パニックの町

森川文月

第1話 五月二日(水曜日)

 車は『渓山荘』に向かっていた。南町で唯一の温泉宿だ。窓からは見慣れた町並みの風景が広がっている。今回で何度目の帰省になるだろうか。久野ひさのはハンドルを握りながら思った。

 運転する白のクラウンは、町のはずれに差しかかった。

 女がこちらに向かって手を振っている。背は高く眼鏡をかけていた。真っ赤なスーツケースを手にしている。

「なんだろう。車、停めるわよ」

 息子につぶやいた。徳広は小さく首を縦に振った。

「すみません。いきなりですが、南陽台まで送っていただけないでしょうか」

 若い女は大きな声で窓越しに叫んだ。久野は窓を下げて、

「乗っていきなさい。同じ方角だから」

 と安請け合いし、後ろのドアを開ける。女は、先に後ろのトランクに荷物を入れていいか、と訊ねた。久野は、いいわよ、と答え、入れるのを手伝ってやった。女はトランクを閉め、後部座席に尻を載せドアを閉める。女は、ありがとうございます、と首をすくめて遠慮がちに礼を言った。

「ここら辺の人?」

「いいえ。旅行者です。他県のものです」

 女は名前をすぐには名乗らなかった。

稲和いなわ県までどうやって来たの?」

「新幹線に乗って。気候もいいし、レンタカーを借りてドライブしようと思ったら免許証を家に置いてきてしまって」

「それはうっかりね。わたし、南町のことならくわしいのよ」

「そうなんですか」

「この町で育ったから」

「よかったです」

「またどこかで会えば町を案内するわ」

「母さん、いいの?」

 声変わりした中三の息子が口を挟む。

「まあいいでしょ。旅は道連れっていうやつよ」

「ほんとうに南陽台まででいいので。帰りはバスかタクシーを使うので」

「遠慮しなくてもいいのよ」

「あの、いまは何時ですか。私の腕時計、遅れてしまうので」

「二時半です」

 久野の代わりにとくひろが携帯を開いて時刻を教えた。

「どうもありがとう」

 話すうちに車は中心地を抜け、田園地帯に入った。向こうに山がそびえている。山の中腹からは麓一面に田畑がつづいていた。町全体を上から見下ろすようにしているのは、猪高山の切りたった嶺だ。

 隣に座る徳広は、知らない大人の女と車内で一緒になり、どんな会話をしていいものか、ためらっている様子だった。

 女はふちと名乗った。肩の下までありそうな長い髪を後ろで束ねている。

 南町を一五分ほど走ったころのことだった。場所は、両側が田圃でその真ん中を突っ切るような平坦な一本道である。田圃を抜けて川を越え、カーブに差しかかったとき、車の様子がおかしくなった。次の瞬間車体が傾き、突然ハンドルを取られた。左のガードレールに当たりそうになった。

「危ない!」

 叫ぶと急ブレーキを目いっぱい踏み込む。久野の顔面は蒼白になり、タイヤの軋む音と同時に車体が右に振られた。車は右カーブで車線を塞ぐように斜めに停まった。幸い、対向車は来ていない。助かった。危ういところだった。交通量が少ないとはいえ、ダンプカーでもやってきて衝突したら自分も息子もひとたまりもないだろう。命を落とす危険な場面になっていたかもしれない。

 ハザードランプを付ける。数秒運転席から動けなかった。

「母さん、なにが起きたの?」

 徳広が久野の顔を覗き込む。語尾が震えていた。若い女は押し黙っている。

「みんな大丈夫ね?」

「おれはへっちゃらだよ」

「私も心配いりません」女の声は少し沈んでいた。

 久野は思った。タイヤがおかしい。突然異変が生じたに違いない。

「タイヤがパンクしたみたいね。見てくる」

 シートベルトを外してドアを開け、席を降りる。左右の前輪を見た。

 案の定、左のタイヤだけが破裂し空気が抜けていた。上着の胸ポケットから携帯を取り出し、番号を調べてJAFに電話した。

「もしもし。あの、いまさっきまで運転していた車のタイヤがおかしいんですが」

「会員番号は何番ですか」

「一〇一〇XXXXXXXXです」

「川畑久野様、ご本人様ですね」

「はい、そうです」

「いま、お車はどういうふうに停まってますか」

「車線を塞ぐようにして斜めに停まってます。ハザードをつけて」

「スペアタイヤはありますか」

「この前使って切らしちゃいました」

「場所はどこですか」

「国道32号線の稲和県猪里いのさと市内です。矢能川を越えたところでパンクしたみたいで」

「どんな色で、車名やナンバーはわかりますか」

「白のクラウンで、内海、ま、10―16です」

「わかりました。すぐに係のものがまいります」

 厄介なことになった。いままで、ここへ来るのに、こんな目に遭ったのは一度もない。家を出る前は異常などどこにもなかった。途中、ガソリンスタンドに寄ったときもタイヤの空気圧に異常は見られなかった。どこかで細工をされたか、嫌がらせかいたずらの類いに違いない。

 ドアを開け、中に入って徳広に説明した。

「タイヤがパンクしたわ。もしかしたらレッカー移動になるかも」

「じゃあ、しばらくこの車に乗れないじゃない」

「そのときはしかたない。諦めましょう」

 JAFが来るまで車の中で待機し、徳広の学校での様子などを訊いていた。

 四〇分もすると、バンタイプの青い車がやってきた。久野はJAFの係員に、タイヤの状態をくわしく報告した。

「これはタイヤの横になにかが刺さって破裂した様子なので、応急処置ではだめそうですね」

 制服姿の係の男はタイヤを見て手で触った上で、渋い顔をした。

「どうするんですか」

「近くの適当な場所までレッカー車で移動します」

「えー、そうなんですか」

「もうしばらくお待ちください」

 担当の係の男は、どこかに電話を掛けて状況を報告した。

 担当の男がどこかに電話を掛けているあいだに、久野は旅行かばんの中から財布と携帯、化粧道具を取り出し、トートバッグに移し替えた。旅行かばんは車中に置いていくことにした。どうせ着替えと洗面用具ぐらいしか入っていない。

 やがて、荷台にレッカーを下げた青いトラックが到着した。最初に来た係員と二人がかりで車の前部をジャッキで持ち上げ、レッカーで前輪の底を浮かし、そのままゆっくり車を運び去った。

「近くのガソリンスタンドまで持っていきますので」

 若い係員は訛りのある標準語で教えてくれた。

「そこで修理するわけですか」

 久野は試しに訊いてみた。

「ええ、修理はできますよ。時間は少しかかりますけど、どうしますか」

「これから出かける途中だったので、バスに乗って行きます」

「それでは用事が終わったころにこちらに電話をください。いまから一時間ぐらいで修理は完了すると思います。費用については無料ですので」

 JAFの男は携帯番号を名刺の裏に書いて久野に手渡した。

 不慮の事故に見舞われ、川畑親子はバス停まで歩いた。絵美もついてきた。道路沿いに民家が立ち並び、それも途切れると緑の草の伸びた田畑や草地がずっと奥の方まで広がっていた。

 久野は、虫の予感で南町に来るのを拒まれているような錯覚に囚われた。どこかで見られているような気もした。そんな妙な気になるのはここに来て初めてだった。周囲を見回したが、不審者らしき影はない。旅の女はにこにこしながら、ついてないですね、と漏らした。そうかもしれない。思い直した。

 事故現場からバス停まで歩き、バスを待った。バスを待つあいだ、トラブルに巻き込まれがっかりした気分を変えようと思った。明るく振る舞い、南町での思い出話を徳広に聞かせてやった。痩せて背の高い女は興味深そうに聞き入っている。

 子どもの頃、夏になると滝の下の岩場から川に飛び込んだものよ。思い出深い川だったわ。きっと今も、清らかな水をたたえ、太陽を浴びてきらきらと流れているはず。来る途中で学校がいくつかあったでしょ?  昔のまんまだわ。古びたコンクリート造りの校舎でね。南町の目抜き通りにある公立中学校と公立高校、大通りから少し離れたとこにある工業高校。いまじゃエアコンぐらい入ったのかしら。でも建物はみんな古くなったわ。母さんもだけど。地元の駄菓子屋もあるはずよ。そこには小学校時代から入り浸っていた。

 高校時代は、赤い暖簾が目印の中華料理店で友人とよくだべった。町で二、三軒しかないうら寂しげな佇まいの古びた喫茶店もあると思うわ。そこの一つだけは特別な思い出の場所なの。初恋の彼とクリームソーダを飲んだのよ。まるで昨日のようだわ。初恋の話はお婆ちゃんたちには内緒よ。

 長話をさえぎるように、バスが来た。バスの側面の塗装は色褪せ、部分的に色落ちしているような市バスだ。南陽台行きである。バスに乗った。空いている席に座った久野は、後部座席の絵美に、

