3章.焔(2)
「これは?」
ずっと浮いていた彼女が、鍛え上げられた体を拭く彼の隣へ、何かに押されるかの如くふわりとやって来ると、ハザの体に刻まれた、戦傷の痕を指しつつ言う。
不思議そうな様子では無いが、リムこんなものに興味があるのか。
傷痕なんぞ、戦う者なら誰でも1つや2つは持っている、大して珍しいものでもない。
逆にこれが無ければ例え、戦う者を名乗ったとしても1人前とも見做されず、良い笑い者になるだけだろう。
「これか、これはな、古傷だ。
何時出来たかは、忘れた」
若干雑な回答に返事は無く、ハザの腕にある、癒えていない生傷に、彼女は手を伸ばす。
腕に付いた生傷の端に、ほんのりと輝く指先が触れた。
そしてびりり、と何か引き裂くような音が、聞こえた気がする。
「
じっと見ているだけだと思っていたが、娘が触れた事に気が付き青年は、思わず声を上げた。
生傷の上に張り付いている、瘡蓋を毟しったのだろう。
その傷が出来た時と、全く同じような痛みが、体の中を駆け巡る。
何をする、と言いかけて、黙る――彼女がまたしても、妙な事を始めたらしい。
リムの指で摘ままれているのは、傷。
傷そのものが、繊細そうな親指と人差し指との間で、ぷらんとぶら下がっていた。
腕を見るとそこには、傷痕が無い。
治るのにもう暫く掛かると思っていた、深い傷だったと思う。
だが、その傷は娘の手にあり、ハザの腕にはもう見当たらないのだ。
跡形も無く、綺麗に治ってしまったのだろう、そこは傷付く前の肌に戻っている。
何だ、傷を治す技か――。
元よりその傷はほぼ治りかけ、痛みなど無かったとはいえ、きっと見兼ねて、治してくれたのだろう。
礼を言わねばなるまい、と気を取り直し、ありがとう、と口に上らせようとした、その時だった。
更に手を伸ばしてきたリムが、肩の傷痕にそっと触れる。
そしてぺりり、と印象的な音が耳朶を打つ。
「ぐぅっ!」
すると、苦痛に呻くハザの声が、辺りに強く響く。
この痛みで思い出した。
戦場で味方であった同じ隊の者が、夜闇に紛れ突然自身へと向かって、剣を振るう。
それを、何とか避けようとした時の――。
あの時に斬られた痛みが、再び脳裏に蘇り、すぐに消える。
傷痕が再び華奢な指に挟まれ、もうひとつの掌の上に乗せられると、今度はリムの手が脇腹へと伸びてゆく。
そこは、避け損なって敵の長剣が、半ばまで食い込んだ――。
触れられるまでも無く、当時の苦痛は、今でも思い出す事が出来る。
「も、もういい!
そこは治っているッ、他もだ!」
脇腹の傷痕へと、躊躇も逡巡も無く手を伸ばそうとするリムに、慌てて声を掛けるハザ。
だが、帰って来た返事は、何の情緒も含まれぬ、冷徹なものであった。
「ハザ――。
貴方は、我等に身を護る方法を得ろ、と言いました。
これがあれば、幾許かは手法が出来て、楽になりますので。
どうか、我等にこれを分けて欲しいのです」
「な、何だと?」
どういう事だ、傷痕を剥がし集めて、何に使うと言うのか。
リムの態度から、想像していたものと、遥かに差があったという事、それだけは察する事が出来る――それも、傷を癒す技で無い事だけは、しっかりと。
用途がまるで見えて来ず、底と得体の知れぬ未知の技に、ハザの顔が恐怖に引き攣る。
そこへ生じた僅かな隙を突き、古傷を庇おうとする彼の手を潜り抜けた、彼女の手が古傷へと到達し――。
「ぐああーーーッ!!」
軽く触れたのを感じた直後、傷が剥がれる際のぴりり、という軽い音を掻き消すかの如く、地下の通路に、苦悶の叫びが木霊した。
やがて、彼等は冷えて輝きの収まった、石造りの通路を進む。
何だろう、熱い風が未だに、頬に張り付いている様な、そんな気がする。
「……」
あれから、黙って歩んではいるものの、リムへと向けるハザの視線は、とても厳しいものだ。
先程までかなりの熱を上げ、紅く輝いていた石造りの通路が、元の色へと戻るのに、かなりの時間が掛かった様に思う。
漸く冷えたから、その上を歩き出したものの、石床を歩くと不思議と波打っている感触を、
途中に沢山の何かが、壁や床に張り付いたような跡があったが、元からそんなものがあった、のだろうか?
