1章.登る旅路(2)

 制止の声も空しく反響し、美しい娘がしなやかな肢体を、床の上へと運ぶ。

 爪先で立つ様にして、伸ばされていた細い足首が、模様の描かれた石畳の上に、ふわりと乗せられたように見えた。

 僅かな振動、そして彼は慌てて駆け戻り、手を伸ばす。

「何をやっている!

 手を伸ばせッ!」

 男の叫びに、漸く気が付いたような素振りを見せ、彼女はゆっくりと振り向く。

 不思議そうな視線を、こちらに投げかけたまま、茫洋とした面持ちを全く崩さず、左手を彼の居る方へと掲げ伸ばした。

 駆け寄るハザの、伸ばした手の指先が、触れようとした瞬間。


 どたり、と大きな音と共に、目の前が塞がれる。

 下を見ると、巨大な石の重圧に耐えかねたのか、空しく宙に伸ばされた腕が震え、はたと地に伏せた。

 子供の頃、遊び半分で蟲の幼生を、笑いながら石で磨り潰す、そんな遊びをしていた者達が居た事を、ふと思い出す――今のは、丁度そのような感じだろうか。

 そんな無邪気故の不毛な行為を、目の前でまざまざと見せつけられた様な虚無感が、胸中に満ちてゆく。

 足元に散らばった髪と、飛び散る血が、巨石の隙間から、その凄惨な様相を覗かせている。

 やや顔を青ざめさせたハザは、のろのろと屈み、左腕の肘から先が見えているだけとなった、女の手に触れた。

 その手指はまだ、暖かい――。

「……、なぜ避けないんだ……」

 最後の瞬間を、目に焼き付けた彼は思わず、胸中に浮かんだ言葉を呟く。

 彼の言葉に従い、手を伸ばしてはいたが、天井からの物音にすらまるで反応を返さず、まるでその罠の事を、意識していないかの如く、立ち尽くしていた様に思う。

 それは何故なのかを、今すぐにでも問いたいが、もう叶う事は無い。

 2度目となる、死を看取った事、今度こそ、気のせいなどではないだろう――せめてもの手向けとして、祈った方が良いかと思い、ハザは祈ろうとしたが、祈る者で無い彼は、肝心の祈りの言葉を知らなかった。


 無事帰ったら、神は死んだとでも、伝えようか。

 実に頭の痛い話となってしまったが、起きてしまった事はどうしようもない。

 危機を目の当たりにしながらも、助け出せなかった事で、かなり叱責される自身の姿が、目に浮かぶ様だ。

 包み隠さず全てを打ち明け、考える事はお偉い方に打ち遣ってしまえ。

 うんうん唸って、どうにかするだろうさ。

 意を決すると、巨石の下敷きとなり、徐々に冷たくなりつつある、女の手を放す。

 立ち上がり振り向く。




 すると、茫洋とした澄まし顔の彼女が、そこに居た。




「なッ――!?」

 驚きのあまり、2歩、3歩と後退るハザ。

 滑らかな肌には傷ひとつ無く、出会った頃と変わらない姿で、両手でランタン角灯を持ち、ぼんやりとこちらを見ている事も、全く変わらない。

 そして、慌てて振り向き下方を見るが、散らばった髪や血溜まりの中、巨石と床の隙間から生えているように見える、ほっそりとした女の手はそのままだ。

 ハザの向ける驚愕の視線と、そして指先を、自らの背後と勘違いしたのか、彼女は身を捻り、何度も振り向く。

 違う、そっちじゃあない、と言いたいが、あまりの出来事に彼は、上手く声を出す事が出来ない。

 指先を向けたまま、言い澱んでいると、女の方から声を発する。

「――?