「わたしたち親子は、『渓山荘』という温泉に入りに行くの」

「温泉ですか。いいなあ」

「絵美さんもよければ、一緒に来ない?」

「いいんですか? じゃあお言葉に甘えて」

 渓山荘近くでバスを降りた。バス停では他の客も一緒に降りた。

 絵美はスーツケースを引きながら、二人についてきた。絵美が話し掛ける。

「主婦の方ですか」

「違うの。夫はこの世を去り、わたしが働いているの」

「いけないことを訊いてしまってすみません」

「いいのよ、別に」

「二人暮らしですか」

「いいえ。義父母と四人暮らし。少しのあいだだけ、実の姉がわたしや夫の代わりをしてくれた。その姉も病気で他界したけどね」

「ごめんなさい。辛いことばかり言わせてしまって。仕事は何をされているのですか」

「N新聞で記者を長いことやってるわ」

「へえ、すごい! 立派ですね。インテリじゃないですか」

「他にできることがないだけよ」

 久野は褒められ、少し上機嫌になった。

「名前を訊いてなかったですね」

「ああ、そうだわ。うっかりしてたわ。川畑久野です。よろしくね」

「徳広です」

「こちらこそよろしく」

 絵美は、あらためて二人に軽く会釈をした。このとき、その若い女がピンク色のロングスカートを穿いているのにやっと気づいた。

 バス停で降り、一〇分ほど歩いた。町の鐘楼が四回鳴るのを聞き、温泉宿に着いた。いつもなら温泉の営業が始まっている時刻である。

 が、どういうわけか、建物入口の周囲を大勢の町民が囲んでいる。客というより野次馬に近かった。パトカーに救急車も停まっていて、どう見ても様子がおかしい。なにが事件があったに違いない。適当な人を探して、訊ねてみた。

「いけんしたとです」

「死体が、女の水死体が上がったらしい」

 その場に居合わせた男は、興奮気味に語った。物めずらしそうな興味津々の顔つきだった。

「中学生か高校生くらいだって」

 別の人が付け加えた。

「ほんとうに?」久野は頓狂な声を上げた。

「物騒やわ」

「ほんとね。こんな田舎町で若者の死体が出るなんて」

「どこの子かしら。可哀相に」

 町民の口からは信じられないという声があちこちで聞こえた。それに加えて、平穏な町で起きたミステリー事件に首を突っ込みたい気持ちが滲み出ていた。

 事件だ。明らかに奇怪な事件の臭いがする。それは嫌な予感を伴っていた。さっき感じた虫の予感と合わさり、慣れ親しんだ故郷が急に色あせてきた。くたびれたバスの塗装どころの比ではない。生き生きとした青い草花があっという間にしおれたようであり、牙をむいた異国の地に立っているようでもあった。そんな憂鬱な気分に襲われた。と同時に、軽いめまいがした。

「女の水死体。嫌な気分ね。悲劇ならその序章。恐ろしい舞台の始まりかも」

 旅の女は赤の丸眼鏡を光らせ、ピンク色のスカートのフリルをしきりに触っている。

 久野は絵美という女の言葉を真に受けず、気を取り直した。野次馬をかき分け、入口の前に立つ若い警官の制止を振り切る。中に入り、沓脱で慌てて靴を脱いだ。どかどかと大股で廊下を急ぎ、女湯に入り込む。そこにも制服姿の警官一人がいて、その警官が電話を掛けていた。

「下がって、下がって」

 若い方の警官が追いかけてきて規制テープの前で制したが、無視した。トートバッグからデジカメを取り出し、五、六枚撮る。もう一人の警官は本署に連絡しているのか、まだ続きを報告していた。

「裸の少女です。年齢不詳」警官は一息ついて唾を飲み、続けて、「透明な特大のビニール袋に包まれて、被害者はうつ伏せで浮いています。ええ、被害者です。血の気はないです。死んでいる模様。ピクリとも動きません」

 そのあいだに、現場写真と死体をさらに一〇枚ほど撮影した。異様な光景だった。淡いピンク色の浴槽の周りに黄色の規制テープが張られ、死体がうつ伏せでぷかぷかと浮いている。短めの黒髪で、腕と足は小麦色に焼けている。あまりの光景に動揺してカメラを持つ手が震えた。愕然として腰を抜かしそうにもなった。

「発見者は渓山荘の番頭。発見時刻は五月二日水曜日の午後四時です。鐘楼が四回鳴ったから間違いないと。ちょうど営業前の時刻に見つけたちゅうて。浴槽の掃除中にはみつからなんだとか。一番風呂に出入りした客はおらんとです」

 大きな声で喋っていた、年長にみえる警官は向きを変え、そこで壁に向かって小声で喋った。

「ええ、そうです。確かに、交番に遺体発見の電話がありもした。四時きっかりに」警官は背中を丸めて続け、「それはこちらで確認済みです」


   *


「女のだれかさんが、湯船に浮かんでるわ。そこは渓山荘。死んだままで水泳の練習かしら。温泉の入浴は無理ね。鐘が四回鳴ったわ。ちょうど四時ね」

 妙な電話である。しわがれた老女の声だった。どこか作ったような、感情のこもっていない、冷酷な訛りのない声だった。電話は一方的にかかってきて、遺体発見の旨を告げるとプツリと切れた。

「もしもし、もしもし」

 猪里市の志方交番に最初の電話がかかってきたのは、その日の午後四時過ぎである。ふだんなら交通事故や山や川での行方不明者を捜索するぐらいが仕事の大部分を占めているありふれた田舎の交番である。その交番に詰めていた警官二人はすぐにそこを出て、慌ててパトカーで渓山荘へ向かう。警察へ掛かってきた遺体発見の電話の真偽を確かめに行ったのだ。

 まさかほんとうの事件だろうとは思ってなかった。警察への悪質ないたずら程度にしか思ってなかった。退屈な田舎でも、警察をからかう輩などいくらでもいる。

「ほんとうじゃろうか」

 電話を取った若い警官は、先輩の警官に訊ねた。

「まさかと思うが、老婆がイタズラ電話なんぞするかのう」

 年上の警官はハンドルを握りながら答えた。

「あれは本当に老婆の仕業なのかち思うちょる。老人にしては言うことがはっきりしすぎとる。声色を使っておるかもしれん。それになにかと見間違うたんじゃなかか」

 三分もしないうちに二人を乗せたパトカーは渓山荘に到着する。人だかりができていて、只事ではないと若い警官は思った。緊張して中に入ると、女湯で目に飛び込んできた光景に茫然としてしまった。


   *


 新聞記者としての血が騒ぐのとは別に、なにかねっとりした気味の悪さと得体の知れなさを覚えた。

「ところであんたはだれね? 警察署まで来てもらえるかね」

 さきほどの若い警官から呼び止められた。

「わたしはN新聞の社会部の記者です。きょうは久しぶりに帰省して、温泉に浸かりにきた客です」

「記者であろうとなかろうと、念のため事情を訊かせてもらおうか。それが規則だから」

 電話を掛け終えた警官がダメを押す。

 まもなく稲和県警のパトカー二台が現場に合流した。県警本部の人間らしいスーツ姿の刑事が車から降りてきて死体現場に足を踏み入れた。

 年長の警官は若手の警官一人と県警の刑事二人を現場に残し、久野の腕を強引につかむと外に連れ出し、パトカーへ誘導した。周囲にいた見物人が、犯人か、犯人じゃなかかと、騒ぎ出した。手で掻き消すように違うとジェスチャーをして首を振る。警官に、ちょっと待って、と言い、その場にいた息子を呼び止めた。

「徳広。悪いけど、ひとりで内海の自宅に帰れるよね」

「帰れるけど」

「こんなことになってしまって申し訳ないわね。すまないけど小遣いを渡すから、お爺ちゃんのところに戻ってちょうだい」

「いいよ、分かった。しかたないよね」

 徳広は明るく答えた。久野が疑われていて、身の潔白を話さねばならないことぐらいわかる年頃だ。もう中三で来年は高校受験。迂闊に事件の衝撃を与えない方がいいに決まっている。

「母さん、仕事するんだろ? 忙しくなりそうだし」

「悪いねえ。どうやら休日を返上して仕事しなきゃならないようだから」

 久野は財布から一万円札を出し、徳広に手渡した。

 それまでおとなしくしていた絵美がなぜか、思いだしたように言った。

「きょうって何曜日かしら?」

「きょう? 水曜日だよ。そういえば、水曜に水死体?」

 徳広はおかしなことを言った。

 いや、おかしくない。確かに日付は水曜であっている。そのときは言葉の綾だと深く考えなかった。先に乗り込んでいる番頭と後部座席に並んで座り、パトカーは現場を離れた。

 車内は重苦しい雰囲気だった。後ろを振り返った。後方の窓から徳広と絵美の姿が小さくなっていく。いままで走ってきた道をUターンして、猪里警察署までパトカーに揺られた。

