2章.封印(1)

 これは歌――?

 それとも、楽器を奏でているのだろうか?

 様々な音が鳴り渡る音調、美しい重奏が徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなる。

 何時の間にか、風も止んでおり、今は微かに水滴の音が聴こえるのみ。

 まるで忍ばせるような、静かな自身の呼吸音だけが、玄室の中で響いていた。


 何が起こったのか。

 背に吊るした長剣の柄に手を掛け、後退りながら周囲を見渡す。

 正面、死体、祭壇、壁画の亀裂、左右、背後そして、柱の陰――。

 くまなく視線を投げかけ、何か怪しい者が居ないかを、何度も確かめる。

 しかし、玄室に動く者は居らず、物音ひとつしない。

 長く居過ぎた暗がりで、心が疲弊し変調をきたしたのか?

 確かに聞こえた筈だ、と自身の耳を疑い、続く暫しの静けさに、流石に空耳を意識し始めた頃。

 突如、何者かの声が玄室の中に響く。

 幾多の者が、時を同じくして話し出したかのような、実に不思議な声であった。


 其処の御方 お願いがあります


 手を放しかけていた、長剣の柄を慌てて握り、再び力を籠める。

 この遺跡には、音を響かせる仕掛けがあるのだろうか。

 だとしたら、一体何処から?

 耳を澄ませ目を凝らし、何か仕掛けが無いかを、必死で探す。

 しかし、辺りに反響する声は、どの辺りから発しているのか、判別が付かず、面食らってしまう。

 そうしている間にも、再び声が聞こえて来た。


 お願いがあります お願いがあります

 貴方には 針を 抜いて欲しいのです

 さあ 早く


「誰だ、お前は?

 ……お前の言う針とは、何だ」


 さあ さあ 早く 早く

 針はすぐそこに 決して隠されたものでは ありません

 それを抜いて欲しいのです

 我等を貫く 忌々しい針を


「質問に答えろ。

 ……お前は何者だ?

 何処に居る、姿を現せ」

 相も変わらず、何処から声が響くのか、皆目見当が付かない。

 壁に幾多も反しているのか、柱の陰に潜んでいるのか。

 注意深く、何度も辺りを見渡したが、何者をも見つける事は出来なかった。

 自身の発した問いには答えず、玄室の中に、再び声が響く。


 針を 針を

 お願いします 針を 抜いて下さい

 我等をこの地に縛る 鎖を 断ち切って下さい




 鎖を 鎖を 鎖を

 断ち切って下さい 断ち切って下さい 断ち切って下さい


 あちこちに反する、静かな声が徐々に小さくなり、消えてゆく。

 やがて音の反響が消え失せ、そしてまた、静寂が戻る。

 再び誰何を問うても、最早答える者は誰もおらず、空しく玄室へと自身の声が木霊した。

 先程の音楽は、響いた声は、何だったのか。

 得体の知れない存在に、いきなり話を持ち掛けられてしまう。

 しかも、ほぼ一方的に。

 普段の自身なら、馬鹿げた話と一笑に付し、相手にしない筈。

 だが、今回の旅には、それ相応の目的があった。

 古の地に向かい、怪しいもの――この現象も含むのだろうか?――を発見し、遺構なら帰って報告、物なら持ち帰り、何者かが居たならば、丁重に連れ帰る事。


 ……確か、神を探せとか、言っていたな。


 現実にはあり得ない事が続き、旅の目当てがこれかもしれない、と言う予感も手伝って、声の云っていた針とやらを、抜いてみる事にした。

 恐らくは、この死体の胸に刺さっている、古びた剣の事か?

 石段を登り、干乾びた死体を貫く、剣へと手を掛ける。

 左程力を籠めずとも、それはあっさりと抜けた。


 刹那、剣は半ば程から折れ、髪の上に落ちボロボロと崩れ去る。

 よく今まで原型を保っていたものだと、青年は感心する――この様子ならば、放っておいてもいずれ朽ち果て、自然と折れたのではなかろうか。

 掌に残った、もう半分を無造作に投げ捨てると、折れた剣が落ちた辺りで、がさりと髪が音を立てた。

 長い年月を経て錆び、剣として使えなくなった物だ、後生大事に持っていても仕方がない。

 剣を抜いてから暫く待ったが、何も起こる気配が無く、不思議に思う。

「……これで、良いのか?」

 床一面に敷き詰められる程、髪が異様に長く伸びた、乾燥した死体へと問いかけるが、返事は無かった。

 ゆっくりと振り返ったが、矢張り誰も居ない。

 死体も、髪も、壁画も、祭壇も――全くそのままである。

 玄室に何か変化があったのか、と思い、目を凝らして記憶と照らし合わせたが、何も変わった所は見当たらず、途方に暮れてしまう。


 夢でも、見ていたのだろうか?

