1章.地の底(2)
ふと立ち止まり、考える。
始めの内は、風の音かとも思ったが、どうやらそうではない。
音楽を奏でるような存在が、この先に居るとでも言うのか。
この地の底に。
暫しの間、歌に聞き入っていたが、再び歩き始める。
かつり、かつりと、硬く古い石畳を歩く音が、歌を運ぶ風の音に重なり、暗室のような広場に響き渡った。
やがて遺構にある程度近づき、朧気であった遺構が、はっきりと見え始めた時。
幾重にも重なり合うように、奏でられていた音楽――歌声だろうか?――が、ぴたりと止まってしまう。
それとほぼ同時に、足音も止まる。
静寂があっという間に、辺りを満たしてゆく。
しかし、その中でも風だけは、時折唸り声を上げるかの様な咆哮を、止める事は無かった。
足を止めて、暫く待つ。
――だが、何も起きない。
見渡しても、何かが起きた、或いは起きる予兆のようなものは、まるで感じられず、途方に暮れる。
何があったのだろう?
やもすると、奏者に何か起きたのか。
しかし、異変が起きるような気配や音は、何も感じてはいないのだ。
調べが止まったと同時に、そこかしこから、視線を感じるような気がする。
だが、広めの空洞とは言えど、地の底であるこの場所に、身を隠す場所など無い。
どうせ辺りは暗いのだ、音がしようとしまいと、ここが危険なのは変わらん。
気を取り直し、先へ進むことにして、更に近づく。
再び、石畳で舗装されたらしい、古い道を歩む足音が響き始め、広い暗闇の中に木霊する。
やがて苔生した壁面に、測った様に掘り抜いたのか、幾つかの段差と窪み――階段と入り口かもしれない――が、薄らと
地底に手が加えられた、古い道の終焉。
特に手が込められている事が判る、色とりどりの石で造られた石段。
その上に、太古の祀り事を執り行ったであろう、大きな建物が地底の壁の隙間にはめ込まれる様に、聳え立っていた。
ここからでは天井まで、手元の光が届かず、その全容を窺い知る事は出来ない。
一体どれ程の大きさの建物なのか。
そして更には、かつては華美な装飾が、施されていた様子が見て取れる。
が、しかし、今は大きな力が加わった様に歪み、地の底だと云うのに、雨上がりであるかの如く、湿り気を帯びており、その水気を追う様にして、苔生した跡が、大仰に広がっていた。
恐らく、訪れる者が居なくなってから、随分と時間が経過してしまったのだろう。
地底深くの思わぬ所へ、姿を現した遺跡に暫く圧倒された後、入り口から中を覗き、足を踏み入れる。
荘厳な外観こそ、仰々しかったものの、いざ足を踏み入れると、想像している程の広さでは無い。
建材を持ち込んで建てたのでは無く、掘って外観を建物のように誂えた物なのだろう。
遺跡の中央にぽっかりと空いた、入り口らしき空洞を抜けると、そこは小さな広間となっており、浅い階段が、扇状に配置されていた。
訪れる者が居なかったであろうに、その室内は土埃や砂埃は、不思議と見当たらない。
左程高さは無い、それを登った所は、行き止まりとなっており、壁に据え付けられた、両開きの大きな扉が見える。
それは人が、潜り抜けられる程には開いており、長い間訪れぬ来訪者を、待ち受けている様にも見えた。
他に、入り口に相当するような場所は見当たらず、扉はその1つしかない。
段差を跨ぎつつ登り、扉の中を覗く。
床は、蔦の様なもので、びっしりと覆われていた。
それらの全ては、奥から敷き詰められる、絨毯の代わりであるかの様に、伸びて来ている。
奥には薄い煌めきに映し出される、幾つかの柱。
意を決して、足を踏み入れる。
さくさくと小気味良い、軽く、小さな音が鳴った。
予想通り、奥は左程広くは無い。
人が5人ほど並ぶ隙間を開けて、等間隔に並ぶ柱が8つ立ち並ぶ、やや縦長を思わせる空間。
だが、玄室の中は手を入れる者が長い間居らず、荒れ放題の様相を醸し出している。
近づいて見ると、柱は全て風と、地下に染み出る水に蝕まれ、かつて誇っていたであろう、栄華に影を落としていた。
時折滴る水と、吹き込む風の音以外は、この空間に聴こえて来るものは無い。
この先へ進めば、先程の奏ベが流れて来たのは、どの辺りか、またはそれが、その正体が判るだろうか?