 なんでわたしが――。そう思ったが、警察署で事情を話さないと自由にしてくれそうになかった。とにかく現場の状況とアリバイを話せばすぐに解放されるはずだ。それより事件記者としての予感が気がかりだった。これで終わればいいのだが。


   *


「被疑者の手がかりは?」

 猪里署の会議室で、刑事課課長の神取は部下に訊ねた。

「少女を殺したということで、怨恨のセンは薄いかと。強盗もありえませんし」

「嫌な予感がするなあ」

「そうですか。たしかに遺体の現場は異様でしたが」

「初動捜査で指紋も足跡も見つからんと?」

「ええ。いまのところ、関係者の者以外はないらしくて」

「この町に少女ば殺すような大人はおるんか」

「さあ、まずおらんとです。でも、この時期、どんなよそもんが猪里市に来とるか」

「ゴールデンウィークの最中だからか」

「そげんこつです」

「しかし、温泉の湯船で変死か。殺しだとするなら大胆な犯行じゃっど」

「鑑識が調べちょりますが、現場で被害者を見たところ、首に絞められた跡があったとか。死因は絞殺では?」

「別の場所で殺しといて、湯船に晒しものにした、というのか」

「たぶんそげなセンでは、と私も思うちょります」

「少女趣味の不審者を洗うてみるか」

「そのセンもあるかと警戒はしちょります。管内に不審者情報はいまのところありもはんが」

「それから被害者の身元と遺留品はいけんなっちょる?」

「被害者は中学生らしく、明日までに身元を判明させます。身につけていたはずの衣服は日没までにはなんとか見つけられたらと。手荷物も合わせて付近を捜索中ですが、今のところ手がかりが見つかっていないです」

「早う見つけんとな」

「全力をあげて取り組みます」

「ところで、例の遺体発見を告げた電話はいけんした?」

「年老いた女の声のようじゃち、皆は言うちょります。が、話の間と言うかスピードは速く、伝えた内容もはきはきと喋るし、老婆に見せかけ警察を惑わそうとしたち、思われます」

「かけてきたエリアは?」

「auでいうところの浦形局付近です。それも、プリペイド式の携帯電話らしくって」

「あげな携帯は、ショップに持ち込むんじゃろ?」

「はい。携帯端末を持ち込み、携帯ショップで契約するもんです」

「逆探知は?」

「番号が取れちょりまして、携帯会社に情報開示を要求する捜査令状ば現在作成中でして」

「じゃっどん、本人じゃなか人物に携帯端末を転売しよるもんもおるち聞くがな」

「全くそげんとおりです」

「とにかく番号が分かっとる以上、辿れるところまで辿ろう。そっちのセンも大至急追ってくれ」

「わかりもした」

 そこで婦警がお盆に茶を二人分持って会議室に入ってきた。机に湯呑み茶碗を置き一礼して出ていった。神取課長は茶に口をつけてのどを湿らせ、

「第一発見者の番頭はなんか言うちょったか」

「普段どおりに仕事しとって、なんも異常はなかったっち」

「収穫なしか。なんも気づかんかったとね?」

「鈍そうな男じゃどん」

「つまり、なんかあっても目が節穴ちゅう」

 神取課長は口を手で覆い、欠伸を噛み殺した。

「そげなとこです」

「現場に乗り込んできた記者は?」

「あれはN新聞社会部に勤めちょるベテランの女記者です。やり手で頭もよかと。偶然現場に居合わせ、記事にしようと躍起になるとでしょう」

「たしか、川畑とかいう女じゃっど」

「そうです。よくご存知で」

「若いころ、本署と関わった。参考人として調べるのか」

「ええ、そのつもりですけれど」

「うるさいタイプじゃけん、あんまり刺激せんようにな」

「はい、そのへんは如才なく気を付けちょります」

「それと、単独で勝手に取材するのは気を付けてもらわんと。向こうも仕事だからしかたないじゃろが、犯人を刺激せんようにしてもらわんとな」

「じゃろですたい」

「われわれは市民の安全を守りつつ、一刻も早く犯人の逮捕を急がんとならんち」

「おっしゃるとおりです」

「とにかく、現場付近の訊き込みをつづけろ」

「はい、承知しもした」


   *


 きょう五月二日はゴールデンウィークの合間だが、久野は有給休暇を取った。消化しないと上がうるさい。二日から六日の日曜日まで五日間連続してカレンダーどおりに休みをもらえた。五連休に帰省しないかと久野から息子に提案した。

 大学を卒業してからも、盆と正月は帰省している。自宅から実家まで車で片道二時間程度だ。

 ゴールデンウィークだというのに町には観光客が押し寄せるわけもなく、人気の少ない、豊かな自然と農業以外になんのとりえもない片田舎だ。まだ内海市の方がいくぶん都会の色に染まっていた。

 久野は、勤務先で自宅のある内海市から一一〇キロ離れた猪里市に車でやってきた。

 きれいな海に面した内海市に、高校生の頃から憧れていた。大学時代も、N新聞に就職してすぐに結婚してからも、内海市に住んだ。内海市と違い、猪里市は山に囲まれた鄙びた田舎である。家のすぐそばは杉の木が鬱蒼と茂っていた。周囲も広大な田圃と集落の周りにある畑しかない。その中でも南町は市の中心部で、まだ開けている方だった。

 山や田畑に囲まれた自然豊かな町に二、三日身を置くだけで、心と体が自然とほぐれてくる。なんといっても久野の生まれ育った町なのだから。

「久しぶりに、例の温泉にでも寄ってみる?」

「うん」

 一緒に久野の実家に帰省する道中、徳広は元気に頷いた。これまでも実家に帰省したとき、徳広を連れてなんどか渓山荘に足を運んだことがある。五月二日は徳広の通う内海市立第一中学校の創立記念日であり、休みに当たっていた。

 快適なドライブだった。が、町はずれで女を乗せてから車はパンクした。おまけに、目的地の渓山荘に着くと水死体のお出ましだ。面食らった。休みどころでは済まない気がした。

 猪里警察署で三〇分話した。話したと言っても、訊かれたことに答えたまでだ。

「あんたの氏名と住所は?」

「川畑久野。内海市服部町四丁目二三〇番地」

「あんた、当日はどけんしとりやした?」

「内海市を出て、猪里市に車で向かってました」

「ほう。それで?」

「車のタイヤが途中でパンクし、バス停まで歩いて……」ちょっとのどがむせてから、「バスに乗って南町の渓山荘に来ました。息子と旅の女と一緒に」

「息子さんの名は?」

「徳広です」

「住所も同じ?」

「ええ」

「年はそれぞれいくつね」

「わたしが四八、息子が一五」

「わかりもした。で、旅の女というのは?」

「南町のはずれで乗せた旅の人です。名前は――絵美。淵井絵美とか言うちょりました」

「いくつぐらい?」

「たぶん二〇をいくつか過ぎたぐらいかな」

「本件で、川畑さんは現場でなにをしぃちょったの」

「わたしは事件記者です。現場に居合わせたら、たとえ休みでも写真と第一報の原稿を書く使命があります」

「で、女湯でカメラをパチパチ撮ったと」

「はい。なにか問題でも?」

「問題はなか。ただ、警察のやることにはそれ相応の手順がありましてな。事件現場におったのは警官とあなただけ。発見者の渓山荘の番頭も同様の質問を受けておりますから」

「何年も記者をやってます。それぐらいは知っちょります」

 久野は頬を膨らませて、ちょっとむくれた。

「とにかく当日の行動をもう少し調べさせてもらうのと、あんたを見た人物の存在がないと帰せませんので」

 閉口したが、しょうがない。事故現場に居合わせた経験は少ない。警官の言うとおり、無実を証明してくれる人物からの情報を待った。

 やがて本署の警官がなにやら耳打ちして解放してくれた。そのとき鐘が五回鳴った。

 取調室を出て、やっと仕事のつづきができると安堵した。警察署内の廊下の壁にもたれて、事件のあらましを慌ててメールに打ち込む。写真をつけてデスク宛てに送信した。

 猪里署の建物を出て、敷地の外に出た。

 先に自由になった番頭が前を歩いていたので、必死に追いかけた。どうしても話を交わしたかった。

「ちょっと待ってよ、番頭さん」

 渓山荘の番頭は、振り返って久野の方を見た。

「なんでごわすか」

 久野は息を切らしながら、

「わたし、N新聞の記者で、川畑というものです。警察でも同じようなことを訊かれたかもしれないけれど」と前置きし、「風呂場の掃除をしちょったときには、異常はなかかったとですか」

