第4話 五月五日(土曜日)

 朝は夢のせいで二度寝して遅く起きた。幸一郎がランニング姿で寛いでいる。真由美はエプロンをつけ、台所から、

「よく眠れたね?」

 と訊ねてきた。

「まあまあ。ちょっと疲れがピークに達しているかも」

 久野は言わなくてもいいことを口走ったと後悔した。

「大丈夫け? 疲れちょるときは失敗が起こりがちじゃち」

「うん。気をつける」

 母にいらぬ気を遣わせてしまった。でも疲れているのは確かだった。体が重い。

 洗面所で顔を洗い、瞼の垂れ下がった素顔を見た。部屋に戻っていつもの服とカーディガンに着替えた。

 台所に行き、新聞は読まずにテレビを点けた。東京キー局のワイドショーで、猪里市連続殺人事件の特集が長々と流れている。そのあいだに炊飯器からご飯をよそった。

「視聴者の皆さん。楽しいはずのゴールデンウィークのさなか、稲和県猪里市では、残忍な連続殺人事件が止まりません。なんということでしょうか。住民の方々も毎日不安に怯えている模様です」

 テレビカメラはリポーターの男を映し、男は長々と説明した。画面が切り替わり、市民の生の声になった。

「おいどんも水曜、木曜と事件があったので警戒しちょったけど、金曜にまた事件が起きて、ほんとうに残念です」

 市民の一人が首から下を映され、答えている。

「猪里もこげなことで注目を浴びてかなわんちよ」

 真由美は渋い顔をして横目でテレビを睨んだ。

「じゃっど。だけどよぉ。なんとか警察の力で犯人を捕まえてもらわにゃ」

 久野はご飯を口の中に運びながら答えた。

 テレビはなおも昨日の事件の様子を報じた。

「昨日午前十時頃、匿名で遺体発見の電話が猪里署に届きました。市内に鐘楼の櫓があるのですが、鐘の鳴るのに合わせるようにして毎回警察に電話があるらしいです。猪里署員が現場に急行し、南陽信用金庫で遺体が見つかりました。職員で主任の方が金庫を解錠すると、おどろくべきことに、札袋の中に男性の遺体が入っていたのです」

 そこでいったん南陽信用金庫の建物全体が大きく映し出され、すぐにコマーシャルに入った。久野はテレビをリモコンでオフにした。

 待ちかねていたように、携帯の着信音が奥の部屋のトートバッグから鳴り出した。

 朝からだれだろうと思った。

「もしもし、徳広だけど」

 息子だった。ほっとした。

「なに? 何かあった?」

「あったのはそっちの方でしょ。事件が多くてたいへんじゃないかと思ってさ」

「まあ、徳広まで心配してくれるのね。ありがとう、だいじょうぶよ」

「犯人、早く捕まるといいね」

「そうね。もうすぐ捕まるわ。きっと。それより、内海の家は変わったことはなかったの?」

「全然。友だちと映画に行ったぐらいで退屈しちょるよ」

「ごめんね。せっかく猪里のお爺ちゃんたちと再会できるはずだったのをだめにして」

「いいって、そんなこと。早くこっちに帰ってきてよ。母さんの作るハンバーグが食べたいな」

「まあ、嬉しいことを言ってくれるのね。もうじき帰れるからね」

「仕事、がんばってね」

「はい、分かったわ。じゃあ、また」

 久野は息子からの電話を切った。ちょっぴり元気が出て鼻を鳴らした。

 いつものように出掛ける準備をして、「行ってきます」と告げた。幸一郎は庭いじりをしていたが、おう、とだけ言って片手を挙げた。

 クラウンに乗り込み、窓を開けて走りながら空気を入れ替えた。

 途中、コンビニに寄り、クロワッサンを買った。

 道なりに走り、ガソリンスタンドで給油するために入った。ガソリンを入れてもらっているあいだを利用して、久野は実家から持ってきた五日付のN新聞に目を通した。

 N新聞の朝刊の一面の左下の方に、連続殺人事件の記事が出ていた。扱いは三段抜きの見出しで、ある程度目立っている。殿田専務はまだ怒っているかもしれない。


 三日続きの殺人か? 猪里市 四日(金)午前十時過ぎ、猪里市南町三丁目の南陽信用金庫南町支店で、農家の宇志窪悟さん(六四)とみられる遺体を同支店職員が発見。警察が駆けつけて死亡を確認した。遺体は施錠された金庫内の札袋に入れられていた。死因は農薬による劇物死。県警は他殺と見て捜査している。今回の事件と一昨日から続く二件の殺害との関連を含め、猪里市連続殺人事件捜査本部は引き続き犯人の足取りを追っている。


