4章.休息―rest3―(1)
心地よい微睡から目覚める。
――自分は誰か、――ここは何処か。
後ろ髪引かれる暖かい温もりから、意識を離す様にして、ゆっくりと、全てを思い出す。
辺りに満ちている、びゅうびゅうと吹き荒ぶ風の駆け抜ける音が、その助けとなった。
彼女の案内に従い、先へ進むとやがて、ひとつの細い通路へと辿り着く。
強い風の吹き抜ける、天井の高い、細く長い通路を、腰を落として慎重に進む。
暗いが、この上には、空が広がっているのだろうか。
だが、荒く削られた壁のような崖は、とても風が強く例え道具があっても、到底登れるような高さではない。
舗装した意思の見える古い通路――彼女の話では、ここは谷底である、と言う話だが――に吹き荒ぶ冷たく強い風は、容赦無く体の熱を奪う――。
これは、確かに寒い。
通路を進めば、カチカチと歯を打ち鳴らす、微かな音が耳に聴こえて来る。
最初は、自身が寒さに負け、放つ音かと思っていたが、違う。
それは後ろから聴こえ、そこに居る娘が、小さく顎を打ち鳴らし、僅かに震えているのが見て取れた。
少し位の間なら、歩いて行く内に寒さに慣れ、振るえも止まるだろう、そう思っていたのだが。
歩いているハザは兎も角、リムは全く歩いていない事を思い出す。
動いて体を温めていないのだ、このままでは何時か完全に凍えてしまい、その前に何処かで休息をしなければ、立ち行かなくなるだろう。
先程より大きく歯を小刻みに打ち鳴らし、ぶるぶると震え浮く、彼女の手を掴むと引き寄せる。
その手は、すっかり冷え切っていた――。
途中にあった風避けに丁度良い、大きな亀裂の中に入り、湯を沸かす。
寒かろうと思い、折角沸かしたにも関わらず、飲む事をにべも無く断られてしまう。
信じられない事に、この娘、まさか水や湯が飲めないとは。
「何ィ?
これが飲めん、だとォ!?」
予想だにしなかった事態に、思わずハザは叫ぶ。
旅先では容易に補充の効かぬ、貴重な燃料を消費し、湯を沸かしたにも関わらず、彼女は口にする事を頑なに拒む。
味でも付ければと思い、これまた更に貴重な茶葉も使用したのだが、それも無駄になってしまう。
そう言った類は、リムにとっては正に、余計な世話であったようだ。
ハザは何が飲めるのかを、何度も尋ねたが――人の飲めるものでは無い、との1点張りで、取り付く島も無く、全く埒が明かない。
仕方なく、胡坐をかいた上に無理やり座らせ、鞄から毛布を引っ張り出し、それにくるまらせて暖を取った。
始めこそ嫌がって、何度か抜け出そうとしたものの。
体格や力の差で、抑え込まれてしまえば離れられない事を悟り、やがて諦めたのか、今はハザの腕の中で、彼女は大人しく座っている。
そして目が覚めた後、ハザは茶葉を浮かべた、まだ温かい湯を注いだ器に手を伸ばす。
すると、彼女も目が覚めたのだろうか、リムが薄らと目を開け、数度瞬きを行う。
気にせず、彼は器に手を伸ばし、色の着いた液体を口に含む。
爽やかな香りと、苦味を含む渋い風味が鼻腔を擽り、蜜の様な甘さを僅かに舌先に感じる。
売られていた小袋を、適当に掴んだ物だが、保存が良かったのか、上質な茶葉が入っていた様だ。
若しくは、久々の茶に舌が感激し、美味いと認識しているのか。
青年は、ぼんやりとその様子を窺う娘に、再び問う。
「本当に、要らないのか?」
「申し訳ないのですが。
お伝えした通り、それは我等の口には合いません」
爽やかかつ、聴き応えのある澄んだ声が、彼の前髪を微かに揺らす。
もう、何度目かになるのだろうか、そのようなやり取りを済ませた後、変わらぬ返答を聞き、ハザは諦めた様に溜息を吐いた。
これからは何かしら、この女の食べられる物を、探し出さねばなるまい。
水と茶も駄目、となると――。
「まさか、生き血を啜るのか?」
「違います。
その様なものも、我等の口には合いません」
即座に否定された予想を聞き、青年は安堵する。
夜な夜な徘徊し、出会った生き血を啜りに行く、人に似た生き物など、生まれてこの方聞いた事が無い――もし、そんな話があったとするなら、それは何処の国の御伽噺だろうか。
我ながら、馬鹿馬鹿しい事を考えてしまったものだ。
だとすると、何だろう。
人の食べないもの、いや、食べられない物か?