「はい。ありもはんでした。掃除を終えたんがちょうど三時ごろ。それから私が営業前の風呂場を確認に行ったのが四時」

「つまり、三時から発見時刻の四時までに、犯人が遺体を浮かべたちゅうことでよかですね」

「へえ」

 歩きながらトートバッグからノートを取り出し、いま仕入れた情報を平仮名ばかりで殴り書きしてメモを取る。

「その日、四時まで、とくにかわったことはありもはんでしたか」

「さあ、とくになんも」

「問い合わせの電話とか、不審な物音とか、見かけぬ人物とか」

「わかりもはん。なかったと思いますが」

「きょう番頭さん以外に働いていた従業員は何人ですか」

「おい以外には、男三人、女四人です」

「わかりました。あいがとごわした」

 番頭とは次の交差点で別れた。国道沿いまで歩きタクシーを拾って、町のガソリンスタンドまで行った。タクシーに乗っているとき、デスクの中平から、

《トップ記事扱いにするから徹底して取材するように》

 というメールが届いた。


   *


 県警の刑事と神取刑事は自らも現場付近の訊き込みをおこない、遺体の発見された渓山荘の校区にあたる学校は、猪里市立第二中学だけだという事実を突き止めた。

 夕方の五時過ぎ、第二中の教頭と中学校内で会い、遺体の顔写真を見せ、次のような証言を得た。

「この顔と髪型を念のため担任の先生方に至急確認してもらったところ、三年生の沖本陽菜乃に間違いありませんね」

「そうですか。他に、その沖本という女生徒に関して、当日の行動で分かることはありませんか」

「彼女は卓球部の部活帰りだったと聞いちょりますが」

 神取刑事は、その女生徒の部活帰りの足取りはどうだったのか、渓山荘へ行く予定はなかったのか、なにを持っていたのか、自宅の住所、電話番号なども教頭に訊ねた。


   *


 南町のガソリンスタンドでタクシーから降り、停めてあった自分の白のクラウンを見た。タイヤは新品になっている。修理の内容を記した紙とJAFの担当者の名刺が車のダッシュボードに置いてあった。

 クラウンに乗り込み、携帯で実家に電話を掛ける。事情を話そうとして、呼び出し音を耳にしているあいだ、何から話そうかと頭を整理した。父の幸一郎が出た。

「たいへんよ、父さん」

「いけんした、久野? えらい勢いで」

「もひたあ。帰ったばかりの南町で殺人事件に遭遇したと。水死体が溪山荘から上がったと」

「ほんにまあ。そげんこつが起こったと」

「まだ自殺か他殺かはっきりせんが、他殺でまず間違いなか。これから取材せにゃならん。とにかく明日の朝刊に載るのは間違いなかよ。大事件の発生じゃ」

「うちに泊まるんか」

 父は冷静だった。

「息子は内海の家に帰した。今晩から実家に泊まるのはわたしだけよ」

 電話口の向こうでも、もひたねえ、と言っていた。

「これから猪里署に戻って、くわしゅう取材せにゃあならんど。帰るんは遅うなるで」

 車のパンクの件は黙っておいた。

 それからクラウンをUターンさせ、猪里署に向かった。着いたら六時をとうに回っていた。この南町では、どこにいても鐘楼の音が町中に響き渡る。鐘楼は、朝の八時から晩の六時まで、長針が真上に来たときに時刻の数だけ鳴るのを思い出した。鐘の鳴ったとき、か。四時に番頭が遺体を発見した。そのときも鐘が四回鳴ったはず――。

 さっそく本署での取材が始まった。

 サツ回りを担当するのはメディアの新人と相場が決まっている。N新聞の社会部の新人はまだこちらに着いていない。

 さきほど中平に電話を掛け、

「取材するのにもう一人、応援を欲しいのですが」

「いま社会部の飯野くんをそちらに向かわせちょる」

「あの新人の飯野くんですか」

「そうだ。Qちゃんは飯野くんが合流するまで、早いうちに情報を得ておいてくれ」

 中平にそう指示を受けた。久野の〝久〟を音読みして「きゅう(Q)ちゃん」と呼んでいるのは、社内では土門と中平だけだ。親しい間柄のひともそう呼ぶ。久野は「久」だからとだけ思っていたようだが、周囲は別の意味もあって、アルファベットでQちゃんと呼んでいた。アニメの「お化けのQ太郎」のQではない。なんでも質問し、記事や内容にすぐ疑問を持つ性格から、クエスチョンの「Q」をとってQちゃんなのだ。

 昔、新人と組んだときに知り合った警官が猪里署にいた。いまは県警本部の警部に昇進したらしい。警察署内においては、警部の階級は一般の役所の課長クラスのポストだった。長里という中肉中背の男で、彼は久野よりも一回り若かった。

 長里警部を捉まえて質問をぶつけてみようと思った。もちろん、警察が個人情報や容疑者の情報をそのまま記者に流すことなどない。

 本署のトイレを出たところで、偶然にも長里と顔を合わせた。

「長里さん。ご無沙汰です」

「おや、久野さん。めずらしい。私が刑事部にいたとき以来ですね」

「そうです。きょうは非番だったのですが、事件現場に遭遇して」

「サツ回りの新人が到着するまで、代わりに私に張りつく気ですか」

「しかたないでしょ。それより、容疑者は特定できましたか」

「いきなり核心を突きますね。まだ殺人と決まっていませんよ」

「おっと、そうでした。独断はよくないですね」

「被害者の身元確認だけで大わらわです。急には進みません。ベテランの記者さんならご存知でしょう」

「単なる事故にしては、人がようけ集まっとるようですが」

「そりゃ、田舎町で変死体ですからね」

「事故にせよ、殺人にせよ、大スクープには違いないでしょう」

「とにかく、そんなに簡単に仕事が進んだら我々も苦労しないです」

「ところで、被害者の身元はいつごろ割れそうですか」

「そういう情報も含めて、七時に記者会見を行う予定なので」

「記者会見ときたか。会見を行うというのは、発表できるだけの情報があるわけだ」

「さあねえ。発表するのはうちの部署じゃないから」

「でも殺しなら捜査一課だけでは人手も足りず、とうぜん他の課を含めて動員をかけるでしょ」

「なんべんも言いますが、まだ殺しと決まったわけじゃない。私は生活安全部の警部です。くわしいことは知らんのです」

「情報源として、長里さんの力が必要なんですよ」

「まあ、あなたとの付き合いもあるし、話せる範囲のことはぼかして話しますが」

「お願いします。やがてN新聞の新人も合流するはずなので」

「じゃあ、私は仕事があるので」

 長里は振り切るように手を挙げてその場を去った。

 地下の喫茶コーナーでロイヤルミルクティーを飲みながら時間を潰していると、ようやく新人が到着した。やせ気味の飯野という男だ。入社一年目の数少ない期待の若手である。

「飯野くん、ご苦労だったわね」

「川畑さんこそお疲れ様です。休みの日に事件取材なんて」

「それより、警察は会見を行うみたいよ」

「ほんとうですか。事件の起きた日に会見とは手回しがよかですね」

「ええ。よほどなにか確証があってのことでしょうね」

「つまり、どういうことですか」

「早く市民に知らしめて、犯人の早期逮捕を狙っているに違いないわ」

「なるほど」

「感心している場合じゃなかよ。飯野くん、きみは会見で質問して顔を覚えてもらいなさい」

「いきなりですか」

「警察とのパイプ作りが事件の情報を得る近道なの。警官との人脈づくりがあとでものをいう世界よ。覚えておきなさい」

「わかりもした」

 メディア向けの発表があるから、と捜査本部の刑事は久野や飯野を含めた記者らを部屋の外に締め出した。

「記者会見は夜七時、三階の中会議室でやりますから」

 最後にそう言った刑事は、ピシャリと扉を閉めた。

「おい、記者会見じゃち」

「市のニュースでは異例だな」

 地元メディアらしき放送局のディレクターの声が耳に入った。大きなビデオカメラを肩に担ぎ、カメラマンと何やら打ち合わせを始めている。地元ローカル局の生中継かもしれない。

「町のスクープなのよ。よく撮りなさい」

 飯野にはっぱをかけた。久野も記者会見に臨むつもりでいた。それに備えて、トートバッグの中のスマホの充電パックとICレコーダー、予備の一眼デジカメを確認する。

 廊下では、あちこちでざわざわと取材関係者が数人たむろして、何事かを話し込んでいる。

 そのあいだに早足で本署から出る。歩いて数分のところにあるコンビニに行き、クリームパンとカフェオレを買いこんだ。本署に戻って外で腹ごしらえをしておいた。久野の姿をまねて、飯野も交替でコンビニに行った。

