4章.休息―rest2―(1)
微かに何かが流れる音が、ハザの耳に飛び込んで来る。
だがその音は、彼が想像していたよりも、量や流れが少ない。
もっと、泳げる程にはなみなみとした水量がある、そう考えて来たのだが、当てが外れたのか。
一行が目の当たりにしたそれは、壁の裂け目から沁み出た水が、床を削り小さな流れとなっていた。
「思っていた通り、十分な量が流れていますね」
確かに勢いだけはある様だが、ちょろちょろと、掬う程の量しか流れていない、窪みの流れを見てリムは言う。
これの何処が、体や服を洗うのに、十分な量だというのか、この女は。
どこからどう見ても、不十分だ。
そもそも幅が全然足りない様に思えるが、俺の目がおかしいとは全く思えない――。
呆れを通り越して、困惑し始めたハザを尻目に、流れる水場の縁に立った娘は、軽く片方の手を振る。
刹那、彼女の姿が消えた。
「えっ!?」
思わず、ハザの不可思議そうな声が、口から転び出ていた。
一体、どこへ消えたのだろう。
慌てて左右を見渡す彼に、下から届く、何者かの声。
「ハザ――。
我等は此処に居ます。
こちらですよ、下を見てくれませんか」
足元からきゅうきゅうと、妙に甲高い声が聴こえてくる。
声に従い、下を見るとそこには、小さくなった娘が、茫洋とした澄まし顔で、ハザの方を見上げていた。
彼女の大きさは、掌の上に乗れる程の
ハザは小さくなった女を、不思議そうな目付きで、しげしげと眺めている。
どうにも、この娘と出会ってから、理解を超える出来事が続く。
これ程までに小さくなって、一体どうすると言うのか。
すると、リムは甲高く聞こえる声で、こう言った。
「ハザ。
我等を貴方の掌の上に乗せて、流水に浸けて下さいませんか」
成程――、こうすれば十分な量の水が流れている、とも言えなくはない、か。
両手に乗せられる程、そして驚く程小さく軽くなった娘を載せて、幅の狭い冷たい流れの中に差し込む。
その掌に掬った水の中、彼女は
本当に、何時から洗っていなかったのだろう、娘が水に浸かるや否や、黒い物が浮き出て来て、ゆらゆらとした濁流となり、溢れるように流れてゆく。
両手にも、その指の隙間からも、何らかの塊が引っかかり、積もってゆくのが分かる。
見た目よりも、相当汚れていたのだろう。
「汗の出そうな所は、今の内しっかりと洗っておけ。
他に着れそうな物は無いのか?」
「はい。
我等の持ち物で、着る物はこれしかありません」
掌の水面から、きゅるきゅる、きゅるきゅると響く、大きな時とはまるで違った、妙に高い声での返事。
ここから出る事が出来たら、新しい衣服を用意しなければならないようだ。
当然だが、食糧や服と交換できる、貨幣など持ってはいないに違いない。
こちらが用立ててやる必要があるだろう。
通貨を持っていない訳では無いが、女物の衣服等、生まれてこの方、取引する事がまるで無かった彼は、どのようにして商う者と話をすれば、上手く交換できるのか、暫し思い悩む。
その時はどんな顔をすれば良いのか、真面目に考えている内に、手が冷たくなってきた。
澄んだ清涼な流れだが、水は雪解けの様に冷たい。
「もういいか?