地底の遺跡にずっと居たとしたならば、土や石くれでも食べて過ごして来た、位しか思いつかないが、幾ら何でもそれは、考え過ぎかもしれない。
そう考えた時、畑の中に棲む土喰い蟲が、彼の脳裏を過ぎった。
「そうですね――。
貴方が考えている様な、蟲と言うものでは無いですが。
それに近いと思いますよ」
すると、また何かを察したのか、彼女の方から口を開く。
考えている事を、ぴたりと指摘されたような気がして、軽く心の臓が跳ねる。
これは心が読めるに違いない、ならひとつひとつ尋ねるより、こちらが早そうだ――、と彼は考えを切り替えると、鞄に入っている物を思い浮かべた。
「俺が持っている物で、リムが食べられそうな物は、あるのか?」
「ありますよ。
ですが恐らく、分けて頂けないと思いますので」
元より返す言葉が決まっていたのか、リムの返事は早い。
どうぞ気にしないでください、と続ける彼女に、そういう訳にもいかん、と言って、鞄の中を出して見せるハザ。
鞄の中にあった毛布は今、使っている。
他には、皮を剥く時に使う小さな
まさか、手拭いを食べる、などという事はあるまいが。
今は、何も予想が付けられない、どれを選ばれても、驚かない様、気をしっかりと保つしかないだろう。
「食べられる物を取り出してくれ。
何なら、食べて貰って構わん」
「分かりました。
では、コレを頂きますね」
青年が勧めるとリムは、迷わず財布に手を伸ばし――。
よりによって財布か、と思っていると、中から小さな小さな、金の欠片をしなやかな指先で、そっと摘まんで取り出した。
止める暇も無く、それを口に含むと口元に手を当て、彼女はこくり、と喉を鳴らす。
それを手にするには、それなりの苦労があった――命がけで手にした希少な対価を、あっさりと目の前で奪われ、青年は絶句する。
やがて、目の前で起きた出来事を鑑みハザは察した、彼女が何を食すのかを。
……財布の中には鉄だってある、銅や銀では、駄目なのか。
「それでも構いませんよ。
ですが、これが1番美味でしたので」
リムが再び、思考に呼応するかの如く、話を続ける。
何も言わずに考えていたハザは、口を開いた。
「リム、お前は察しが良いな。
人の心が、読めているんじゃないのか」
「――?
読めているなら、我等が此処に、幽閉される筈がありません。
彼の者達の目論みを、看過出来ていた筈ですから」
否定はするが、リムの話す事柄は、話していない考えに、自然に応対し会話として成り立つ程。
心を読み、空を飛び、火を吐き、鉄を喰らう――。
子供のみならず大人まで、尋ねれば誰でも、この話を諳んじられる程には、広く伝わっている、御伽噺だ。
彼自身、大昔にその様な魔物が居た、と信心深い年寄り連中から、何度も聞かされたのを覚えている。
ある国では、心を読む生き物が王や臣を助け、またある村では、鉄を喰らい火を噴く魔物が現れ、またある財の多い家は、ひと晩の宿を所望する空を飛ぶ生き物を泊めると、蓄えた家の財全てが齧られ消え失せた、と聞く。
上ではこんな話が伝わっている、と掻い摘んで話を語って聴かせるハザ。
「鉄喰らいの魔物とは、伝説の生き物じゃないか。
どこの国の御伽噺から出て来たんだ、お前は?」
「そんな話が――。
恐らく、それらの幾つかは、我等を見たもの……。
と、云いたいのでしょうか。
人は、変に話を伝えるのが好きですね」
言い伝えを聞いても、リムの方は、茫洋とした澄まし顔を何ひとつ変える事無く、それについての意見を述べる。
確かに言い伝えはそういう事がある、と思っていたハザは、何も言い返せない。
そして、ふと会話が途切れた後、ぽつりと彼女は言った。
「ここ暫くは、誰も降りて来ていませんね……。
ハザ、彼の者達は、外は今、どうなっているのですか?」
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