 いろいろな憶測が飛び交う中、時は過ぎて七時が来た。

 地元メディアはすでに三階の中会議室の中に陣取り、いまや遅しと記者会見を待ちかねていた。

 すでに前方の会議机には県警本部の部長らしき刑事と何人かの部下が資料の紙を持って場が静まるのを待っていた。

「では七時になりました。稲和県警より記者会見をおこないます」

 カメラのフラッシュの音があちこちでして、閃光がたかれる。

 真ん中の制服の男が立ち上がって、ゆっくりと喋った。

「少女変死事件捜査本部の発表をおこないます。私は稲和県警猪里警察署副署長の今出水と申します。ここにご参集のメディアの方には周知かと思いますが、本日午後四時、猪里市南町三丁目の温泉宿において、女性一名の変死体が発見されました。ただいま遺体を検死解剖中です。他殺体の可能性が高いからです。死因は不明。発見者は事件現場の温泉宿『渓山荘』の番頭五二才男性であります。現在のところ、本市における行方不明者との一致はなく、遺体の年令、氏名等の詳細は調査中です。以上です」

 一方的に書類を読み上げた制服姿の副署長は、書類を机に置いた。

 最初に口を開いた刑事が、あとを受けて、

「本署からの発表は以上です。質問のある方は、挙手してから所属先と名前を述べたうえで質問してください」

 すると、右前方にいた男の記者が手を挙げ、質問した。

「M新聞の畠樹です。女性はどげな状態で死んでいたんでしょうか」

「番頭の証言と目視の確認で、裸体でビニール袋、ゴミを入れる透明な袋に包まれて、湯船に浮いていたということです。うつ伏せで浮いていました。女湯に、です」

 また手が挙がった。こんどは斜め後ろの記者が指された。

「はい、そこの男の方」

「南九州放送の若岩と申します。遺体が他殺であると警察が考える理由と証拠をお聞かせください」

「まず、理由は、首元に絞められた跡がある点が一つ目。女性の身体的特徴からして少女ではないかと思われますが、自殺するにしては一人でビニール袋に入りそれを閉じるとは考えにくい。

 また、自害する手段や遺書、携帯電話や持ち物などが発見されていない点が二つ目。以上です。

 証拠は現在調査中ですが、鑑識によると、ビニール袋内の空気中に高濃度の二酸化炭素が検出されたと聞いています。おそらく何者かが殺意を持って被害者の首を絞めたのち、意図的にドライアイスのようなものを袋に入れて中毒死させたのではないかと捜査一課では見ております」

 しばらく会場のあちこちからどよめきの声が上がった。中毒死とは考えなかった。久野に促されて飯野も手を挙げ、指された。

「N新聞の飯野です。いましがた、袋にドライアイスとの発言がありましたが、固体のドライアイス片はビニール袋内に残っていたのでしょうか」

「いいえ。全部溶けた模様です。小さな塊もありませんでした」

 会見は以上で打ち切りとなった。

 さきほどデスクに送信したメールの倍以上の情報を得た。やはり警察も殺人と見ている。首を絞め、ドライアイスで中毒死とは――。

 大急ぎで飯野に会見と質問の内容をまとめさせた。飯野の拙い文章を校正している暇はない。とりあえず飯野を市内の旅館に向かわせ、部屋でノートパソコンを使って原稿を書くように指示した。

 猪里警察署を出て飯野と別れ、久野はクラウンに乗り込んだ。すぐにはエンジンをかけず、携帯で速報をデスクに送信する。

《大スクープ。少女殺人事件の様相。首を絞め、ドライアイスをビニール袋に混入の可能性。周到な知能犯》

 ベテラン記者らしくざっと短く書いた。

 車を出した。走りながら、きょう一日に起きたことを振り返ってみた。知り尽くしたはずの故郷に見知らぬ出入り口があり、裏世界に久野を迷い込ませたような日だった。ホラー映画の一場面を思い出し、怯えた。対向車のヘッドライトに照らされ、慌てて我に返る。

 早く実家に戻り、化粧を落としたい。中年記者である前に一人の女としての願望が勝った。

 職場では、若い世代の男女比は二対一程度だが、三〇代、四〇代以上では女の数は極端に少なくなっていく。部署にもよるが、久野が現在籍を置く社会部では四〇代以上の社員のほとんどを男が占め、女は片手で数えるほどしかいない。当然、ものの考え方は男っぽく、性格もサバサバしてくるし、整理や校閲の内勤に回されてからノーメイクでも平気になった。

 編集局長の土門は、そんな久野をかわいがり、

「Qちゃん。おれが上と掛け合うから、内勤から社会部に戻そうか」

 と持ち掛けてくれた。久野もその気になって、七年前から整理・校閲部から社会部に移り、町ネタを取材するようになった。いまでは薄化粧をして外へ出ている。仕事の流れの中で、突撃取材やネタの裏付け、アポをとる取材、ネタがないときの町ネタ探し、と外に出れば一日は目まぐるしく忙しい。

 これまでも休日を潰して仕事をすることを経験してきたが、五連休の初日からこうも多忙だと明日からどうなることかとため息が漏れた。

 久野は社会部に戻って多忙になった。親子で仲の良い久野は、日曜丸一日休みをもらえるのはたまにしかない。そんなときは、徳広と二人しておいしいものを食べに出掛けたり、車で遠出をしたりした。

 内海市内にある水族館に行ったときに仲良しの加瀬親子に会ったのは、つい先月のことだった。

 水族館ではイルカショーが定番だが、いなわ水族館ではジンベエザメの泳ぐ姿が見られる。

 イルカショーが始まる前に、久野らは大迫力のジンベエザメを見学していたら、偶然にも加瀬親子と対面した。助産師をしている弘子とは、出産以来、懇意にしている。その娘二人がジンベエザメの水槽に張りついているときに徳広も同じ水槽を眺めていた。少し離れて見守っていると加瀬親子に気づき、久野の方から声を掛けた。

「弘子さん、また会ったわね」

 久野は加瀬弘子に手を振った。

「よく会いますね。会う約束をしてなくても」

 弘子も嬉しそうだった。きょうの弘子は肩まである髪にウエーブをかけ、長袖の白のシャツにピンク色のカーディガンを羽織っている。

「よかったら一緒にイルカショーを見ないけ」

 久野の方から誘った。

「はい、喜んで。たしか、イルカショーは一三時三〇分からだから、その時刻にイルカプールで会いましょうか」

「ええ、そうしましょう」

 母同士で話がついて、二家族はそれぞれ別れて、他の展示を観て回った。別々の水槽を見て回ったが、結局合流し、久野と弘子は世間話に花を咲かせた。

「暖かくなってきたわね」

「ほんとうですね。花もたくさん咲いて、陽射しも穏やかで」

「春になるとまた一年たったって思うわ」

「新年度の始まりですもんね」

「いまも同じクリニックで働いているの?」

「ええ、すっかり古参になりました」

「産婦人科もたいへんでしょう。忙しくない?」

「忙しいです。いろんな女性が診てもらいに来て、話を合わせるのもたいへんで」

「わたしなんて男ばかりの職場よ。まるっきり正反対ね」

 弘子は相槌の代わりに、軽く笑った。

「久野さんの新聞社は忙しいんじゃないですか」

「忙しいち。人手不足でてんてこ舞いよ。先週も稲和大学に出かけて、牛の研究と心理学実験とウイルス感染症の研究を同時に取材して、その足で高齢女性の自動車事故の現場まで行って取材して、すぐに車で支局に戻って原稿の入力でしょ。

 そんなときに限って紙面に対する意見の電話がかかってくる。コピーを何部取って、とわたしみたいなベテランも新人と同じ扱いよ。立っているものは親でも使え、って言うぐらいに人使いが荒いの、うちのデスクは」

「でも活気があっていいじゃないですか」

「産婦人科も女同士おしゃべりで賑やかなんじゃないの?」

「ええ、そのとおりです。ママさんたちが妊活の情報交換をしたり、出産のアドバイスを私の代わりにしてくれたり、そうかと思うと、中絶する女子高生が彼氏に付き添われて来ていたりして。産むのか産まないのかの選択の分水嶺ですね」

「なるほど、うまいいい方ね。やることは同じでも、抱えている境遇で、この世に生まれてくる命もあれば生まれてこない命もあるわけね」

「じゃっど。私も同じようなことを患者さんに言いました。尊い命なんだから、よく考えて決めて、産むからには責任と愛情を持ちつづけて育てましょうっち」

「ところで、旦那さん、いい男だけどあっちの方はだいじょうぶなの?」

「あっちってなんね?」

「浮気よ、浮気」

「もてる顔立ちなのかもしれないけれど、家族命ですから、心配してません。娘の面倒もよく見てくれるし」

 話が尽きないうちに、お昼の時間を迎え、両家は同じレストランで昼食を摂った。

 昼食を終えて、現在の話から出会ったときまで遡り、いろいろな思い出を雑談しているうちに、あっという間に一三時半になった。

 子どもらを呼び寄せイルカプールに移動し、二〇分間のイルカショーを見た。イルカ三頭がプール全体をぐるぐると泳ぎ回り、水中でぐんぐん加速して、水面から二メートルあまり上の高さに用意した輪を次々に飛んでくぐり抜ける。タイミングを合わせて一斉に高くジャンプし、四メートルぐらいの高さに吊り下げたボールに頭でタッチする。尾びれを使って水面上で立ち泳ぎをし、観客席に向けて水しぶきをはねあげる。イルカたちの躍動ぶりに、久野も弘子も大きな拍手を送った。

