわと思った。知り合いの肉屋のおじさんがいる。

 南町の商店街にある肉屋に向かった。

 シャッターの閉まっている商店街の中で、朝から肉の焼ける香ばしいにおいがする。肉屋の前に来た。

「おじさん、お早う」

「Qちゃんか。お早う」

「朝からだけど、コロッケ一つちょうだいな」

「分かった。いま揚げるからね」

 ジャーっと揚げ油の撥ねる音がして、パン粉の付いたコロッケがあっという間に狐色に染まった。

「はい、コロッケ一つ。熱いから気を付けて」

「ありがとう。はい、お金」

 久野はコロッケを白い包み紙ごと受け取り、代金を大将に渡した。

「ところで、訊きたいことがあるんだけど」

「なんだい、Qちゃん」

「ドライアイスって使うちょりますか」

「ドライアイス? ああ、うちでは使わんけど、食品工場なら使うちょるねえ」

「教えてもらえると助かるのよね」

「えーと、待てよ」大将はいったん奥に下がってから、取引先の業者リストをパソコンで調べ出し、「あった、あった。丸山食品。ここの北S工場が大きいし、たぶんドライアイスも扱っちょるよ。電話は、〇九九四(××)××××」

「ありがとう。恩に着るわ。また、お酒を奢ります」

 礼を述べ、久野は北S工場の電話番号をメモした紙を手に、車に戻った。ドアを閉め、エンジンをかける。さっそくカーナビに電話番号を打ち込み、北S工場までの道のりを表示させた。


   *


 捜査本部の刑事は、ドライアイスを扱う丸山食品の工場に向かう車内で、

「いけんじゃろ。まだ調査中じゃが、首を絞めた跡が薄か」

「そげん思います」

「あたいは、被害者の死因は絞殺によるものじゃなく、高濃度の炭酸ガス、早い話、ドライアイスが風呂の熱で急に溶かされたことによるんではち思うちょる」

「まあ、ドライアイスが危険かどうか、専門の業者に訊ねてみましょうよ」

 しばらくして、パトカーは丸山食品の北S工場に到着した。

 さっそく刑事は担当者に会い、訊ねた。

「昨日、南町で少女が湯船で変死しました」

「テレビのニュースで知っとります。おどろきもした」

「率直にうかがいますが、ドライアイスが溶けると人体に危険ですか」

「はい。ドライアイスは短時間で溶け切ると、七五〇倍の容積に増えます。場合によっては、密閉された空間などでは中毒死に至るときもあります」

「失礼ですが、少女が入っていたビニール袋から高濃度の炭酸ガスが検出されました」

「それで?」

「おそらくドライアイスをなんグラムか犯人が混入したと思われます」

「つまり……」

「業務用のドライアイスをおたくで管理していると思うのですが、在庫がなくなっていないか知りたいのです」

「うちでは冷凍食品用と水産物用の輸送に使うちょります。いま、係の者を呼んで調べさせますので、しばしお待ちを」

 担当者は席を外し、歩いて別の人間を捉まえ、耳打ちをした。

 一〇分もたったころ、担当者が戻ってきた。

「この一週間で調べたところ、在庫はいつもどおりの数量を使っただけで、特になんグラムがなくなっていたということはありませんでした」

「そうですか」

「あの、私どもと事件がなにか……」

「特に関係しているとは思っておりませんので。念のための確認です。では」

 刑事らはその場を辞去した。

 広い構内を歩きながら、刑事は、

「どういうことでしょうか」

「いいか。死因はドライアイスで当たりだ。これから正規ルート以外をあたる」

「と言いますと?」

「ネットだ。ネット通販なら、こんな大きな工場の中に侵入して盗まんでも、やすやすとドライアイスが手に入るち」

「なるほど、そうですね」

「あそこに寄ったのは、人体に危険かどうかを確かめるためだ」

「たしかに」

 別の刑事は合点がいったと見え、大きく頷き工場の門へ引き返した。


   *


 ルートどおりに車を飛ばして、着いたのが一一時前だった。隣の市なので鐘楼はさすがに聞こえてこない。

 現場に着いた。門の脇にある守衛室に用件を言い、中に入るための入館証を首から下げた。砂利道を歩いていると、向こうから刑事らしきスーツ姿の男二人が歩み寄ってきた。

「なんだ、どっかの記者か。入れ違いだな」

「どういたしまして。N新聞の川畑です。わたしは記者なりに訊きたいことがあるけん」

「くれぐれも捜査の邪魔だけはせんでくださいよ。こちらは被疑者確保に一刻を争っちょるんですから」

「ベテランなのよ。それぐらい知っちょります!」

 フンと顎を横に向け、久野は刑事らの脇をすり抜けて工場の中へ入った。

 入り口で渡された帽子とマスクを着け、取材の担当者が来るのを待った。

 だだっ広い工場は、床が緑色に、壁と天井は薄いクリーム色にペンキで塗られていた。機械が整然と動き、ベルトコンベヤーの脇に人がまばらに立って作業をしていた。

 しばらくして工場内の明るさに目が慣れてきたころ、担当の係長がやって来た。

「初めまして。N新聞の川畑と申します」

「北S工場の大上です」

 二人は頭を下げ、名刺を交換した。

「さきほど警察の方々がお見えになりまして」

 大上は言った。

「たぶん同じ用件になるでしょう。例の殺人事件のことです。ドライアイスが使われた形跡があるらしくて。それについて話をお伺いしたいのですが」

「刑事さんにも話したことですが、ドライアイスは溶けると七五〇倍の容積になり、中毒死に至る有毒ガスです。業務用のドライアイスはうちの商品の場合、冷凍食品と水産物などの保冷輸送に使うちょります」