手が冷えて来た」
ハザの声に立ち上がった娘は、着ている衣服の裾を掴んで、返事をする。
「はい。
我等は構いませんよ」
手を流れから引き上げると、指の隙間から零れ落ちた雫が、ぽたぽたと垂れてゆく。
彼は立ち上がり平らな所へと、小さくなった女を、下ろしてやろうとした時、それは起こった。
娘は掌の上で、軽く手を振る。
すると物凄い速さで、彼女が大きくなってゆく。
見る見るうちに、元の大きさへと戻った女の荷重が加わり、突然の事に、意表を突かれたハザは、蹈鞴を踏んで堪えようとしたが、間に合わずに転倒してしまう。
尻餅をついた姿勢から、それ以上後ろへ行かぬよう肘で上半身を支えた。
何とか踏ん張った所へと続いて、宙に浮いたリムが、彼の上にどさりとのしかかる。
瞬く間に柔らかい質感が、鼻と頬を覆う。
「どうでしょうか」
転倒させた事を悪びれもせず、彼女の声と、
冷たい飛沫が顔に掛かり、青年は思わず目を瞬かせ、顔を顰めた。
小さかった時に甲高かった声は、不思議と元の聴き慣れた、静かで清涼な音程へと戻っている。
どう、とは恐らく、臭いの事を尋ねているに違いない。
しかし、ハザはすぐに答える事が出来ない――彼の顔には、リムのふくよかな胸が押し付けられ、発言する事を妨げられていた。
そして徐に肩を掴み、軽々と持ち上げ――丁寧に女体を脇へと押し退けた後、ともすれば下敷きになりそうな体制から、何とか脱した彼は言う。
「ぷぁッ――。
急に大きくなるんじゃないッ。
危ないだろう、全く。
臭いの方は、前よりは、大分マシにはなったが……」
「それではもう一度、水に浸かりましょうか?」
「いや、もう良い。
矢張りこれ以上は、きちんと洗って、干さねばならんだろうな。
続きは、上に登ってからだ」
そう言うと彼は立ち上がり、長剣の留め具を取り付けた
自分も今の内に汗位は拭こうと、鞄から手拭いを取り出すと、ぼんやりと見ていた彼女が、声を掛けて来た。
「ハザも小さくなって、洗いますか?」
ハザは思わず彼女の顔を見返し、瞬き数度繰り返す。
「出来るのか!?」
「はい、可能です」
可能だという返事は、僅かながら彼の興味を引く。
しかし、小さくなるという事は、どのような危険が迫るのかを考え、一応ながらにも、どうなるかを、確認しておかねばならない。
リムの返答を聞きながら、
「ひとつ、聞くが。
もし、俺が小さくなったままで、敵の襲撃を受け、お前が倒れたとする。
その場合、元の大きさに戻るまで、どの位かかる?」
言い終えて、小さな流れに手拭いを浸け、絞ると体を拭き始めるハザ。
位置を悟られるという事は、先手を取られる、という事でもある。
今この場も、誰が覗き見ているのかも、分からないからだ。
掌に乗れるような
「その場合ですか。
我等が貴方を戻すまで、そのままですよ」
「そのままか。
敵地と言っても良いここでは、危険過ぎるな。
興味はあるが――、止めておこう。
そういう事は、もっと安全な場所で試す事にするさ。
今は、汗を拭くだけにする」
「はい、成程。
分かりました」
彼女は、大人しく引き下がる。
どうやらリムは、無理やりにでも彼を小さくする気は無いらしい。
ハザは頭と顔を拭くと、再び清涼な流れに手拭いを浸す。
そして彼は、細身だが、逞しく鍛え上げられた体を、丹念に拭き始めた。
刺し傷が見える左の肩口。
張り詰めた分厚い胸板は、その長剣を存分に振える事を、万人へと十分に納得させるに違いない。
その下、軽く肘を曲げるだけで、力強く隆起する力瘤。
爪痕の様な引っ掻き傷が3本、脇から2つの腕の下に向かい、真っ直ぐに伸びている。
更にその下には、綺麗に6つに割れた腹――その脇腹にも幾つか、刺し傷や切り傷が見て取れた。
しかし、その古傷の全てがひとつたりとも、急所へと至っていない事が、手練れの者であるならば、直ぐに理解できるだろう。
正面を拭き終えると、ハザは手拭いを伸ばし、背中を拭き始める。
首から肩にかけて、動作に合わせ、異なる形へと張り詰める筋肉、そして引き締まった体。
肩から下に向けても、隆起の陰影がくっきりと映し出され、所々ごつごつと、岩の様に膨れ上がっており。
それは、並々ならぬ鍛え方を行った事を連想させる。
彼のその上半身は、見事なまでに逆三角を描いていた。
背中を拭き終えたハザは、赤い色の
最後に、肩当を右肩に留め、身支度を整え終える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。