 ほとんど、原稿の内容のままであり、死因を加えた点を確認し、久野は新聞をポンと助手席に放った。

 猪里署の二つ手前の交差点で鐘が九回鳴った。赤信号のあいだに、携帯のメールフォルダを見たが、新しいメールは来てなかった。

 庁舎に入り、駐車場に車を停めた。昔の新米記者時代と違い、庁舎の中に入れないのが歯がゆかった。長里か藤宮を待ったが二人の姿は拝めず、すでに中に入っている様子だった。

 事件が発生するまで、こちらはまた受け身の状態で待たされるのかと思っていたら、一台の車が入ってきた。稲和県警と書かれたパトカーがゆっくり停車する。中からグレーのスーツ姿の刑事が車を降りて出てきた。どこかで見かけた顔だ。背は高くないが肩幅が広く、いかにも体育会系のようながっしりした体格で、六〇過ぎの風格を漂わせている。付き添いの制服姿の警官が、

「島谷警部。捜査本部の今日の会議は……」

 と説明する声が耳に入った。名前に馴染みがあった。新人時代の思い出が蘇った。髪こそ薄くなっていたが、あの島谷である。サツ回り初日に会った刑事――。サツ回りを終えたあとも、しばしばその活躍ぶりや評判を耳にしていた。優秀かつ敏腕で、難事件をいくつか担当し、解決に導いた功績を持つ刑事。あれから出世の道を歩まず、現場に残りたいと申し出て、警部の職に留まったという噂を聞いていた。

 ついに、切り札の投入か。

 県警本部の島谷刑事が捜査本部に加わり、士気が上がるのを期待した。久野は事件の解決に胸を膨らませた。今のうちに昼ご飯を確保しておこうと、歩いて庁舎近くのスーパーに行った。お菓子と紅茶のペットボトルを買って、庁舎前の車に戻った。

 スーパーでタバコ屋のおばさんを見かけた。向こうから話し掛けられた。昔から知っている、南町に三軒ほどあるタバコ屋の一つだ。

「陽気がいいわね」

「じゃっち。五月になって春物を着ていると、日中に暑くなるでしょ。汗ばんで」

 久野は朗らかに笑った。

「じゃっど。上っ張りを脱がにゃならん」

「そうなのよ。わけ人たちと違って着る服に困りますよねぇ」

 久野はクラウンに戻るのをあきらめ、しばらく相手と話を合わせた。

「川畑さんは新聞記者を今もやっちょるの」

「ええ。お産と育児で少しのあいだ休職した以外は、かれこれ二五年やっちょります」

「へえ、そうね。ベテラン記者じゃち」

「そうなんですが、今回のような事件は初めてです」

「町も東京からマスコミが押し寄せて、騒がしゅうてなあ」

「ほんとうにねえ」

 相槌を打つと鐘の音が十時を知らせた。

「事件の犯人は市長の娘じゃち、みんな陰では言うちょるよ」

「じゃろだい。まだ裏付けは取れちょらんけど、わたしも足取りを追ってるんよ」

「志保さんは猪高山の洞窟でキャンプしとるちて、ある人から聞いたどん」

「猪高山でキャンプを? ほんとうですか」

「噂じゃけど、夜に山道から降りてきて、南町あたりを歩いちょるのを見かけたちゅう人もおるでな」

「分かりもした。猪高山に登ってみます。ありがとやんす」

 重要な情報を得た。意外なところに真相は隠れているもんだ。

 猪高山といえば、幸一郎が登山好きでよく知っている。幸一郎に訊けば、目ぼしい洞窟が分かるかもしれない。

 スーパーから歩いて車に戻ってきた。トートバッグの携帯を開くと、社内からメールが届いていた。同じN新聞の遠山という中堅社員からだ。他のネタの取材を手伝ってくれという主旨だった。