「それで在庫が減っていたということはありませんでしたか」

「それはなかとです。昨日も今朝もちゃんと数量は確認しましたし、この一週間での増減は予定どおりです」

「ドライアイスの仕入れに関して、一般人も入手できるものなんでしょうか」

「さあ、そこまでは。ネット通販でも少量ならできると聞きますが、うちでは利用したことがないとです」

「ネット通販か……。分かりました。あいがとごわした」

「昨日の水死を調べちょるんでしょ? 早く犯人が捕まるとよかですね」

「ほんにそのとおりです。犯人は頭が良さそうなので不気味ですよ。では失礼して」

 工場を出てクラウンに乗り込んだ。ネット通販という手を使われたら、一般人には特定が難しい。警察のサイバー班以外は、購入者情報を開示できないだろうなと思った。


   *


「豊吉町の畑の畦道で見慣れない女が倒れてるわよ。気の毒ね。今は一一時ね」

「もしもし。きさまが殺したのか」

「殺したのかしら。わかんないわ」

 プツリと電話は切れた。

 電話が猪里警察署にかかってきたのが、午前一一時のことだった。鐘が一一回鳴った直後だった。またしても遺体発見の電話だった。事実上、犯行予告とみなしてもよかった。

「まったく犯人め。大胆なやつじゃち」

「こんども女の声でしたか」

「じゃっど。わけ声じゃった。とにかく、大至急、豊吉町付近で遺体を探せ。事件だ」

 昨日のつづきと見て、捜査一課の刑事たちはどやどやと署を出てパトカーに乗り込んだ。


   *


 飯野の方の動きが気になった。なにかあったか訊こうとして携帯を出したタイミングで、着信を知らせる電話が鳴った。まるで以心伝心のように。

「川畑さん、たいへんです」

「いけんした?」

「次の事件が起きました。いま現場へ向こうちょります」

「どこで起きたの?」

「ああ、すんもはん。豊吉町四一〇番地。大きな一本杉のたもとです」

「わたしもいまから行くから」

 北S工場から豊吉町までは方角が正反対だった。してやられたと思った。

 三〇分ほどで車は南町に入った。もう昼だと思った矢先に、鐘楼が一二回鳴り響くのが耳に入った。

 昨日の警官の会話を思い浮かべた。遺体発見の電話が鐘楼の鳴る時刻に合わせて届くのなら、一一時に電話が警察に――。

 そのとき、久野は犯行現場と反対方面の北S工場にいたのだ。振り回されている気がした。こんな大事件は初めてだった。社会部にいた当時の十年間で自殺や他殺は片手で数えるほどしかなかった。

 それなのに、昨日と今日とで連続して事件が起きてしまった。大都会か推理小説の世界にいるようで、狐につままれているようだった。

 わたしが落ち着かないと。飯野がちゃんと仕事するように支援しなければならない。そう自分に言い聞かせた。

 南町を抜け、豊吉町に入り、二〇分ほどでようやく殺害現場に辿り着いた。

 付近には民家が数軒点在するだけで、ここも南町の外れ同様、田圃や畑の広がる農村地帯だった。

 大木が一本、目の前にあった。そこに捜査員と思われる警官たちが群がっていた。制服を着た警官数人、スーツ姿の刑事らしき人物が三人、カメラを構えたり指紋を採取したりしている制服を着た鑑識課の警官が数人いた。野次馬が遠巻きにして、少しだけいた。

 立ちすくんでいた飯野に歩み寄り、訊ねた。

「現場の写真は撮れた?」

「撮りました。見えてるでしょう? あの大木の太か枝に吊るされちょったちゅう話です」

「その話、だれから聞いたの?」

「第一発見者の町民からです。まだ警官に囲まれてくわしい事情ば訊かれちょります」

「大木に吊るされた。死因は何かしら?」

「さあ。首に縄を巻きっせ、吊るされちょったとが、枝が折れ、縄も切れたらしいです。遺体は女。それ以上は分かりもはん。

 おいが到着したときには、すでにブルーシートが掛けられ規制テープが張られちょって。許しを得て、枝の折れた木の写真だけは撮らせてもろたどん」

「とにかく、現場の状況と遺体の様子をもちっと詳しく警察に訊かんとね」

「承知しもした」

 久野は発見者が刑事らから解放されるのを待って、野良仕事の作業服を着た町民を捉まえた。

「N新聞の川畑と申します。二、三訊ねたいことがありまして。お時間よかですか」

「はい。少しなら」

「現場で遺体を見つけたのは何時ごろですか」

「十時半です。おいが農作業を始めたときで、腕時計で確認しちょりました」

「そのときはお一人で発見されたのですか」

「はい。おいは人が死んでいるのを見かけただけで」戸惑いを隠せない純朴そうな農夫は、「最初は首吊り自殺かと思いました」

「それはなぜですか」

「大木の枝に縄がかけられちょったから」

「遺体は木の枝にぶら下がったままでしたか」

「んにゃ。地面に落ちとりました。枝が折れ、縄が切れて首に巻きついて」

「つまり、体重に耐えられずに枝が折れ、はずみで縄も切れ、遺体が落下したと」

「そげん思います」

「死体だと思ったのは何を見て?」

「なんもかんも息をしちょらんかったとです。口の周りにはすえた臭いがして嘔吐物もあって」

「わかりました。遺体はどんな女でしたか? 服を着けてましたか」

「いまはブルーシートがかけられちょりますが、服は着ちょりました。死体は、首がだらんとして力なく、手足もだらんとして……。ああ、恐ろしか」

「落ち着いてください。大丈夫ですから。犯人はあなたを狙うことなどないですよ」

 根拠はない。とりあえず宥めた。

「ほんに恐ろしかです。見たときは失禁しそうになりもした。ほんにもひたあ」

「もひたですね。昨日は南町、今日は豊吉町で死体が見つかるなんて。N新聞始まって以来の難事件ですよ」

「記者さんはほかにはだれを取材するとですか。おいの話も新聞に載るとですか」

「ほんの一行足らずですよ。住所や名前は載りもはん」

「ならよかです」

「遺体の女性に心当たりはありますか」

「さあなあ。派手な服装じゃち、ここらの人間ではなかち思いますが。近くにポーチっちゅうんですか、小さなかばんが落ちてたっちゅうて警官が言うちょりました。パスポートがいけんしたとかこげんしたとか」