 イルカショーが終わり、昼の三時に久野らは加瀬一家と駐車場で別れた。

 あれからもう一月がたったのだ。

 轍を走りながら、クルマのダッシュボードの光る時計を見つめた。八時一五分とデジタルで表示されている。猪里警察署を出たとき、腕時計を見ると八時前だった。

 お腹がすいていた。もうこの先には、いまごろの時刻に開いている店などないはずだった。早く実家に辿り着きたかった。

 町を出て、三〇分も走った、一本道から枝分かれした道の先に実家を含む集落がある。その道は舗装されておらず、砂利道だった。

 細い山道を上がっていくと、実家の手前で人が倒れていた。夜道で水銀灯が照らしているところに人が地面にうつ伏せになっている。

 だれだろう?――髪の毛の長さから女なのか。

 車を停めた。降りて確認しようとしたら、人だと思ったのは等身大の粗末な人形だった。服を着せ、かつらをつけてある。なんだ、手の込んだいたずらか。

 次の瞬間、かがんだ背中をだれかに強く突き飛ばされた。いや、蹴り飛ばされたのだと思ったときには、山の中腹まで体ごと谷へ転げ落ちていった。切った杉林の斜面を転がるように滑り落ちていく。太い杉の根株にぶつかって止まった。

「あいたたた」

 ぶつかった背中が痛かった。背筋が凍りついた。顔見知りの集落でこんな悪さをするガキや大人などいるはずはなかったからだ。そのことを思うと再び戦慄が走った。

 車道まで上がるのが恐かった。まだ自分を蹴落とした犯人が潜んでいるかもしれない。山の斜面を慎重に這い上がりながら、なにかあったら体ごとぶつかってやれと身構えた。一歩、また一歩と歩みを進める。上の車道のあたりは何事もなかったかのように不気味なほど静かだった。梟の鳴く声がするだけで物音ひとつしない。

 山の斜面を滑り落ち、髪も服も土まみれになった。

 社会部にいた駆け出しの当時、首までしかなかった髪を最近になって伸ばし出し、今は肩口までになった。毛先に軽くウエーブがかかっている。仕事をする上ではどちらでもかまわなかった。仕事のときは、どのみち髪を後ろで留めている。人と会う部署に戻され、町中や他社で人と会ったり、こちらから声を掛けたりするときの印象を大事にしようという意欲の表れだった。それで今の髪形に落ち着いた。その分、服装は年相応で落ち着いているから、ちょうどバランスの取れたいい感じだ、と社内では褒める同僚らがちらほらいる。自慢の髪の汚れをざっと手で払い落とした。

「やっと車が見えたわ」

 クラウンの影が心の動揺を落ち着かせた。

 どうやら周囲にはだれもいないらしい。ドアを開け、運転席に座ると背中にびっしょり汗をかいていた。

 こんな経験をしたのは初めてだった。明らかに、自分を標的にしているだれかがいる。学生時代にもこんなひどいいじめやいたずらなどはなかった。男と喧嘩しても、小学生時代ならば勝っていた。

 気を取り直し、車を発進させる。

 すぐに実家に着いた。

 墨で門倉幸一郎と書かれた木の表札を見て、母の笑顔が浮かんできた。

 カーポートにクラウンを停める。

「お帰んなさい。どけんしたち? 服が泥まみれじゃがね」

 開いた玄関の扉から、母の真由美の甲高い声がする。

「ちょっと裏でこけた」

 久野は言い訳をした。耳を澄ますと集落の下を流れる川のせせらぎが聞こえる。さらさらとした音は、まるで合唱のコーラスのようだ。

「母さん、帰ってきたよ。わたしの息子は途中で自宅に戻った。きょうはえらいことがあっての」

「じゃっど。町のあちこちで噂が立っちょっど。ねえ、もひたあ。まあ上がらんね」

 玄関で靴を脱ぐ。土の香りがする。自分の靴と隣の長靴に土がついていた。

「やっぱり我が家は落ち着く」

「じゃろだい」

「せっかく骨休めで来たのに、警察に例の事件でしょっ引かれてのう。写真を撮ったど、遺体の」

「たいへんだったね。お疲れさん」

「うん」

 短くこたえ、洗面所に行き化粧を落とし、髪留めを外してあらためて櫛で髪を梳いた。顔の汗をタオルで拭い、居間に戻って、

「新聞の取材じゃ。新聞記者として黙っておれん」

「休みで帰ったのに、しんどかことよねえ。まさか地元で大事件が起きるなんて」

「わたしはよか。休みはまた別にもらう」

「これからいけんすんのか」

「また、明日も猪里署に行く。しばらくここに泊まっせ、事件の様子を取材して部下の新人に記事を書かせにゃならんど。写真を撮っせ、部下の文章を書き直しっせ」

「まるで現地の特派員やが」

「そうじゃ。部下は新人でね。新人一人では荷が重すぎる。援護せにゃならん。彼だけでは頼りなかこつよ」

「ええ、そうね。N新聞に変わりはないのよね?」

 両親は娘の記事を読むのが嬉しくて、入社以来ずっとN新聞を取りつづけていた。新聞記者になった当時、両親は、インテリの娘じゃ、と自慢し、ぜひN新聞を取ってくれ、と近所に頭を下げて回っていた。その光景を久野は目に焼きつけていた。

「ずっとN新聞ひとすじよ。デスクもな。大きな事件じゃっど、徹底して取材せいちゅうてはっぱをかけちょるが」

「じゃっど」

「あたいも今日は少し参ったち」

「まあ、疲れたでしょ。これでもたもんせ」

 真由美は冷蔵庫からミカンを出して、皿に置いた。

「いただきます。車が途中でパンクしてな。それもいま考えるとおかしか、と思うちょる」

「なしてそげな」

「わからん。だれかのいたずらかもしれん。家を出るときはなんも異常はなかったのよ」

 ミカンの皮をむきながら、真由美の顔色をうかがう。殺人事件の噂をどの程度知っているのかは分からないが、皮をむき終え、ひと房を摘まんで口に放り込む。

「まあ、わけえ衆はよお。インターネットだの引き籠りだのあるしのう。南町でもあるちて。よう分からんわ。普段はきちんと挨拶できてもな」

「じゃっど。一定の期間が立てばな。日本中のどっかの町で似たような事件が起きるど。それは止められん。教育の質が落ちたんじゃなかか、ち思うちょる」

 久野は意見を言った。

「親がよう躾んのよね」

「じゃっど」

 しばらくして、車の音が聞こえて家の前で止まった。幸一郎が帰ってきて扉を開けた。父は外出から戻り、会話に加わった。

「久野、久しぶりよな。元気しとったか」

「ああ。元気や」

 ちょうどそのとき壁の柱時計がボーンボーンと九回鳴った。腕時計を見たら晩の九時きっかりだった。

 テレビを点けた。九時のニュースだ。

「どれ。夕飯を食べとらんでしょ」

 真由美が訊ねた。

「わたしはいっでんよか」

「あたしらはもう先に食べた」

「疲れて腹もすいたじゃろ」

 幸一郎が言う。

 久野は、テレビの画面に食いついた。

「稲和県猪里市南町の温泉で、水死体が発見されました。遺体は女湯の湯船に浮いた状態でした。警察によると、部活動帰りの中学三年生、沖本陽菜乃さんではないかと見られています。他殺の可能性もあるとみて現在も取調べがつづいています」

 七時の記者会見の時点では、被害者の名前は伏せられていた。部活帰りの中三女生徒か――。

「女子中学生ちね。沖本さん言うたら、南町の消防士の娘やないけ」

 さすがに幸一郎はよく知っている。久野も思い出したように、

「じゃっど。わたしは、沖本さんと一つ違い。猪里高校で一緒やった。彼は中高で柔道部、わたしは中学までの柔道を辞めて茶道部。勉強は向こうがもっとできたど」

「久野の息子も中三じゃなかか」

 台所の奥から真由美が口を挟む。

「じゃっち。うちの子は利発じゃけ、こげん事件には巻き込まれん」

「じゃろだい」

「第一、関わらん。まあ被害者は中学のおなごじゃち。大人がその気になればいけな方法でも殺せる」

 恐ろしいことを言った手前、少し黙り込んだ。子どもが男でよかったと思った。息子がいる関係で、残業しても夜八時には社を出ている。産休と育休を取ったときは、会社に戻れるのかと何度も上司に確認を取った。そのたびに、ひと回り上で当時副編集長だった土門は、