 遠山は政治部だ。今、社会部で大事件が起きているのに、なぜ部を越えて協力する必要があるのだろうと首をひねった。そもそも遠山とは話を交わしたことすらなかった。政治部に協力せよなどという話は、デスクからも聞いていない。すぐに断りのメールを入れた。しかし、その後もたびたびネタの取材を手伝ってほしいとしつこくメールが届いた。

 仕事の命令は部署のデスクから割り振られ、政治部の遠山の仕事を、畑違いの社会部の久野が引き受ける事態など、本来あり得ない。「援軍」はよほどのことがない限り、しないはずだった。

 奇妙なメールにおかしいと勘づいた。久野は遠山をかたる人物が別にいると思った。その人物をおびき寄せようと、午後二時に南町の喫茶店で会いましょう、と約束を取りつけた。だれかが遠山のアドレスを悪用し、なりすまして仕事の妨害をしてくる予感がした。気づかぬふりをして敵の尻尾を掴んでしまおう。ベテラン記者の魂に火が点いた。

 猪里署に停めた車で待ちつづけたが、動きがない。今日は土曜日だ。土。どこの土に遺体を埋めるのか。南町や豊吉町など多くの町は、畑と田圃だらけだ。そこいら中に土がある。

 一時間たち、鐘が一一回。二時間たち、鐘は一二回鳴っても警察に動きはなかった。記者クラブから回ってくる報道メモのメールも来ない。手持ち無沙汰に思わず欠伸が出る。

 五月の照りつける強い陽射しで車内の温度はぐんぐん上がり、暑くて窓を全開にした。

 待ち合わせの時刻が迫るのに、犯人はいっこうに動いてくれない。

 鐘が一回鳴り、それを合図にクロワッサンを頬張った。

 あと一時間で待ち合わせ場所の喫茶店に行かねばならない。

 すると、庁舎から警官が二〇人ぐらい出てきた。殺しがあったのかと訊ねたかった。

 パトカーはサイレンを鳴らさず、庁舎を次々と出ていく。遺体が発見されたのではないだろうかと思った。情報を求めてパトカーの後を追った。

 パトカー数台は、猪高山方面へ向かった。犯人の身柄を確保するためなのかもしれない。先程のタバコ屋のおばさんの話が脳裏をよぎった。待ち合わせ時刻に間に合わなくなるのは分かっていた。犯人逮捕の写真の方が大事だからしかたのないことだった。

 警察は麓に到着した。停まったパトカーからぞろぞろと制服姿の警官が出てくる。久野も車を停め、トートバッグを持って後に続く。

 しばらく山を登った。やがて、洞窟が目に飛び込んできた。キャンプをした痕跡がくっきりと残っている。そこには、木炭で火をおこし黒く煤けた跡があった。だが人影はない。

「どうやら逃げられたか」

 先輩らしき警官の声が向こうから聞こえてきた。こんなことなら、前もって幸一郎に洞窟のくわしい場所を地図に描いてもらうんだったと悔やんだ。

 腕時計を見ると、約束の二時を過ぎていた。


   *


「どこかでよく目にする人が工事現場の土に埋まってるわ。きっと。いい気味ね。東の原町よ。だって、私が殺したんだもの。鐘が二回鳴ってるわね。二時ね。ふふふ。見つけてあげて」

 今回も猪里署の電話が鳴り、初めて殺害を告げて電話は切れた。またもや、女の声だった。警察が犯人を逮捕できないのをあざ笑うように、ふざけた言い草である。これで四回目だ。