「パスポート?」

「んだよ。日本人じゃなかかもしれもはん。アジア系、中国人とか韓国人とか」

「どんな服に見えました? スカート履いちょったとか、赤い服とか」

「ああ、確かに赤い服でした。下はズボン。青いジーパンでした」

「わかりました。ご協力に感謝いたします。またなにか思い出したことがあれば、この名刺の番号までご一報ください」

「へえ」

 久野は飯野を捜した。警官の話をメモしている姿が目に入った。彼は携帯画面を見つめて手早くなにか文字を打っている様子で、忙しそうだった。

 野次馬のおじさんを捉まえてみた。ちょうど鐘が一回鳴り、午後一時を知らせた。

「死んだ女性についてなにか知っちょるとですか」

「んにゃ。あげん派手な色を着る若いおなごはこのあたりにおらんち。よそもんじゃなかか。昨日の事件とはまた違うでよ」

「やはりそうですか。発見者の方の証言では、パスポートを持っていたち言うんですが」

「アジア系の観光客じゃろだい。この近くに民宿があるでよ。そこの客じゃなかかちゅう話をみんなでしもってたところです」

「民宿の客ね。そげなら外国人でもおかしくはなかですね。その民宿の名前と住所はわかりますか」

「住所は忘れたどん、同じ町内で、『あおば』ちゅう民宿やったげな」

「じゃっど。そこだけが唯一の民宿じゃが」

 もう一人のおじさんも口を挟んだ。

「そげんこつなら、わたしは『あおば』に行ってみます。ありがとやした」

 一礼して、久野は現場にいる飯野に指で方角を指して合図を送り、車に乗り込んだ。ドアを閉め、エンジンをかけ、カーナビで「豊吉町 民宿あおば」とパネルにタッチする。すぐに一件ヒットした。『あおば』は、ここから四〇〇メートルほどのところにあった。歩いても行ける。クラウンを道に出してすぐに『あおば』という看板を見つけた。

 ごく普通の一軒家に映った。宿の主人がいるかと呼び鈴を鳴らすと、エプロン姿の女が出てきた。

「ここの民宿の女主人様ですか」

「ええ、高橋峰子といいます」

「高橋さん。『あおば』に泊っているお客様でトラブルに巻き込まれた人は知りませんか」

「あのぉ、どちらさまで」

「申し遅れました。わたしはN新聞で社会部記者の川畑といいます。この近くでアジア系の人が亡くなりました」

「もひたあ。もしかしてあの中国人の」

「ご存知なんですね?」

「ええ。昨日までうちにお泊まりになられていた中国からの旅行者がいて。李さんと楊さんの女二人連れなんですが」

「それを知りたかったんですよ! 赤い服を着ていたのはなにさんですか」

「ええと。ちょっと気が動転して……。一緒にスマホで写真を撮ったのを見せましょう」

 高橋はスマホを取り出し、食卓の後ろで撮った三人の写真を見せた。

「右に写っているぽっちゃりした方が李娜さん。赤い服ですね、たしかに。隣にいる、髪が腰まであるのが楊若溪さんです」

「お二人の年齢は?」

「えーと。二八と二九です。李さんが二八」

 それから二、三訊いたあとで、

「まことに申し上げにくいのですが」そこで言葉を切って続けようとしたとき、呼び鈴が鳴った。すみません、と高橋は言い残して玄関を開けた。

 刑事が写真入りの警察手帳を見せ、立っていた。

「こちらは猪里警察署のものです。お訊ねしたいことですが……」

「かちあいましたね。わたしもいま訊いているところなんですよ」

「ここから少し行った畑の木で首吊りがありました。パスポートから李娜さんと分かりました。昨日この宿に泊まったとのことですが、そのときの様子をお訊きしてもよろしいでしょうか」

「李さんが自殺?」高橋は訊ねた。

「わかりません。他殺の可能性もあるとみてます」

「香港からいらした二人連れの一人なんです。二泊三日の予定でした。今朝チェックアウトされたばかりです」

「ほう。興味深い。日本語はどの程度喋れましたか」

「ふたりとも片言です。挨拶ぐらい。英語が通じなくて、李さんは少しイライラした様子でした」

「二人の中国人ですが、この一日でなにか変わったことやトラブルに巻き込まれたようなことはなかったですか」

「お互い早口の中国語で会話をなさるので、正直よくわかりません。表情は明るくて、とくに目立ったトラブルもなさそうでした」

「わかりました。あいがとごわした」

 刑事は一礼して立ち去っていった。残された久野は、

「日本に観光に訪れて自殺する人なんてまずいないですよ。相棒の楊さんは今どこに?」

「さあ。宿を出るときは、福岡に行くと言っていたので、てっきり稲和空港に向かったと」

「わかりました。楊さんを捜してみます。もし楊さんの足取りがわかったらこの名刺の携帯にご連絡ください」

 久野は名刺を渡した。

「困りましたわ。うちの民宿に泊まられた方が亡くなるなんて」

「ご気分は悪かとでしょう。李さんのご冥福をお祈り申し上げます。では失礼して」

 久野は辞去し、表に停めたクラウンに乗り込んだ。飯野に電話を入れる。

「飯野くん。遺体発見の電話は今日も警察に届いたか確かめた?」

「確かめもした。一一時きっかりに猪里警察署に掛かってきたそうです」

 久野は高橋から聞いた事情を飯野に伝えた。

「これからわたしがそっちに行くわ。合流して、二人で相棒の楊さんという名の中国人旅行者を捜しましょう。事件に関係しているかもしれないわ。ちょっとデスクに電話を入れとくち」