 地の底くんだりまで来て、遺構の奥で声が聞こえた等と、それは一体、何処の国の御伽噺だ。

 齢を重ねたつもりも無いが、俺は、その様な話を好んで聞きたがる、幼い世代では無い。

 ごっこ遊びに興じたい盛りの齢など、とっくの昔に過ぎている。

 ――思えば今のは、独り言か?

 地の底くんだりまで来て、誰も居ない所で、独り芝居とはな。

 それをすれば、この場で何が、どんな事が起きるのを、期待していたというのか。

 ひと昔前ならいざ知らず、その様な想像をしてしまう程、この旅を楽しんでいる訳でも、無いだろうに。

 冷静に考えると、胸中に沸く気恥ずかしさが、喉元までせり上がって来てしまった、様な気がする。

 今、自身の顔は苦虫を噛み潰した様な面持ちで、耳まで真っ赤にしている事だろう。

 顔から火が出る思いとは、正にこの事を指すに違いない。


 床を埋め尽くす髪に、当たり散らすかの如く、その足を踏み鳴らす。

 ざりざりと、僅かに髪が揺れる。

 やがて、その行為の無意味さに気が付くと、幾度か舌打ちし、もう1度辺りを見渡した。

 今度こそ、何も無い。

 呆れる程の静寂が、変わらずそこを満たしたままである。

 軽い溜息が、玄室に響き渡り、その後踵を返す。

 柱の間を抜け、人1人分が、楽に通れる程度には開いた、大きな扉を潜った。

 もう一度振り向き、先程通ったばかりの扉へと、視線を向ける。

 遺跡へ辿り着いた時と、全く変わった様子を見せてはおらず、ここから立ち去った後も、朽ちる時が来るまで、このままなのだろう。

 再び踵を返そうとしたその時、そっと右腕に、何かが触れた――ような気がした。




 夢では ありませんよ




 突如、耳元に美しい重奏と、声が飛び込む。

 気付けば何時の間にか、隣に立っていた娘が、右腕にしなやかな手を這わせている。

 思わず、目が合った。

 ぼんやりと向けられた視線が、自らの視線と絡み合う。

 直後、慌てて触れられた右手を振り解き、飛び退る。

 背中の長剣の柄に手を掛け、女の方を見据えたが、その娘は、茫洋とした澄まし顔で、変わらずこちらを見ていた。

 じっとりと剣の柄を握る手が、汗ばんでゆく。

 あの声は、針と言ったか――剣を抜いた、祭壇にもたれて死んでいる者とは、到底似ても似つかない。

 女から視線を外さぬよう、ゆっくりと後退った後、開いた扉の向こうを覗き、照らしたが、床に散らばった髪はおろか、剣が抜かれた干乾びた死体も、そのままである事が伺えた。

 突然現れた彼女は、何が目的なのか。

 振り返ってもその姿は、まるで彫像のように、そこに佇んでいる。

 地の底に戦ぐ湿った風の音が、娘を静かに見つめる青年の耳元を通り過ぎてゆく。

 身動ぎひとつしない姿勢に、彼女が生きている事を伺わせる要素は、時折行う瞬きのみであった。


 艶のある、薄い灰色の長い髪が腰まで流れ、微かな風に揺れている。

 そして感情をあまり写さない、赤紫の瞳。

 精巧な細工の様に、整った顔立ちに、形の良い小さな唇が、花開く前の蕾の様に閉じられており。

 その下には何やら紋様が描かれた外套、それを止める留め具の細工物――中央に、蒼く輝く大きな宝石があしらわれている――が僅かな明かりにその美しい色を、誇らしげに煌めかせていた。

 外套の下には、同じ意匠の紋で染め上げられたローブ表着が、きめ細やかな色白の肌を柔らかく包み込む。

 足元は膝上まで覆う、黒く長い履き物、そして黒い靴。

 上から下まで均整の取れた、見目良い風采は、本当に見事のひと言に尽きる。

 恐らく、人通りの多い栄えた街でも行けば、目立って美しい容姿は、あらゆる者の目線を惹き付け、独りで出歩く事を放ってはおくまい。

 歌う者がこの場に居たならば、我が歌に是非と、その姿を格好の題材とする事だろう。


 また、知ってか知らずか、女が醸成する雰囲気は、それだけではなかった。

 何故だろう、この女には今ここで、初めて出会った筈なのだが、本当に知らなかった者の気もするし、既に知ってる者で、懐かしい気もする。

 それは一体何処で会った、誰だったのか――しかし、初めて会うのだ、思い出せる筈も無い。

 記憶の底にに埋もれ、過ぎ去ってしまった遠い昔の事を、思い出すような、また、そうでないような。

 実に、不思議な気分にさせてくれる女だ。

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