「今回は、殺した、と女が言っちょる」

「場所はどこですか」

「東の原町の工事現場じゃち。すぐに応援を頼もう」

 捜査一課の刑事は電話に手を伸ばした。


   *


 警官は、下山する組とキャンプ跡に残る組の二手に分かれた。久野はどうしようかと少し迷い、下山する組を追って車を停めた場所に帰ってきた。

 下山組はパトカーに分乗し、サイレンを鳴らして発車した。事件だ。

 二時に会う約束をどたキャンして殺人を実行したのか。ここに来たことにほぞを噛んだ。二時に遺体発見の電話をかけたのだろうと思った。

 一時間ほど走り、東の原町の工事現場に到着した。腕時計を見ると、ちょうど午後三時半だった。すでに二台のパトカーが停まっている。

 現場にはブルーシートが掛けられ、こんもりとした盛り土を囲むように規制テープが張られていた。

「殺人ですか」

 久野は近くにいた警官の顔色を見た。

「まだ分からんち。遺体じゃ」

 怒ったような声で言い返された。その顔は明らかに動揺している。

 現場の写真を撮ろうとすると、

「ブルーシートは写さんようにな」

 と分かりきったことを言ってくる。小さな脚立を広げ、上に乗って工事現場と民家をカメラに収めた。

「遺体を見つけたち電話はありもしたか」

「そげなこつは言えん。公務員じゃち、職務に関わる秘密は喋れん」

 取り付く島もない言葉に、質問を変えてみた。

「島谷刑事は敏腕と聞いちょりますが、今回で連続殺人も終わりになるんでしょうか」

「なると期待しちょるよ。わざわざ他の事件を外れて駆けつけてくれたからね」

「ご苦労様です。わたしはこれで」

 久野は報道メモが出るまで、自分の足で目撃情報を集めて回ろうとした。

 近くの民家で話を訊いてみた。

「すんもはん。N新聞の者です。近くの工事現場で見つかった遺体についてお訊ねしたいことがありもして」

 久野はトートバッグのICレコーダーのスイッチをそっと押した。

「なんじゃち」

 化粧っ気のないおばさんが顔を出した。

「工事しちょるところの遺体のことで」

「ああ。あの男の人かいな」

「ご存知ですか」

「あれは市議の鷺沼さん。哀れな死に方で」

「どげな死に方じゃっち?」

「土の中に埋められちょった。作業員が、土の色がそこだけ違うもんで盛り土を三〇センチばかし掘り起こしたら、下着姿で死んじょった」

 久野は重要な証言を得て胸が高鳴った。

「市議の様子になにか変わったところはあっじょっど?」

「ええ、なんぞ体中に赤い、虫刺されの跡があったっち聞いちょるよ」

「虫刺され。そげなこつで死ぬやろか」

「わからん。毒虫かも」

「発見した作業員はいまどこに?」

「警察に呼ばれてパトカーに乗ったで」

「情報、あいがとごわした」

 いったんクラウンに戻り、大学ノートに判明した事実を手早く書き込んだ。ICレコーダーはスイッチを切った。万一の道具だ。

 南町の猪里署へ車を走らせた。

 庁舎に着き、携帯を開いた。報道メモがメールで届いていた。今日の事件に関することだった。

《稲和県警猪里署管内。容疑は殺人、被疑者不明。被害者は鷺沼紘一(六二)男、職業は市議会議員。容疑の概要は次のとおり。五月五日(土)、被害者は下着姿で猪里市東の原町の工事現場の盛り土に埋められ、死亡していた。工事の作業員が発見、県警が駆けつけ死亡が確認された。体中に赤い、虫に刺された跡があった。他殺と、事故死及び死体遺棄で調べを進めている。死因は不明で現在司法解剖中》

 民家のおばさんの喋った内容とだいたい一致していた。ただ、虫に刺されたのが死因に関係していそうな気がして、不気味だった。

 もう一通のメールを見る。政治部の遠山を語る人物から届いたメールだった。中を開いてみた。

《待ち合わせ場所を指定するから必ず一人で来てほしい。鳴沢ダムの貯水池に午後五時半に来てください》

 きっと犯人が遠山の名刺を悪用して、久野と接触を図ってくるに違いない。会う目的は不明だが、犯人と直接話をするチャンスだ、とやる気に火が点いた。自分たちの方から犯行を暴露するわけもなかろうが、都合の良い時間と場所を選んできた。

「慎重に行動しないとね。相手の罠にはまるわ」

 久野は心の中で呟き、用心深く応対すべきだと覚悟した。

 あとになってみれば、久野が上司の指示を仰がず、警察にも連絡せずに単独行動をとったのは、軽率でベテランらしからぬ行動だった。

 しかし、そのときは犯人に自首するよう説得を試みたい気持ちと、相手がもし襲ってきても力でねじ伏せてやるという度胸が勝っていた。

 庁舎から出入りするのは制服姿の若い警官ばかりで、午後も長里や藤宮の顔は拝めない。

 車の中で長く座っていると体を動かしたくなった。ドアを開けて外に出て、軽く足を曲げ伸ばししてみた。肩も凝っていたのでぐるぐると前後に回してみる。

 体を動かしながら、改めて犯人の殺害動機を考えてみた。休学中の志保は市長の娘なのに、なぜ親の顔に泥を塗るような真似をつづけているのか。殺人のほんとうの目的は何なのか。心に闇を抱えているのは間違いない。が、人を殺すだけの激しい憎しみはどこから沸き上がってくるのだろう。