「承知しました」

 飯野が言い終わるとすぐ電話を切り、アドレス帳から中平の電話番号を探して、その携帯番号に電話を掛けた。

「デスク、事件です」

「またか」

「はい。今日は、香港から来た女の旅行者が、首に縄を巻かれ大木に吊るされ、地面に落ちちょったらしいです」

「昨日の水死体と関係はあるのか」

「まだわかりもはん。他殺と決まったわけでもなかとです。連れの女の旅行者をこれから捜しに行きます」

「そうか。飯野くんはいけんしちょる?」

「現場にわたしと居ます。デスク」

「なんじゃ、Qちゃん」

「犯人は案外近くにいるのかもしれません」

「ほんとうか? 近くちゅうたらどのへんじゃ?」

 中平デスクの声は色めき立っていた。

「わかりません。これは女の勘ですが、犯人は女で、男を従えて殺人を実行しているような気がします」

「なぜそう思う?」

「だって、不自然なんですよ」

「どのあたりがじゃ?」

「もし昨日と同一犯だとしたら、少女や旅行者を相次いで殺すでしょうか」

「二件目は旅行者――。そう言われればそうかもしれん」

「連続殺人に見せかけて、ほんとうに憎んで殺したい人物を最後に持ってくる。もしわたしが犯人だったら、そうするでしょう。それに、被害者の性別も年齢層もばらけた方が容疑者を絞りにくい」

「それで?」

「そもそも凶器が見つからない殺人ばかりで、ナイフなり包丁なりの刺し傷が被害者に見当たらないのが気になるんです。いわゆる小説やテレビに出てくる殺人と大きく異なっている点です」

「とにかく、二件目の事件が起きたのは間違いない。飯野に原稿を送るのを忘れんように言うてたもんせ」

「もちろんです」

 そこで電話を切った。久野は自分なりの推理を喋り、車を出してすぐに事件現場に戻った。それぞれの車をそこに置き、周辺で片言の日本語しか喋れない中国人のことを訊ねて回った。

 すると、狭い集落のおかげか、目撃したという反応があった。別の農婦から、

「その中国人なら泣きながらエポットとかいうてわたしらに訊ねてきたじゃが、エポットってなんねちゅうて訊ねたどん、首を振るばかりで」

「わかりました。たぶんエアポート、空港へ行きたかったんでしょう。事件の重要参考人じゃっち警察も捜しちょります」

「じゃったら、空港へは行けんとその辺をうろついている可能性が」

 飯野が口を挟んだ。

 農婦に礼を言い、二人は手分けして楊さんの足取りを追った。楊さんは二九歳で、白いTシャツ姿に赤い口紅をつけている。そう聞いていた。それだけでも豊吉町に昼間ふらふらしている若い女を捜すのはたやすかった。

 二〇分後、ティーシャツ姿の若い女が、道端の石に腰掛けて下を向いているのを見つけた。

「飯野くんが英語で喋りなさい。なぜ、李さんは死んだのか。犯人はあなたですかと」

 促された飯野は、英語と身振りで伝えた。犯人という単語を翻訳できず、ナイフで刺すジェスチャーになったのが滑稽に映った。

「『相棒と連絡がつかないので捜したら、地面に倒れて死んでいました。犯人は私じゃありません。早く国に帰りたい』と。どうも死体に関わってなさそうな気がします」

「じゃあ、李さんが死んだとき、どこにいて、いつ李さんの遺体を見つけた……」

 そこまで言いかけて、邪魔が入った。

「記者さんはそこまでだな。あとは警察が訊ねる」

 先程の刑事が追いついた。

「警察署に一緒に行って取材を続けなさい。午後二時までに原稿を書いて、わたしの携帯に送信して」

 飯野にそう伝えて、二人は車を置いた現場まで戻った。久野はもう一度現場を見てみようと思った。木の枝が折れたのが気になっていた。ぽっちゃり目の女でも大木の枝が折れるだろうか。やはり他殺。それも男だろうか。相当な力で引っ張り上げないと空中に浮かないはずだ。そう推測した。

 現場に戻ると、久野のクラウンと警察のパトカーの二台きりになっていた。鑑識課の警官も刑事もいなかった。まだ若い巡査らしき制服の警官がぽつんと二人でブルーシートを見張っていた。

 大木の折れた枝を見上げた。鍛え上げた男の二の腕ぐらいはある。あれが折れたのだ。ぶら下がって折れたのか。規制テープは大木とその向こうに広がる畑まで張られていた。

 畑になにがあるのだろう。野次馬になったつもりで畑に行ってみた。

 そこに証拠があった。鑑識もきっとカメラに収めたはずだ。馬の蹄鉄の跡が点々とついて、大木の手前の畑から果てしなく向こうまで続いていた。

 馬だ。馬が被害者の首の縄を引っ張って木の枝まで吊るし上げ、最後に枝と縄が切れたんじゃ――。

 名探偵のような高揚感が頭を駆け巡った。遺体発見の知らせがあったのと結びついて、昨日と同一犯の連続殺人事件じゃろと合点がいった。それがどういう動機かはわからなかった。昨日は女子中学生が、今日は香港からの観光客が狙われた。共通点はどちらも女であることだ。

 名探偵――ふと弘子の顔が浮かんだ。

 加瀬親子と映画館で出会ったのは、二年前の四月の半ばだった。ちなみに、弘子とは何年も前から二人でよく昼間の取材の空き時間に約束し、時間を決めて会っていた。

 その時期に封切られた、何年もつづけて人気を博しているアニメ映画を観に、車で映画館にやってきた。予約していたチケットの代金を機械で払い、ポップコーン一つに飲み物二つを買い込んだ。

 いざ入場して席に着いたら、偶然前の席に加瀬一家が座っていた。

 館内でべちゃべちゃ喋るわけにもいかず、映画が終わるまで声を掛けるのを遠慮した。映画が終わり、天井の照明が点いてから、

「弘子さん、こんにちは」

 と久野が弾んだ声で合図した。

「また会いましたね」

 弘子も手を振り返した。二つの家族は退場口から出て、ショッピングモール内で食事をともにした。

「映画おもしろかった?」

 弘子は徳広に話しかけてきた。

「うん、とっても。このシリーズ好きだし、残酷なシーンもなくて楽しめるから好き」

「まあ、そうなの。好きなのね」

「わたしは残業や土日の出勤もあって見られないときが多いけれど、だいたい一話か二話完結のテレビアニメだし、見ていて安心感があるのよね」

「そうね。安心感もあるし、毎回趣向を凝らしてますよね」

 弘子も『名探偵アガサ』のファンのように答えた。

「息子はアガサの漫画本をたくさん持っていて、ときどき借りて読むの。とっても面白くて、たまってる家事のことを忘れるほどよ」

「わかるわ。大人でも、へえー、と思うような目の付けどころがありますよね」

「あとになると、犯人しか知り得ないような都合のいい状況説明もあるけど、推理の解説を急がないのがいいのよね。言われてみればそう描いてあったって納得する。ちょっと笑える場面も必ず入れてあって」