「Qちゃん、大丈夫だって。ちゃんと君の机は残しておくから」

 と休学中の女子高生を宥めるように言い聞かせた。

 徳広を身籠りお腹が気になり出してから息子が一歳になるまで、仕事を休んだ。

 内海市内の自宅にいた夕方に陣痛が始まり、市内の病院にタクシーで向かった。

 病院に着いてから、ちらっとお腹を見られ、すぐベッドに寝かされた。

「ちょっと眠った方がいいわ。その方が進むから」

 助産師の態度になぜか腹が立った。久野はちょっとキツイ印象を受けた。

「あなた、まだわけね。二〇代?」

「ええ、そうよ」

「年下なのに生意気ね」

「お産の立ち会いに年の上下なんて関係ない。私の言うとおりにして」

「う、う。く、る、し、い……」

 久野はベッドの上で呻いた。

「まだ少し時間がかかるわ」

「とっても痛いの。締め上げるような」

「苦しくても息を止めないでね。息を吐くことを心掛けて」

「息を吐くのね」

「そう。思いっきり深呼吸して」

 やがて夜も更け日付が変わったころ、分娩台に載せられ、一時間足らずで男の子を出産した。

 陣痛前に助産師と口喧嘩したが、そのあとの処置で彼女とはすっかり仲良くなった。

 初産のとき、分娩室で立ち会ったのが、助産師の弘子である。当時、彼女は四つ下で、まだ独身だった。後に、加瀬という医者と結婚した。彼女も子どもを産んで育児を終え、いまは内海市内の産婦人科のクリニックで働いている。

 その当時、久野は三三歳。厄年での出産であり、たいへんなお産になりはしないかと不安だったのを、弘子が励ましてくれた。

 あれからもう一五年の月日がたっていた。

 お産以来、彼女とはいい関係が続いている。あのとき、感情的になっていて逆に怒られたけど、向こうはお産のプロだ。無事に徳広を産め、弘子に感謝する気持ちに変わった。

 夫がまだ生きて働いていた頃、職場に復帰した久野は、町で弘子に再会した。顔はよく覚えていた。

「あら、弘子さん、元気?」

「川畑さん? 息子さんもご一緒で」

「奇遇ね。日曜日に同じファミレスで顔を合わせるなんて」

 久野は夕食を外で食べに、家族で来ていた。照れて久野の後ろに隠れる徳広に、弘子は語りかけた。

「お母さんに付き添ってきみが生まれたんだよ。いま、いくつ?」

 指を四つ突き出して、徳広は笑った。

「四歳か。私のお腹にも子どもがいるの」

「どうも、夫の加瀬と申します」

「結婚して、子どもを授かったんですね」

「ええ、僕は医者で妻が助産師。職場結婚です」

「弘子さんは、小柄だけど美人でエネルギッシュなタイプだもんね。職場のドクターの心を射止めたんだ」

「そういうことになるかしらね」

 弘子は上目遣いに旦那を見上げた。

「では、これで」

 加瀬が頭を下げ弘子は久野ら一家に手を振って、ファミレスの駐車場で別れた。

 それ以来、久野は加瀬弘子とよく連絡を取り合い、子連れ同士で市内の飲食店やショッピングモールで待ち合わせた。食事や買い物を一緒にして、家族ぐるみで仲良くしている。


 数年後、夫は過労で倒れ他界した。

 夫は家族のため身を粉にして働いてくれた。毎日夜遅くまで残業し、家計を支えてくれた。休日ですら出勤することもしばしばで、家族が揃ったときやっと一家で会話ができた。本音を言うと、久野も夫も朝遅くまでベッドで眠っていたかった。が、遊び盛りの息子を連れ、外出せざるを得なかった。

 夫が亡くなる直前、兆候はあった。帰宅して青い顔を浮かべ、息苦しそうにしてソファーにドカッと腰を下ろすと、目を閉じたまま二〇分ぐらい身じろぎひとつしない。

「あなた、だいじょうぶ?」

「う、うん……」

 小さな声で答えるのがやっとといったありさまだった。綿のように疲れていそうだった。久野は、このままでは夫が体を悪くするのは時間の問題だろうと思っていた矢先、会社で仕事中に突然倒れ、病院に運ばれたという知らせを携帯で受けた。

 慌てて病院まで車を飛ばし、病室に着いたときには、カーテンが閉められていて、中の人間はだれも言葉を発しなかった。

 ベッドに横たわった夫の瞳孔は、開きっ放しだった。医者は静かに言った。

「ご主人は先ほどご臨終になられました。急性心不全でした」

「まさか……」

 久野は言葉を失った。現実を受け入れるまでに時間がかかった。付き添っていた夫の会社の上司は、

「ここ数か月、川畑さんの残業時間は月一〇〇時間を超えていた。申しわけなか」

 と深々と頭を下げた。久野自身も残業の日々であり、なにも言い返せなかった。

 葬儀の喪主は久野が務め、涙混じりに弔問客を前に挨拶をした。喪服姿の弘子が駆けつけ、「がんばってね」と彼女もハンカチで目元を押さえ握手し、肩を抱いて励ましてくれた。

 義父母と徳広の四人暮らしは変わらなかったが、夫の抜けた穴を埋めるため、遺族年金を受け取りながら仕事に精を出した。

 副編集長の土門は、

「一年と少し休んでいたち、仕事に復帰してもなかなか慣れんじゃっど。どうじゃ、しばらく社会部を離れて、整理・校閲部に行かんけ?」

「はい、そうします」

 久野は土門を信頼していたから、素直にすすめに従い、育休後から校閲部に移った。

 校閲部での仕事は、出来上がった原稿に目を通し、文字の誤りを訂正したり、内容の正しさを確認するためインターネットや特殊な辞典などを使って固有名詞や日付に誤りはないか可能な限り調べ上げたりする作業が主である。

 初校を終えるとデスクが再校し、直しを入れて校了にしてから整理部に原稿を送る。整理部の記者は、実際に組んだ紙面でさらに見出しや写真と記事が合っているかを見てチェックするが、版ごとにレイアウトの変更などがあり、初校と組んだ紙面での校閲を繰り返す。限られた時間内に一つひとつ丹念に確かめていく仕事は、内勤とはいえ、プレッシャーのかかる、慌ただしい仕事だった。

「Qちゃん、ここ調べてみて」

「はい、わかりました」

 デスクの要請に即答し、パソコン画面上で調べながら、

「デスク。この年にそれは存在していません」

「やっぱりそうか。訂正文を入れといて」

「了解です」

 中平デスクと短時間でのやり取りはもちろん、近くにいる先輩も、

「その外国人選手の表記は、こちらが正しいんじゃないの?」

 と指摘してくれるのはありがたかった。

 ペンを持つ右手の指のあちこちに赤ペンの汚れがつくと、

「ああ、きょうも仕事を頑張った」

 と感慨深くなったものだ。


 産む前から一年数か月、N新聞を休職していたことになる。小さな徳広を育てるのに精一杯で、残業をこなすのが当たり前の職場では、帰宅して徳広に晩ご飯を食べさせる余裕などなかった。夫も深夜に帰宅する生活だったので、徳広の世話は実姉の知代に頼るしかなかった。幼い徳広は目が離せず、義父母任せにはできなかった。

 昼間、徳広は保育所へ行き、夕方から姉に面倒を見てもらった。徳広にとって、いわば知代が母役であり、父役となった。

 朝早くに出て、夜遅くに帰宅する生活の久野は、知代の存在がありがたかった。弁当も作らず、授業参観にも行けない。運動会だけは姉妹で応援しに行った。

 しばらくは義父母の一軒家で家族六人賑やかに暮らしたが、不幸にも、徳広が八歳のときに夫が過労死、一〇歳のときに姉が乳がんで他界。それ以来、川畑親子は四人家族となった。強くて物事に動じない心を持たせようと思い、徳広に小学三年生から剣道を習わせ、いまも続いている。