 第一の被害者は志保が家庭教師をしていた生徒。首を絞め、全裸状態でビニール袋にドライアイスとともに入れて殺害した。覚えの悪い生徒だというが、若い命を奪うほどではないはずだ。

 第二の被害者は香港からの旅行者。志保の友人の民宿に泊まっていた。近隣で訊いた話によると、英語が通じない、現金しか使えない店が多いなどと不平を並べ、寺院で騒いで境内にゴミを捨てて帰ったらしい。外部の者に対して命を取るに値するほど李さんが悪さをしたわけではなかろう。志保との接点もない。

 第三の被害者は広大な畑を持つ農夫で、お茶に農薬を混入されて薬殺された。まだ訊き込みが不充分で志保との接点が見えてこない。志保に痴漢を働いたというのは、あくまで噂の段階だ。

 そして第四の被害者は市会議員の男。これもまだ訊き込みが足りないけれど、一番市長と関係が深いのではなかろうか。市議と志保の具体的な接点こそまだわかってないが、なにかありそうな気がした。

 これらのいずれかの殺人に深い怨恨があり、他はカムフラージュするための偽装殺人――。

 会って話をしてみないと腑に落ちないような疑問が、泡のように浮かんでは消えた。猪里署を出て鳴沢ダムへ向かったのは四時半を回っていた。

 一時間ほどして鳴沢ダムの貯水池に着き、車を停める。

 待ち合わせより五分ほど早く来た。どこを捜しても人影は見当たらない。

 柵越しに見える池の水面を見つめた。風が吹いてさざ波が立ち、立った波は静かにじわじわと広がっていく。空を見上げると、雲が山の上にたなびき、太陽をうっすらと隠している。

 本来なら、仕事を邪魔するようなメールは見て見ぬふりをして構わなかった。遠山の名刺は、政治絡みの取材で市長がもらったのを、志保がこっそり拝借したのかもしれない。絶対に相手は遠山ではない。犯人もしくは共犯者だと確信していた。

 最初に記事を書くなと警告したときから、いつか久野と対決しようと犯人は決めていたのかもしれない。

 そのときタクシーがやってきて、静かに停まった。扉が開き、赤い靴がちらりと見える。

 ハッと息をのんだ。姿を現したのは、あのときの背の高い旅の女、絵美。今日はデニム姿で、カツカツと靴音を響かせ、こちらへ向かって歩いてくる。

「やっぱりあなただったのね」

「そうよ。私が事件の鍵を握っているの」

 絵美は赤い眼鏡を外し、束ねていた後ろ髪をぱらりと解いて、長い髪を山から吹き下ろす風になびかせている。

「あなたは絵美という偽名を使って旅行者に扮した。でも、ほんとうは市長の娘、鹿原志保よね」

「それは認めてあげるわ」

「あなたが犯人なんでしょ? はっきり犯人と認めて自首しなさいよ」

「さあ、どうかしら。証拠でもあるの?」

 志保は顔色ひとつ変えず、小馬鹿にしたような言い方をした。

「わたしは許さない。どんな理由があろうと」

「言っておくけど、私は陽菜乃さんの遺体が発見されたとき、あなたたちと一緒に温泉に向かっていたのよ」

「それはあなたの仕組んだアリバイ工作よ。あなたは、共犯者か協力者の車の中にでも陽菜乃さんをおびき寄せ、彼女の首を絞めて気絶させた。そして、何人かで服を脱がせ、透明のビニール袋に致死量に相当するドライアイスと裸の陽菜乃さんを入れた。渓山荘の湯船に共犯者にビニール袋を浮かべさせる役をまかせて、あなたは素知らぬ顔で車を降り、スーツケースを引いて旅行者のふりをしてわたしたちに近づいた」久野はそこで言葉を区切り、ふーっと息を吐いてからつづけて、「おそらく、卓球部の練習着や道具などは赤のスーツケースに入れておいてあとで矢能川に捨てたのね。あなたは旅行者を装い、死亡推定時刻までわたしたちと一緒にいた」