「飽きさせない工夫が施されています。うまく言えないけど」

「主人公が子どもなのに高校生の脳で推理するギャップも面白いわ」

「映画やテレビアニメ全般にいえるけれど、主人公は成長しないで、観客の方が気づくと年を重ねてますよね。このシリーズもずいぶん長くなったし」

「ほんとねえ。息子もこのあいだ小学校に入ったかと思ったら、もう卒業して中学校に入るでしょ。子どもの成長は早いわよね」

「徳広くんの卒業式には出られました?」

「ええ。その日は仕事をうまく調整して、スーツ姿で息子の晴れ舞台を見に行ったわ。卒業の歌を聞いて泣けてきたわよ。自分のときの卒業式と重ね合わせて思い出して」

「写真、撮りました?」

「もちろん撮ったわ。校門の前に徳広を立たせて一枚と、父兄の知り合いに頼んで、親子で並んだ姿を一枚」

「どんな気持ちでした?」

「それはもう、わたしの胸は一杯で。小四のとき夫が亡くなったでしょ? だからなおさら、子どもが無事に卒業していくのが感動的でね」

「たいへんだったでしょうね」

「そう、たいへん。わたしの人生、山あり、谷ありよ。すでに」

「ところで今日の映画、いけんでした? このアニメシリーズ、大人も楽しめますよね?」

「映画の話から逸れてたわね。『名探偵アガサ』の推理には毎回感心しちゃうわ。今回の謎解きも意外で、犯人の些細なミスに気づいて論理的に追い詰めて自供を促す場面は圧巻だったわ」

 久野の感想に、ふんふんと小さく首をたてに振りながら、弘子は、

「アガサちゃんの名探偵ぶりも板についていて、うちのお姉ちゃんも、『ママ。あの無口で真面目そうな男が怪しい。見た目や職業の派手な人たちは目立つし、途中までは犯人かもと思わせておいて、状況がはっきりしてくるとだいたい犯人の候補から外れていくパターンなのよね』なんて、ませた口をきくんです」

「よくアニメシリーズを見つづけている証拠よ。子どもの探偵という設定の目線は、大人に対する偏見や先入観がなくて新鮮なのよね」

 そのテレビアニメ談義をひとしきりしてから、久野はいつものようにあとから注文したロイヤルミルクティーを啜った。

「きょう観た映画は、大人びたミステリーの部分といつもの殺人の推理があって、どちらも楽しめたわ」

「ほんとですよね。ふつうなら気付かないようなトリックを見破るんだから、作者はすごい洞察力と観察力をお持ちで、小さなことを突き詰めてミステリーにしちゃう人なんですかね」

「そうなのかもね。わたしなんか、あのヒントってなんだっけって、見終わってから息子に確認しているありさまよ」

「だれが観ても納得いくように作り込んでますよね」

「そうなの。きょうの映画でも感心したけど、シリアスな場面に子どもらしい描写も混ぜながら大人の裏事情を垣間見せているというか。流行も取り入れながら、観る側の疑問点にしっかり答えているところがわたしは好き」

 喋った中身は半分以上忘れてしまったが、その日観た映画の筋で、犯人が、計画的に狙った殺人と行きずりの殺人の二つを巧みに使い分けていたのだけはくっきりと頭に刻んだ。まさか、その印象が今回の殺人事件の推理に活かせるとは思ってもみなかった。

 弘子と家族ぐるみで付き合ってきたことで、大型連休に起きた殺人事件のヒントを得た。そうだわ。カムフラージュの殺人が起きているに違いない。本命の殺人とは別に。

 時間があったので、現場付近の家を訪ねて回った。あるおばさんから重要な証言を聞けた。

「わたしはN新聞の記者をしちょります。この近くで女の外国人旅行者が一人亡くなったのですが、なにか存じ上げませんか」

「あの旅行者け。噂によると、英語が通じなくて困っちょる様子だったでな」

「他になにか覚えていることはありませんか」

「現金しか使えない店が多いちゅうて、不平ば並べていたそうな」

「なるほど」

「あげん人は、寺で騒いで境内にゴミを捨てて帰ったとかいう話も聞いたち」

 あくまで聞いた噂としても、重要な話だった。

「あいがとごわした」

 久野は頭を下げ、礼を述べてその場を去った。

 ノートに訊いたことを素早くメモした。

 あとは飯野からの連絡待ちだ。警察から上がった情報と現場の様子を原稿に仕立て上げる。猪里市始まって以来の特大スクープになると思った。なにしろ、二日続きで起きた連続事件だ。警察も舐められたもんじゃと思うと可哀相になった。

 しばらくいろいろな情報を頭で整理しているとき、遅れてM新聞の新人記者が到着した。

「これはこれは、N新聞の川畑さん。さすがにいいネタを掴んだような顔をしぃちょりますね」

「いいえ。ネタにするのはわたしでなく、新人の飯野ですから。わたしにはなにもありもはん」

 久野はライバル紙にはネタの融通など一切したことがない。

「まあ、昨日の記事はうちの勝ちです。今日の事件も他殺臭いという情報は得ているので」

「猪里警察署も脇が甘いわね。M新聞の新人にばかり情報を漏らして」

「そういう言い方は語弊がありますよ。おいはおいなりに顔見知りの刑事がいるのでうまくやっているだけです」

「うちの飯野くんも見習わんとね。こっちも負けておれんわ」

 そのとき腹が鳴り、久野はまだ昼飯を食べていないことに気が付いた。

 じゃあ失礼と言ってクラウンに乗り込み、昔の淡い思い出の詰まった喫茶店へ車を走らせた。

 喫茶店でサンドイッチを摘まみ、紅茶を飲んでいたら、飯野からの原稿がメールで届いた。

《川畑さん。以下、原稿です。

 畑の前に女性遺体 五月三日(木)午前十時半ごろ、猪里市豊吉町の畑前で、大木に中国人女性(二八)が吊るされて枝が折れて落下し、倒れているのを農夫が見つけた。服は身に着けていた。警察が駆けつけて死亡が確認された。死亡女性は香港からの観光客で、稲和県警はもう一人の連れの女性(二九)にも事情を訊ねている。県警によると、首に巻いた縄を何らかの方法で強く引っ張り、自殺と見せかけた他殺の可能性が高いとみて捜査し、死因を調べている。警察は昨日の少女変死事件との関連も含めて、引き続き容疑者の目撃情報を集めている》