 あの、我等の背後に何か見えますか?」

 微かに不安げな声色が乗り、その静かで透き通った音が耳に届く。


 まただ――。

 今ここに、彼女は1人しか居ないのに、数が多い様な言い方をするのは何故なのだろう。

 何度も聴く内に、そろそろ聞き慣れてきつつある、自身も怖くなってきたが、如何せん目の前には1人しか居ない。

 話の内容ではなく、妙な自称に違和感を感じつつ彼は、再び疑問を口に上らせる。

「お前は、今ここで、死んだ……それは間違い無いな?」

 何とか絞り出すようにして、漸く声が出る。

 事実を確認しようと、ひと言ひと言、区切る様にはっきりと言ってのける――遺された腕、そして女の顔を交互に見ながら。

 すると、澄んだ声は変わらず、そして澱み無い返事が、すぐに届く。

「それは――。

 ただ今、ご覧の通りではありませんか。

 お言葉ではありますが、この程度で我等は滅びたりはしませんよ。

 どうか、ご安心ください」


 彼女の茫洋とした澄まし顔は元より変わらず、回答の内容がズレている気がした。

 それとも、わざとはぐらかしているのか。

 実に歯痒い事ではあるが、得意であるらしい澄まし顔からは、その内心を窺い知る事は出来ない。

 臍を噛む思いで、返答を聞いた彼は、口元に手を当て、もごもごと口を動かし、内容を吟味した上で、反芻する。

 つまり、死んだ事は肯定しているのか?

 それで滅びてはいない、と、こう言っているのだろう、恐らく。

 分からん、さっぱり分からん、死ねば滅びるだろう、普通は。

 しかし今の状況は、普通ではない――いや、もしかすると、状況やコイツの話をまるで理解出来ん俺の、頭の方が悪いのか?

 それに――我等?

 ああ、我等とは、そういう事かもしれん。

 得心が行く内容に思い当たったのか、気を取り直して、ハザは再度問いかける。


「俺達と違い、お前は独りでは、無いんだな?」

「はい。

 その通りです」

 またしても澱み無い返事が、すぐにあった。

 どういう事なのか、また真意は未だに掴み兼ねるが、概ね言葉通りなのだろう。

 話している事が、ますます持って良く分からない、謎の女である。


 またしても、摩訶不思議な珍問答が続き、軽い頭痛を感じた気がしたハザは、それ以上尋ねる事を諦め、先へ進む事にした。

「……そうか。

 これからは、お前達とでも、そう呼んだ方が良いか?」

「それは、どちらでも。

 確かに我等は独りではありませんが、意志はひとつですから」

 違う、そうじゃない――。

 肯定されたとしても意味が良く分からず、腹立たしさを解消する為、そして皮肉のつもりで放った言葉を、真顔で返される。

 内心ぎゃふんとした彼は、顔を顰める事すら忘れ、巨岩の隙間から僅かに見える、下敷きとなった、娘の腕を指してハザは言う。

「これは、放っておいていいのか?」

「はい――。

 大変残念ではありますが、それはもう、そっとしておいてくれませんか。

 ご覧の通り、救うには少々手遅れですので。

 後の事は、我等にお任せください」

 しかし、返って来たのは、にべもなく見捨てる旨の、冷たい言葉であった。


 こいつ等は、本当に仲間なのか――?

 どうにも不可解、かつ些か理解しかねる彼女の言動に、深く悩んでも、仕方の無い事なのかもしれない。

 若干疲れた表情を浮かべ、分かった分かった、と言わんばかりに軽く手を振ると、娘の横を通り過ぎ、本来向かおうとしていた通路へと、足を向けるハザ。

 そして、さらりと衣擦れの音が続く。

 後ろから、彼女が着いて来ているのだろう――不思議と、相変わらず静かだ。

 青年1人の足音だけが、通路の奥へと反し、時折吹く風と共に、何処か遠くへと走り去る。

 騒ぎが収まってしまえば、ハザも娘も黙々と歩み、そのひとつの足音が過ぎ去れば、周囲はすぐに静寂を取り戻す。


 この、良く分からん女の事を考えるのは、暫く止めだ。

 地上へ向かう為に、調べねばならん事は他にもある。

 王の令、古の地と女、自身が発見したと思しき通路、先程の者達。

 嫌な予感もするが、早く決めつけてしまう事だけは避けたい。

 未だ分からぬ事が多い、与り知らぬ処で、果たして何が起きているのだろう。

 俺の通った道を、何故か知られている。

 違う道を探し、進みつつ、印を付けた通路を思い馳せながら歩く彼は、確かにそう感じた。

 矢張り、後を追われていたのだろうか。

 心当たりはまるで無いが、何かが起きている事だけは、確かな事であろう。

 権謀術数など、専門外も良い所――俺は知恵者ではない、戦う者だ――何も考えず、今は只、ひたすらに剣を振りたい、と予想され得る面倒な事柄に、そう思いつつも彼は歩む。

 細く入り組んだ通路、登り階段、大きな柱のある広間――眉を顰めていた彼も、通路を進むにつれ、思い悩む事を止めたのか、だんだんと眉間の皺が取れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る