「なかなかの名探偵ぶりね。私はほんとうに旅行中だっただけよ。それに、どうやってドライアイスなんて手に入れたのかしら? そもそも、ドライアイスなんかで人間は中毒死するものなの?」

「それはあとで調べれば、ネットにいくらでも出ていると思うわ。ドライアイスが危険な炭酸ガスに変わるのは、食品工場の人に教わってメモしたわよ。ドライアイスは溶けると七五〇倍の容積になって、たった一時間でも密閉された空間では人体に危険な値を越えることもあるって聞いたわ」

「まあ、そうなの。勉強家ね。よくそこまで調べたこと。褒めてあげる。でも、三日付のN新聞の記事には、二日の被害者の死因がドライアイスだなんて、どこにも書いてなかったわよ」

「それはわざと伏せておいたのよ。わたしたちマスコミ向けに、警察から報道メモというものが発表されるの。その情報を取捨選択して記事にする。報道メモには、ドライアイスによる中毒死とたしかに書いてあったわ。他人が面白がって真似ると危険だから活字にするのを控えたのよ」

「なるほどね。警察の発表を垂れ流しにするだけじゃないのね」

「皮肉はいいの。それより、殺人なんて、けっしてやってはいけないことよ。どんな理由であれ」

「私に突き落とされたくせに、いい度胸ね」

「それだけ元気があるのなら大学に戻りなさい」

「ふん、説教か。父と同じね」

「何なの? ここへ呼び出した目的は」

「私はN新聞が嫌いなの。新聞だけじゃない。猪里全体も嫌い」

「読まなきゃいいでしょ。わたしたちは公正に報道してるわ」

「とにかく目障りなの。あなたのような人間が猪里市をうろちょろしているだけで」

「なによ、それ。どういうこと?」

 腹が立ち、食ってかかろうと言葉を選びかけたそのときだ。志保の長い足が一周し、後ろ回し蹴りが久野の顔面に飛んでくる。危ういところで頭を後ろに反らしてよける。

 後ろ回し蹴りが通用しないと見るや、相手は間をつめて飛びかかってきた。大柄の体を利用し高く飛び上がると、素早く右膝を曲げての飛び蹴りが久野の体に炸裂する。久野は飛んできた蹴りをよけようとしたが、左腕に命中してしまった。

「痛っ!」

 思わず声が出て、右腕で左腕を押さえる。

 志保は口を歪めてニヤリと笑うと、長い手を伸ばし、久野の両肩をがっしりと掴んだ。少し腰を引いてから膝蹴りでも見舞おうとしたわずかの隙を突いて、肩を掴まれていた久野は相手の腕を持ち、自分の背中を丸めるようにして地面につける。相手の勢いを利用して右足を腹にあてがい、そのまま跳ね上げる。

カーディガンが汚れ、スカートがめくれようがお構いなしだ。

 次の瞬間、志保の体がふわりと宙を舞い、見事に巴投げが決まる。志保は背中からどさりと落ちた。

「くぅ……」

 痛いのを我慢するような声を漏らし、手で背中を押えた志保を、久野は上半身だけ起こして体をよじり、睨みつける。

「これでも中三までは柔道を習っていたのよ。負けないからね」

 デニム姿の志保は尻を地面につけたままでじりじりと後ずさりしながら、フハハハハと急に大きな口を開けて笑い出した。

「な、なんなのよ。そのふてぶてしい笑い声は」

 久野は自分より二回りは若い女にだしぬけに笑われ、顔を真っ赤にして怒鳴った。頭までおかしいのかしら。ゆっくりと立ち上がり、

「なによ。反撃するなら、かかってきなさい」

 尻もちをついたまま見上げている志保の目を見つめ、周囲に目をやったそのときだ。

 サササッとスニーカーのような忍び寄る微かな足音がしたかと思うと、急に目の前が真っ暗になって、次の瞬間には意識が薄れ気を失った。なにも聞こえず、なにも見えず、時間や空間の概念がどこのなにを基準にしているのか皆目わからない。