「うん。可もなく不可もなくってところかしら」

 久野はすぐに感想を返信した。

《まあまあ書けている。あれから現場に戻って新しい発見もあった。記事にするときの地図は本社で用意します。これからわたしもそちらに行くので猪里署で合流しましょう》

 久野は紅茶を半分ほど残し、店を出た。車に乗り込み、一路猪里署へ車を走らせた。

 昨日に続き、同じ駐車場に車を停め、あとからやってきた飯野と落ち合った。彼はカメラを手に持ち、データを整理していた。久野は言った。

「現場の大木の写真と、李さんのパスポート用写真の二枚。それだけはちゃんとあるわね。虎の子よ。間違っても写真データを削除しないでよ。紙面に顔写真は載せないけど……」

「大丈夫ですよ。それより、もう一人の中国人女性はチェックアウトしてから別行動をとり、見晴らしのよか丘に登っていたみたいです。そのあいだに相棒が何者かに殺されて」そこでいったん言葉を切り、「くわしい話は夜に副署長から発表があるそうです。警察は連続殺人と見て、昨日の殺人との関連や因果関係も視野に入れちょりますよ」と飯野は興奮気味に喋った。

「さぞかし捜査一課もてんてこ舞いね」

 夜までのあいだ、他紙やローカル局のテレビなどが大挙してやって来た。久野は、

「ちゃんと名刺交換しときなさい。いざというときに人との繋がりが大事になるから」

 と飯野を促した。

 あちこちのメディアに名刺を配り、挨拶を終えて戻ってきた飯野は、

「捜査一課の藤宮警部補とパイプができたんですよ」

 と声を弾ませた。

「とりあえず、夜の発表まで原稿をデスクに送る以外、手持ち無沙汰ね」

「そうですね」

「夜に発表の意味は分かる?」

「どういう意味がありもはんか」

「だからね。遺体の身元確認や、指紋や毛髪なんかの証拠と犯罪者のデータとの照合作業をしているのよ。もちろん、楊さんの話もくわしく訊いてるはずね」

「藤宮さんは遺留物にも証拠があると言うちょりました」

「その遺留物を県内の科捜研へ送って緊急鑑定してもらっても、半日以上かかる場合もあるわけよ」

「なるほど。勉強になりもす」

「おそらく夜には、遺体の司法解剖も終わって死因が判明するでしょう。それにどんな物的証拠が加わるかよね」

「うちの新聞や他のマスコミも知らない情報が出てくるかも知れもはんし」

「そうよ。その辺に関して、藤宮さんはなんも喋らんと?」

「喋りもはん。捜査一課じゃから口は堅い。ところで今日は何曜日でしたか」

「木曜日よ」

「そうですよね」

「まさか、木曜日に木の事件なんて言うんじゃないじゃろね」

「じゃっど、水曜日に水死体。木曜日に木に吊るされて、ちて考えると分かりやすいかと」

「そんな中学生みたいなこと信じていけんするの。うちの息子並みね。犯人におちょくられちょるのよ」

「息子さんも言うちょりましたか。もし明日も事件が起こるとしたら、金曜じゃから……」

「金にまつわる他殺事件? なにそれ」

「犯人は挑発的じゃ。曜日に因んだ連続殺人」

「そうなのかなあ。とにかく劇場型の犯罪ね。田舎でもこげん大事件が起きるのね。ほんにめずらしか。しかも、楽しいはずのゴールデンウィークに」

 感心したような口ぶりに、飯野は、

「卑劣な犯人じゃっど、一刻も早く警察に捕まえてほしか」

 と語気を強めた。気を強く持った久野は、昨夜の手紙を思い出した。

 記事を書くな。深入りするとおまえが犠牲になるぞ――。

 昨日は確かに妨害行為もあった。今日はまだ起きていないと思ったら、鐘が三回鳴り、長里が庁舎を出て、目の前に姿を見せた。

「ちょっとお茶でも飲みましょう」

 長里から誘ってくるとは珍しい。飯野を猪里署の駐車場に残し、近くの喫茶店に入った。

 用件はマスコミ取材の自粛だった。町の有力者、星永産業の殿田専務から横槍が入り、今回の連続殺人に関して、あまり目立って取り上げるなという。

「川畑さん。申し訳ないが素直に殿田専務の言うとおりにしてください。われわれ公務員は民間企業の利害と関係ないが、市の税収が大幅に減るような事態だけは避けたいのです。

 ただでさえ連続殺人の町として風評被害が懸念されるんじゃから、死亡記事はあまり大きく書かんでほしい。農作物が売れんようになったら、猪里市には何億もの被害が出るじゃち」

 長里は渋い顔を見せた。

 殿田が犯人とつながりがあるからなのか、星永産業に不利益をもたらすからなのかは定かでない。

「わたしは記者として、真実を包み隠さず報道する精神は捨てられないです」

 ロイヤルミルクティーを飲みながら、長里に返答した。

 ため息をついて、注文したコーヒーを一口啜った長里は、

「それだけの覚悟ならば、警察からの情報提供はあまり期待せんでほしかとね」

 と視線をテーブルに落とした。久野は、飯野にその話を喋らなかった。挑発には乗らんし、妨害や暴力、圧力にも屈しない、取材は続ける。胸の中でそう誓った。

 二人はしばらく黙ったままで、向かい合った。長里が、ちょっと失礼して、とタバコを取り出しうまそうに吸った。

 用件が終わって、久野は身だしなみが気になり出した。髪の毛がパサつく。他の客の髪を見た。人の髪の方が艶と腰がある。美容師に言われたシャンプーに変えようかしら、と思った。他人のものはなんでもよく見えるとわかってはいるが。