ふと見れば、そう錯覚する程の広さに渡って、床のみならず、壁や天井にも大きく、または小さく、砂浜に波が押し寄せたかの如き跡が付いていた。
それは、見るからに不規則な波模様、と言っても差し支えない。
「先程から、どうされたのですか」
微妙に歩き難くなった床を進む途中、やや後ろから、事の元凶である娘が、平然と声を掛けて来る。
それを聞いた彼は、更に視線を強くする――わざわざ声を聴かずとも、心を読めば良い、と言わんばかりに。
だが、その程度では非難の意図が、全く伝わらなかった様だ。
反応の無い娘に、それならば致し方なしと、意を決したハザはゆっくりと口を開く。
「これは、どう見てもやり過ぎだ。
他に手立ては無かったのか」
そうだ、浮いているこの女は、歩いていないから、奇妙に捻じ曲がってしまった、床の感触がきっと分からないに違いない。
彼女があの光る技を使わなければ、あの場で待つ事も無く、傷を剥がされる事も無かったであろう。
確かに不思議と傷痕は失せ、跡形も無く治ったのだが、当時の痛みを思い出させられる苦痛と共に、粗方引っぺがされてしまった。
そして、かき集めた傷痕を何に、どの様に使うのかを尋ねても、機会が来れば見せるの1点張り。
正直な所、怪我の上からわざと塩をまぶされ、塗り込まれた様な嫌な気分だけが残る。
万年雪が吹雪く山頂の如く、果てしなく高く積もりゆく、
鋭い視線を交え、厳しい声色の言葉を投げかけても、リムの茫洋とした澄まし顔に、変化の兆しは訪れる様子は、まるで見られない。
彼女はこれ、の意味を少し考える素振りを見せた後、やがて何の為に言っているのか、その意図を全く理解出来ない、といった口調での返答が、彼を出迎えた。
「つい先程。
生焼けが嫌だと、仰っておりましたので」
威風堂々と、彼女の口が紡いだひと言には、謝意の欠片すら含まれておらず、ハザは落胆する。
少し位は、含んでいても良さそうなものだが、残念ながら、現実は違う。
つまりこれは、彼の
確かに――。
確かに、そう言った覚えはあるが、それは何時の事だったか?
少なくとも、つい先程、じゃあない事だけは確かだろう。
そんなものなど、通じない位には前の事の筈、すっとぼけたこの娘は、どのくらい前の事だと思って、いや、扱うつもりでいるのか。
何となく分かって来たが、焼き加減の意味を、改めて問い質したくなった。
しかし口論に持ち込んでも、想像よりも口の達者な彼女に、煙に巻かれるだけだろう。
この女の得意と思しき分野に、自ら足を踏み入れるのは、残念ながら愚かしい行為である、としか言いようが無い――。
そして、ハザの苦虫を噛み潰した様な、渋い顔を見て、つい、と視線を外すリム。
「良くお分かりで」
青年の胸中を悟ったのか、またそうでないのか、彼女は、抑揚の無い小声でぽつりと言った。
やがて、波打つ床が途切れ、石の板にぽっかりと空いた、門の様なものが見えて来る。
此処までは、脇道ひとつ無い、1本道。
熱気が届いた所は、まるで測ったかの様に、きっかりと真っ直ぐな境目が存在し――そこから先は何があったのかは、少し詳しいものが見れば、すぐに判別する事が出来るだろう――焦げ跡となって残されていた。
そんな捻くれた床を、余りにも長く歩いた所為だろうか。
ここはもう平たい床の上の筈だが、足の裏にはまだ、固まった波を踏み、そこだけが浮いている様な感触が、まだはっきりと残っている気がする。
2、3度足踏みをし、感覚を慣らそうとしたが、それは上手くいかなかった。
恐らく2人も並べば窮屈するだろう、狭い穴門の向こうを慎重に覗き込む。
そこには意外な事に、10人は手を繋いで立ち並ぶ事が出来そうな、幅広い通路が広がり、そこから遥か上に続く階段が、壊れた
吹き下ろす風が、狭い入り口を大急ぎで駆け抜けようとして、びゅう、と鳴り響く。
上は何処まで続いているのか、此処から見通す事は出来ない。
暫く見上げた後、2人は足並みを揃えて、階段を上り始めるのだった。
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