 どれくらい意識が飛んでいただろう。

 遠のく心の沼から這い上がるようにして、ぼんやり浮かぶ橙色の光に気付いたときには、寝床に仰向けに倒れ、呻いていた。

 急に目を開け、天井の光のあまりの眩しさに半開きになった。と同時に、後頭部がズキンズキンと痛み出した。そこでやっと、あのとき背後から何者かが素早く忍び寄り、後頭部を思いきり強く殴りつけて気絶させたのだ、と推測できた。志保は、前もって協力者を現場に隠れさせ、久野を後ろから狙わせていた。その瞬間を視界に捉えた。だから、気味の悪い、不敵な笑い声を上げ、勝ち誇ったような顔を浮かべていたのだろう。

「おお。やっと気づいたち」

 知らないおじさんが顔を覗き込む。

「ここはどこ?」

「知らんと?」

「知らんち」

「じゃろだい。わしの家じゃち。女の声で電話があってな。貯水池に人が倒れとるち言うて電話が切れもした」

「女って?」

「わしも知らん。聞いたことのない声じゃち。とにかく車を出して助けに行ったんよ」

「白のクラウンはありましたか」

「うんにゃ。車などなんもなかったど」

「そうですか。助けていただき、ありがとやした」

 あとでわかったが、そこは住居を兼ねた酒屋だった。

 鈍痛を頭に感じながら予測がついた。志保の連れの男が固いもので殴りつけ、志保は携帯の地図機能を使ってダム近くの商店を調べ、そこの酒屋に自ら通報したのだろう。

 志保は、N新聞や猪里が嫌い、久野は目障りだ、と心の中を打ち明けたが、心底から久野を嫌っていて憎しみを抱いていたのなら、連れの男にあの場で殺させることだってできただろう。そこまで及ばなかった理由は――。新聞記者に事件を書かせ、町の評判を貶める狙いがあるのかもしれなかった。市長の娘なのに、どういうことだろうか。その辺に屈折した心の闇が隠されていそうだった。

 愛車のクラウンはどこへ行ったのか。最初から久野の車を奪い、その車で逃げる計画だったのだ。トートバッグと財布は手元にあったが、車のキーがなくなっていた。

 頭を押さえながら、助けてくれたおじさんの家をあとにし、付近を歩いた。道路まで出てみたが、バスもタクシーも一台も走っていない、閑散とした交通量だった。

 もう一度さきほどの酒屋に戻った。

〝足〟をなくした久野は、ダムから少し離れた酒屋からタクシーを呼び、南町まで戻った。猪里署の手前でタクシーを降りた。

 空を見上げると、夕暮れが西の空を赤く染めていた。車を盗られた被害を届けるのが恥ずかしく、空のように頬を赤らめた。こんな姿は長里や藤宮に見せたくない。

 猪里署で被害届を出し、バス停まで歩き、一時間に一本のバスを待った。被害の名称は強盗致傷だった。アラフィフの女に強盗致傷とは。志保の嘲り笑う声が耳に残っていた。N新聞が嫌い、猪里全体も嫌い。久野が目障り。

 N新聞が市長を悪く書いたことなどあっただろうかと記憶をたどってみた。ここ十年、そんな記事は政治欄でも見かけたことはない。やはり志保の心の闇が深く、なにかを勘違いしているとしか思えなかった。

 何かが引っ掛かっていた。

 記憶の片隅で、志保のことを記事にしたような覚えがあった。年のせいか、はっきりと思い出せない。それはほんとうに新聞記事になったのかどうかも、もはやあやふやだった。もう何年も前のことであり、どんな中身だったのか見当もつかなかった。何年も前なら、志保は高校のころかもしれなかった。なんで取り上げたのだろうか。