 それに、着ている服もなんだか合ってない。似合うと思い、社内からも褒められていたチェック柄の服は、もう流行遅れなのかもしれない。斜め前のご婦人は、黒の花柄模様のワンピースを上手に着こなしている。

 ないものねだりをして、子どもじみている自分にため息をついた。まだタバコを吸っている長里に、「これ、お願いね」とロイヤルミルクティー代を置いて店を出る。

 庁舎前の駐車場に戻ると、コンビニのビニール袋を下げた飯野が鉄柵にもたれていた。

「なにか変わったことはなかった?」

「なにもありもはん。それより長里さんになにか言われたと?」

「いいや、なんも。きょうも夜まで発表はなさそうね」

「わかりもすか」

「なんとなくね。経験よ」

 午前中の大木事件についても、昨日の少女変死の死因のことも、警察の公式見解は明らかにされず、ときだけが過ぎていった。長里も藤宮も部屋にこもっているのか気配すら感じない。

 久野はしびれを切らし、

「ちょっと中へ入ってくるわ」

 庁舎へ入る様子を見て、飯野は、

「いいんですか」

 と不安がった。案の定、久野は庁舎の入り口で呼び止められた。

「これこれ、そこのひと。警察官以外は入っちゃならん」

「トイレなんです。我慢できないので。すみません」

 制止を振り切り、警官の脇をすり抜ける。問答無用で女子トイレに駆け込んだ。おばさんの図々しさに警官もたじろぎ、許すしかなかった。

 実際、手洗いで用を足し、化粧を直すふりをしてしばらく聞き耳を立ててみる。

「おい、例の殺人事件、ちょっと変わっとるな」

「たしかに変わっちょる。裸でドライアイス、次は馬で縄を引っ張って窒息死だからな。ひとおもいにグサッとは違うち」

 警官同士の短い会話が耳に入ってきた。意外な場所で重要なヒントを得て、頭にメモした。やはり、馬で縄を引いたんじゃち。

 ゆっくり手洗いを出てこそこそっと庁舎を出た。クラウンに乗り込み、トートバッグから取り出したノートに、新たな情報を書き足した。

 腕時計が四時半の少し前を指していたとき、飯野が、

「ちょっとコンビニに行ってきます。なにかあったら、携帯に電話してください」

 と言い残し、歩いて猪里署を出ていった。

 留守を引き受けるはめになり、久野はこれまでのことを頭の中で整理してみた。

 昨日は、中三の女生徒が裸で湯船に浮かび、中毒死。今日は、香港からの中国人観光客が縄で大木に吊るされ、恐らく馬で縄を引っ張られて窒息死。凶器はドライアイスと縄と馬。

 頭が混乱するばかりで、動機も殺害方法も突飛としか思えなかった。ただ、ナイフや包丁などで刺し殺さない点は、深い恨みを抱いた人物ではない様子だった。

 犯人は頭がよく、二人以上が協力し合って、周到な計画的殺人を実行している。しかも、二件とも犯行予告ともとれる電話まで警察にかけているのだ。

 はたして、警察の力で捜査が終結するのだろうかと不安になった。そのとき、また島谷警部の顔が浮かんできた。彼が応援に駆けつけてくれるならば、一日と待たぬうちに事件を解決してくれるだろう。それぐらい頼りがいのある人だ。

 五時過ぎに飯野はやっと戻ってきた。

「遅いわね。なにかあったの?」

「いいえ、なんもなかです。ちょっとATMが混んでいたのとトイレを借りに」

 まんざら嘘でもなさそうな口ぶりに、久野はその言葉を信用した。

 夜八時になり、目立った動きがないので久野は実家へ戻った。飯野を猪里署に残して。

「たぶん夜遅くに大木の遺体に関して猪里署から発表があるわ。昼にまとめた原稿にもういちど目を通しておきなさい。発表で分かったことを追加して原稿にまとめて、わたしに送信してたもんせ」

 伝言して夜の猪里の町を走った。

 八時四〇分ごろに実家に到着した。家の前のアスファルト道路は濡れていた路面がすっかり乾き、坂道を登るタイヤの音がミシミシと力強く聞こえた、

 今晩はなにごともなさそうな気配がした。

 車をカーポートに停めて、トートバッグを持って降り、玄関の引き戸を開ける。

「ただいま帰りました」

「おう、久野か」

 幸一郎の声が奥からした。

「あー、きょうも疲れたど」

 玄関から居間の卓袱台にトートバッグを載せ、畳の上にへたり込んだ。

「お疲れさん。飯は食っちょったか」

「まだ、食べとらん」

「腹が減っては仕事にならんち」

「食べに行く暇がなか。次々に目まぐるしく事態が変わるかと思えば、警察署に何時間も貼りついていることになったち。それで収穫はなしで、夜に警察からマスコミ向けに発表が出されるから新人を置いて帰ってきたち」