 四年前から徳広に携帯を持たせた。外で遊んでいるときになにか変なことが起きたら、すぐに久野の携帯に電話するように言い含めてある。

 最初こそ久野も心配だったが、携帯の着信音が鳴らないのは、天国の夫と姉が優しく見守ってくれていると思うようにして心を落ち着けていた。

「ほんにのう。犯人は男じゃろか」

 幸一郎はテレビを観ながらミカンを摘まむ。

「わからん。ないごて、あげん殺し方をしぃちょったかもわからん」

「さあ、晩御飯ができたよ」

 真由美が久野の分のご飯と漬物を食卓に並べだす。

「少しずつたもってね」

 真由美が背中を向けると、コンロからいい匂いが漂ってきた。味噌汁の甘い匂いだ。真由美は冷蔵庫から刺身を取り出して小皿に取り分けている。

「ヨコワ。おいしいよ」

 真由美は嬉しそうに言った。ヨコワとは、この辺では九州近海で獲れるクロマグロの幼魚のことを指す。稲和県ではブリも養殖しているが、門倉家はみなヨコワの方を好む。

「やはり養殖よりか天然もんやなあ」

 久野はヨコワを食べながら呟いた。真由美は、豚肉に大根、人参などの入った味噌汁を温めて、久野の前に置いた。

 久野はしばらく味噌汁とヨコワを食べ続け、腹いっぱいになった。

「腹いっぱいたもった。よかでなあ。ごちそうさん」

 テレビで明日の天気予報を確かめてから、リモコンで消した。

「風呂が沸いちょるけ、適当に入ってね」

 真由美は後片付けを始めた。

「あいがて」

 その晩は、夜更けまで事件の様子を幸一郎と語らい合った。母の真由美は先に寝た。

「こげん辺鄙な町で殺人か。ほんにもひたなあ」

 幸一郎はまだよそ事のように語った。

「風呂場に死体が浮いちょった。あたいはこの目でしかと見た」

「ほうで。恐ろしかことやのう」

「ほんに恐ろしか」

「早うに犯人が捕まらんと表を歩けん」

 幸一郎は眉間にしわを寄せた。

「そうよ。こっちに帰った日に突然出くわせっせ。あげんこつは、わたしの人生にもなかことよ」

 久野は口を尖らせた。

「そらそうや。内海でも猪里でも起こらん。南町ではあちこちで、男ん衆もおなごん衆も騒いじょる」

「このまま捕まるやろか」

 久野は訊ねた。

「じゃろだい。そげん残酷なこつばする犯人は、がっつ悪か人たい。警察が本気で動けばこん狭い町ですぐに見つかるて。悪い人間はよそ者か変人と相場が決まっちょる」

「じゃっど」

「とにかく、おまえ、疲れたじゃろだい。風呂入って嫌なことは忘れなさい」

「いや、仕事があるでよ。きょうの事件の原稿を書いて、新聞社のデスクに送らにゃならん」

 久野は食卓を離れて、隣の部屋に移動した。部屋の灯りをつける。

「チンチンボッボッきばいやんせ(少しずつマイペースでがんばりなさい)」

 幸一郎の励ます声が台所から聞こえた。

 机の上を整理して、トートバッグの中から大学ノートと筆記用具を取り出す。

 原稿を書く前に、トートバッグに入っているデジカメの画像を見直し、使えそうなものを一枚選りすぐっておいた。

 やおら大学ノートに原稿を書き出した。書き始めると、会社の雰囲気そのままのモードに突入した。時間のたつのも忘れて書くことに集中し、夢中になって事件を正確に書きとめる。犯人かその協力者と思われる人物からの妨害行為にも腹を立てていた。とにかく、私憤は横に置き、正確な事実だけを書いた。

 死体の様子、目に焼き付けた風呂場の状況、発見した当時の時刻、今日の日付と天気。さらには、第一発見者の番頭から聞いた証言、取り巻いていた住民らの様子と感想など、記事には向かない現場の様子も書いた。カットされるだろうが、取材源に最初に居合わせたものとしての現場の空気感は、あとから駆けつけた飯野やテレビ局などより、久野の方がよく把握しているといっても過言ではない。それだけの自負があった。

 それらの情報は、あとで特集記事を書いたり、データベース化したりするときに役立つかもしれなかった。

 壁掛け時計を見ると、十時を回っている。

 五分ほどして、携帯にメールが届いた。飯野からだ。原稿の文字を目で追う。久野は送られてきた飯野の原稿を校閲した。自分の分と合体させて原稿らしく編集し直し、文章を携帯に打ち込み、写真を添付して飯野とデスク宛てに送信した。

 壁時計を見やると一一時を回っていた。

 久野にはひとつ気がかりなことがあった。現場の警官の小声で話した言葉がそれだった。

 交番に遺体発見の電話がありもした。四時きっかりに――。

 それがほんとうならば、犯人は三時から四時のあいだ、もしくはそれ以前に少女の殺害を実行し、湯船に浮かべた。いずれ従業員が見つけるはずなのに、四時に交番へ電話を掛けて遺体を見つけたと知らせ、わざわざ警察を呼び寄せたことになる。だれが聞いても、綿密に計画された犯行なのは明白だった。

 犯人は冷酷かつ大胆で緻密な知能犯、というイメージが浮かび上がった。

 もし、今回の一件だけで終わらずに次々と犠牲者が増えてゆくならば――。

 そういうネガティブな展開を考えるのはよそうと思った。その話自体が不謹慎であり、遺族への気持ちを考えると空恐ろしい。逮捕できない場合などと考えてしまうのは、自分が弱気になっている証左だと思った。

 外で人の歩く気配がした。縁側の窓を開けているので分かった。

「だれ? だれね?」

 その直後、真夜中だというのに、表の郵便受けにぽとりと紙の落ちるような音が聞こえた。ここら辺は静かだ。都会と違う。ダイレクトメールを郵便受けにポスティングするといった習慣はない。

 鄙びた町はずれの場所では、車の音以外はほとんど夜に音などしない。音が聞こえるとしたら雨降り前の蛙の鳴き声ぐらいだ。

 少々気味が悪かった。音の正体を確かめるのが。いろいろな出来事が一度に久野に降りかかってきた日だ。

 それでも意を決し、玄関の引き戸を開けた。人影が見えた。スタスタと音を立て、素早く走り去るのが見えた。軽い足取りに聞こえた。

 郵便受けを見ると、折りたたんだ紙一枚があった。

 部屋に戻り、灯りの下で紙を広げた。そこにはワープロで書かれた大きな文字で、


   記事を書くな。深入りするとおまえが犠牲になるぞ。


 と横書きに書かれていた。

 ひどく心が痛んだ。犯人は久野が新聞記者と知っている。知った上で、関わるなと警告してきた。仕事に対する妨害であり、同時に久野個人に対する犯人からの挑戦状ともとれる内容である。

「けっしてひるむもんですか」

 心の中で叫んだ。握りこぶしを固めた。紙を四つに折り畳み、トートバッグの中にしまった。

 疲れていた体が、鉛に溶けていくようにどんよりとして、いっそう疲れた。

 久野は風呂が沸いていたのを思い出し、幸一郎を残して入った。

 脱衣して背中をよじって鏡を見る。青紫色のあざができていた。

 風呂から上がると、内海の自宅に電話を入れた。徳広が無事に帰ったのか、母として心配だった。

「もしもし」

 久野は疲れもあって、少し掠れた声になった。相手が黙っているので、もう一度、

「もしもし、徳広?」

「母さんか」

「遅くにごめんね」

「母さん、おれはちゃんと帰れたよ」

「よかったわ。おまえになにか起きたら、母さん飛んでいくからね」

「大げさだよ。それより、仕事、たいへんそうだね。さっき、ニュースみたよ」

「そうなの。稲和県内だけじゃなくて、全国版のトップニュースになるくらいだからね」

「今晩は早く休んで疲れをとってね」

「おまえは優しいね」

「とくに変わったところもないよ」

「次に休みをもらえたら、またどこかへ連れてくからね」

「うん。おれ、温泉でなくても、なにかおいしいものを食べに行くのでもいいよ」

「ありがとうね。とにかく、無事でよかったわ」

「だいじょうぶだってば」

「ついでだけど、そちらで変わったことはなかった?」

「別にないよ。内海市内は平和だよ」

 息子の声色で、向こうはいつもと変わりのないのを知った。

「明日の晩も、また電話するよ」

「うん、わかった。じゃあ、夜も遅いから、おやすみ」

「おやすみなさい」

 固定電話の受話器をそっと置いた。

 息子の声を聞けて、平穏無事を確認でき安心した。

 その一方で、明日からのことを考えると、不安で押しつぶされそうになった。布団にくるまり、固く目を閉じた。脳裏に現場の光景が焼き付いたのと、崖から突き落された衝撃、あの脅迫文。それらが一日のあいだに起こり、興奮と恐怖のあまり寝つきが悪かった。

 隣の部屋では、祖父の仏壇の前で、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、と念仏を唱える幸一郎の声が小さく聞こえた。

 久野は、祖父の魂とは別に犠牲者となった沖本陽菜乃の冥福を祈った。明日、時間があれば、渓山荘の現場に花束の一つでも捧げようと誓った。同じ町で暮らした人間として、一人の大人として。

 明日は朝から飯野を連れて警察回りの仕事が待っている。帰省して親孝行の一つでもしたかったけれど、当面、事件の真相をつかむまで、ここは単なる食事付きの定宿でしかない。

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