 もしかしたら、その記事の内容が不満で、根に持っているのかもしれないと思った。

 一方で、市長の疑惑は記事にこそしてないが、黒い噂は掴んでいた。

 あと三分でバスが来るというとき、携帯が鳴った。長里からの着信だった。

「もしもし、川畑です」

「川畑さん。長里です」

「いけんしたとですか? 警察の方から電話だなんて、めずらしい。捜査の動きか情報提供でも?」

「いいえ、まあ、くわしいことは言えんち。明日の晩、マスコミのサツ回りの方を集めたオフレコの懇親会を開くから伝えるように、と今出水副署長が言うちょりました」

「まあ。明日の夜に懇親会を?」

「N新聞は出れんとですか」

「いいえ、喜んで。酒はあまり飲めん方ですが、参加いたしますとお伝えください」

「分かりもした。ではN新聞から一人でよろしいか」

「そうです。捜査もいよいよ大詰めなんですね」

「そげんこつは懇親会で副署長がなんとおっしゃるかしだいです」

「承知しました。では」

 電話を切った。おそらく、容疑者として鹿原志保を逮捕する証拠が固まり、段取りがついたのだろう。

 頭の痛みも吹き飛んだ。やはり島谷刑事が捜査本部に加わったのは伊達ではなかった。捜査が大きく進展したのだ。

 明後日の七日月曜日は新聞休刊日に当たっている。六日に逮捕のお触れが出て七日に逮捕し、七日の夕刊の一面を犯人逮捕の写真が飾るはずだ。

 長年の社会部記者としての経験から流れが読めた。

 バスがやってきた。ガラガラの車内に席を取り、南町のはずれまでバスに揺られた。夜になり、暗闇の中、ときおりすれ違う対向車のヘッドライトに勇気をもらいながら、ペンは剣よりも強しよ、と心を奮い立たせた。

 家に着いたらどっと疲れが出て、腹も減った。まだ頭が腫れて、ヒリヒリ痛む。

「ただいま」

 弱々しい声が出る。

「お帰り。疲れたね」

 真由美は、久野が頭を殴られてクラウンを盗まれたなんてことは知らない。いつものように陽気に笑って出迎えた。

「ちょっと疲れたち」

「久野が自分から疲れたち言うのは、よほど体にこたえたんでしょ。ご飯はたもった?」

「そういえば食べとらん」

「冷めちょるけどあるよ。たもらんね」

「あいがと。いただきます」

 久野は炊飯器に残っていたご飯と冷めた煮しめを食べた。明日のことを思い出し、

「明日は飲んで帰るけん、晩ご飯はいらんち」

 と伝えた。

「わかったち。だれと飲むの?」

「仕事相手と」

「あんたは酒が弱い方だから、お酌に回りなさいね」

「分かっちょるよ」

「誘われたのかい」

「召集がかかった。捜査も山場に来たんだろうね」

「へえ、そうね。そげんときは警察もマスコミに近づくんね」

「直接捜査の内容は喋らんのよ。ただ、スクープになるように匂わすの。ねえ、一つ訊いていいかしら」

 久野は箸で胡瓜の漬物を摘まみながら真由美の顔を見た。

「なんね」

「今日、鷺沼紘一という猪里市議が殺されたんだけど、その市議と鹿原市長の関係って分かる?」

「鷺沼さんちゅうたら、鹿原さんの後釜を狙っちょる人だがね」

「やっぱりそうか。政敵なんだ。あいがと」

「今晩は原稿をかいて、ゆっくり寝んさい」

「わかったち」

 久野は今日起きた事件の原稿を書いてデスクに送信した。

《中平デスクへ 以下、原稿です。

 また、連続殺人か? 盛り土の中から遺体 五月五日(土)午後二時過ぎ、東の原町六丁目の工事現場で、市会議員鷺沼紘一さん(六二)の遺体を土木作業員が発見。警察が駆けつけ死亡を確認した。遺体は盛り土の中に埋められていた。死因は不明。遺体には無数の赤い傷があった。稲和県警は事故死と他殺の両面で捜査を進めている。連続殺殺人となればこれで四件目。猪里市連続殺人事件捜査本部は、これまでの三件の犯行と関係していると見て、なお犯人に関する情報提供を呼びかけている》

 ついでに、寝る前に長里警部にメールを送り、島谷警部に読んでもらいたいと記した。内容は次のようなことを書いた。

 市長の娘の鹿原志保と連れの男が犯人である可能性が高い。第一の被害者から第三の被害者まではカムフラージュするための偽装殺人で、ほんとうの狙いは最初から、第四の被害者である市会議員を殺すことが目的だったと推測している。殺された市議は市長と関係が深く、鹿原市長の後釜を狙うライバルだったと。

 夜も更けてきた。明日は、犯人グループも目立った動きを見せない予感がしていた。なんとなく平穏な一日になりそうだわ。そう思うと瞼が自然に閉じて深い眠りについた。

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