「新聞記者もたいへんじゃな」

「ほんに。新人時代は体力も気力も漲っていたどん、わたしぐらいの年になると体が追いつかん」

「まあ、残り物でよければあるから、たもんせ」

 幸一郎が顎で台所を示したので、

「あいがと」

 と礼を言って、冷蔵庫を開けた。中から、ご飯と漬物と煮しめと魚の煮付けを取り出し、ご飯と煮付けをレンジでチンした。

「きょうはいけんじゃった? 噂では聞いちょるが」

「中国人観光客のおなごが犠牲になったど。首に縄を巻かれて引っ張られた。たぶん馬に」

「馬に縄を引っ張らせたんか? 首吊りちゅうた人もおったど」

「うんにゃ。首吊りじゃなか。そう見せかけて、馬を使うてがっつ引っ張ったから、大木の枝に吊るすところが、枝が折れて縄も切れ、地面に落ちたの」

「とにかく、昨日の事件にも勝る残忍さじゃの」

「じゃっち。早う犯人を捕まえてもらわんと、この町の人間は安心して眠れんち」

「まだ仕事は残っじょっど?」

「じゃっど。まだ部下からの原稿が送られてこん。メールで来る時代になったどん、発表する側の警察は昔とさして変わらんち。こちらが情報を待つ身なのはいっしょ」

「まあ、夜は長いけん、ゆっくり食べて、風呂につかりんさい」

「あいがと、父さん」

 久野は今晩もニュースを観ようとテレビを点けた。

 全国ニュースのトップに猪里市の連続殺人事件が取り上げられた。メインキャスターが固い表情で、

「なぜいま、平穏な田舎で殺人事件が起きているのでしょうか」

 と視聴者に問いかける。昨日の事件も含めて、概要と現場の模型を使って説明したあと、現地にいる番組の取材記者を呼んだ。

「南雲さん。そちらの様子はいかがですか」

「はい、こちらは昼間に起きた事件の舞台である稲和県猪里市です。わたくしは、いま猪里署の前にいます。同署内に、猪里市連続殺人事件捜査本部が設置されています。いましがた、捜査本部でメディア向けに会見があり、マスコミ各社は慌ただしい動きに追われています」

「南雲さん。会見というのは、今日起きた殺人と見られる事件のくわしい説明がなされるのでしょうか」

「はい、こちらでは今日の事件に関するくわしい説明がある模様です。現場から中継カメラに切り替えます」

 画面は猪里署内の猪里市連続殺人事件捜査本部の中会議室を映していた。昨日と同じ副署長が会議机の後ろに着席し、マイクを握って原稿を読み上げ始めたところだった。

 久野は、あとで飯野が何らかの形で会見の模様を送ってくると思いながら、稲和地方訛りの言葉の発表に聞き入った。

 お腹がご飯で満たされ、少し眠気が出てきたところで中継と猪里関連のニュースは終わり、政治のニュースに変わった。

 壁の時計を見ると夜九時を回り、一五分ほどたっていた。

 そのタイミングで、飯野から携帯に着信があった。

「いま、ニュースを観ましたか? 看板は、猪里市連続殺人事件捜査本部と名称を変えました。その部屋で行われた副署長の会見の音声を録音しましたので、念のためお聞かせしますね。

『今日の大木変死事件に関する検視の結果、被害者の李娜さん(二八歳、女性)はペットボトル入りのお茶を飲んだ。お茶に何者かが睡眠剤を混入。不幸にも相棒の楊さんと別行動をとっていた。遺体の司法解剖により、李さんはお茶を飲み二、三〇分して眠った状態のまま縄を首に巻きつけられ、強く縄を引っ張られて窒素死したと判明した。以上』

 これだけですが、重要な情報がたくさんありました。いまから原稿を入力します。夜中までには出来上がると思います」

 飯野から、ICレコーダーで録音した音声を電話口で聞かされた。飯野の報告を受け、

「馬で引っ張ったのよ。馬は畑の方へ逃げていったはずよ」

 と久野は電話口で言った。飯野は、

「畑の方まで行きそびれました。行けば、馬の足跡ば撮れたのに。すんもはん」

 と小声で謝った。

「やっせんぼ。それしきのことでしゅんとすんな」

 久野は気合いを入れてやった。

「それにしても、現場で馬の足跡ば鑑識に取らせといて、会見ではひと言も触れんかったどん、なぜですか」

「それはまだ因果関係がないからよ。馬が見つかった上で、馬に付いている縄と、李さんの首に付いている縄が同一物だと断定できて始めて、馬が縄を引っ張ったことになる」

「なるほど」

「ただの蹄鉄の跡だけじゃ、そのへんの馬が暴れまわって逃げただけかもしれんじゃろが」

「そういうこつですか。警察も確証が得られるまでは慎重に情報を漏らさんとやりよるわけですね」

「当たり前じゃない。とにかく、早めに原稿書いてね」

 久野は半ば呆れて笑いそうになり、こらえた。

 電話を切ってから、飯野から追加でメールが届いた。

 内容は、久野の推理と警察の見方は一致していた。発表のあと、テレビ局関係者からの質問に対し、眠らされて地面に横たわった被害者を大木の枝に引っ掛け、馬で引っ張って即死させた可能性もあるとの見解で捜査していると認めたらしい。

 付近にちぎれた縄があり、馬の蹄鉄の跡が畑に点々と残っていたという事実も、質問のやり取りでわかったことだった。

 この辺ではまだ、農耕用として馬を飼うところが一部に残っている。馬が見つかれば恐らく決定的になるだろう。

 昨日同様、午後十時に自宅の徳広に電話を入れた。

「もしもし、徳広?」

「ああ、母さん。どうしたの?」

「きょうは、とくに用事はないけど、なにしてた?」

「とくにすることもないから、昼間は友だちと遊びに出掛けた。夜はテレビを観ていたよ」

「そうかい。変わったことはなかったね?」

「ないよ。こっちは相変わらずだよ」

「お爺ちゃん、お婆ちゃんは元気にしちょる?」

「元気、元気。お婆ちゃんが鯵の南蛮漬けを作って、三人で食べたよ」

「そうね。それはよかった」

「ところで、母さん。疲れてない? きょうも猪里市で殺人事件、起きたみたいだね」

「事件が起きると、取材するのが仕事だからしょうがないよ」

「体には気を付けてね。車の運転も」

「あいがと。また、明日電話するわ」

「うん、わかった」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 電話を置いて、フーっとため息をついた。自宅にはいつ帰れるのだろうか。まさか、毎日のように殺人事件が起きるかもしれない。とんだゴールデンウィークになったものだ。

 午前零時前に飯野から昼間の原稿に加筆したものがメールで送信されてきた。久野は一読し、少し体裁を直してデスクに送った。

 その日は疲れて、風呂に入らず寝床で寝入った。

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