しかし、程なくしてすぐに、玄室の行き止まりへと突き当たる。
これ以上奥に進めそうな所は無さそうだ――隠された入り口等が無ければ。
寸分も狂い無く、きちんと積み上げられた、小高い石段の上に、供物を捧げるらしき、台座のようなものが鎮座していた。
祭壇がある、という事は、ここが最奥なのか。
ひと際美しい装飾が施された跡。
天井から滴る水に穿たれ、古く寂れていなければ、これらはさぞかし、大切に扱われて来た事が伺えよう。
見ればその一角に、もたれる様な姿勢で、干乾びた死体がたったひとつ、剣に刺し貫かれ、鎮座していた。
――女。
ほっそりとしたその姿は、生前は女性であった事を思わせる。
見た事の無い、古びた衣服。
太古に暮らす人々は、皆このような衣服を、身に纏っていたのか。
供物とされた者であるのか、はたまた争いの果てであるのか、何も判らない――全貌が風化した状況から、見て知れる範囲の程度では、何も。
その衣服は、時折吹き付ける風に、ほつれた袖や裾を、軽く靡かせているのみ。
時折それをはためかせる他に、彼女は何も答えてはくれそうに無い。
少しだけ視線を上げる。
痩せ細り変色した頬、落ち窪んだ眼窩が虚空を眺める、頭部からは床に届く程の、長い髪が伸びているのが伺えた。
見れば、踏み鳴らして来た、全ての蔦が、その頭部に集う。
驚いた事に、床に伸びているものは、何やら見知らぬ蔦の1種、だと思っていたのだが、これは髪。
豊かに伸びる、というには多すぎる量の、あの死体から伸びた髪が、この玄室に敷き詰められているのだ。
死しても、髪はそれ程までに伸びてゆくのだろうか。
人の生ひとつを丸々掛けても、この玄室を敷き詰める程に、髪を伸ばす事は難しいように思える。
ここまで伸びた理由については、判断できる材料に乏しい為、分からない。
今、それについて考え、時間を浪費するのは止そう。
放っておいても、時が過ぎてゆく事に違いは無いし、朽ちてゆくのを待つのみ。
それが世の仕組みとは言え、一抹の寂しさを感じる者も居るだろうが、今、感傷に浸る暇は無い。
浮かび上がる、数々疑問を断ち切り、更にその上に視線を這わせると、苔や蔦に覆われた、大きな壁画が描かれていた跡。
ひと目で分かる程の、大きな亀裂が幾つか、それはまさしく伝説に伝え聞くような――他にこれを見た者が居たならば、恐らく、竜を思い浮かべるだろうか?――大きな生き物が振るった爪痕と、見紛うかの如くに入り込み、そこから少し水が染み出しているようだ。
その隙間から、根や葉の様なものが、吹き出す様に伸び、壁沿いに広がっている。
辛うじて残った部分も、随分と色褪せており、かつては色鮮やかに美しくそして、煌びやかに描かれていたであろう、その内容や情景を、今ではまるで窺い知る事は出来ない。
知恵者や、商いを行う者、絵心を有する者がこの場に居れば、恐らくこう言うだろう。
この絵にはもう、価値が無い、と。
それは美に関心が無い者であろうとも、それが容易に察せる状態である事が伺えた。
元の色すら判らねば、どのような達人であっても、修繕も出来まい。
これでは、如何に知恵が回る者でも、何が行われて来たのかを、想像する事や想定する事は難しい、と思われる。
何もかもが色褪せ、抜け落ちた後の灰色の世界――その様な印象を抱くだろう。
もしこの玄室を訪れた者が、他に居たならば。
……ここに目的のものは無い、帰るか。
期待したものが得られない、残念そうな軽い溜息が、辺りに反する。
大きな発見はあった。
だが、探していたものとは違う。
考えるのは、知恵者の仕事だ――見た事を土産話として持ち帰れば、きっと喜ぶ者も居るに違いない。
今ここに留まる理由もない、この遺跡で何が行われていたかに、思いを馳せようにも、判別出来そうなものが何一つ、遺されてはいないのだ。
せめて壁画がもう少し残っていてくれたら、暫く時が過ぎるまでは、楽しめたのかもしれないが。
ここにある全ては、かつては在った筈の、何かが喪われた痕跡でしかない。
そう考えると、踵を返す。
ざりり、と床一面へと散らばった髪が、踏み締められ、石畳と擦り合わさった音を立てる。
その時――。
少し前に鳴り止んだと思っていた、先程の音楽が響く。
が、すぐに奏でられていた音は、聴こえなくなり、再び凍り付いたような静寂が戻る。
何事かと思い、辺りを見渡していると、遺跡の玄室に、再び静かな調べが響いた。
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