第3週 それは朝日の登る海のような
彼氏が出来た。
長年の片思いだとか、そういうのではないし、クラスで1番の人気者という訳でもない。寧ろ相手は根暗で、私とは釣り合わないと、自分でも思う。
私にとって、今の彼は、2人目の彼氏だ。
私の初めての彼氏、つまり元カレは、いわゆるモラハラ野郎だった。おませな子供だった私は、「痴話喧嘩」だと思って、本当に自分が悪いと思っていたけれど、思春期の乙女のハートは耐えられなかったらしい。でも「私が悪いことをした」から「私に教えてくれている」のに、別れを切り出すのも変だと思っていた。両親も、まさか自分の娘がうつ状態だとは思わなかったし、更にはその原因が「好青年」にあるなんて思っても見なかったようだった。
そんな私が、どうして別れられたかと言うと、親指の爪ほどしかない、小さな天使のピンズのおかげだと思う。
それは、元カレに散々なじられてデートを終えた日だった。「こんなに繰り返し教えてくれている」元カレを裏切り続けていた私は、駅のホームでぼんやりと電車を待っていた。
首都圏の駅全部に、セーフティガードがあると思ったら大間違いで、元カレとのデート先の駅には、セーフティガードがなかった。
電光掲示板によると、あと3分ほどで電車が来るらしい。
何度も「優しい」元カレを怒らせて、こんなダメな自分は、もう死んだ方がいいと思った。駅のアナウンスが聞こえ始めた辺りで、自然と足が1歩、2歩、と進む。黄色い線の外側に踏み出そうとした、まさにその時だった。
「わ゛ーーーーー!!!!」
甲高い男の絶叫が聞こえて、ハッと我に返る。隣の電車の乗り口辺りで、男性がホームに手をついて、今にも線路の中に入っていこうとしていた。咄嗟に私は、緊急停止ボタンを殴りつけ、男性が入ろうとするのを引き止めた。
「何やってるんですか、死んじゃいますよ!」
ぼんやり死のうとしてたとは思えないくらい、その時は「死にに行く」ということが非常識に感じていた。男性は真っ青になりながら、私に言った。
「電車を停めてくれ!」
「ボタンは押しましたから大丈夫です、落ち着いて!とにかく離れましょう、危ないです。」
男性はそれでも線路の中が気になるらしい。何か落としたのだろうか、と、そっと首を伸ばしてみた。
沢山のキラキラとした、さざれ石のようなものが、レールを跨って散らばっていて、そこより少し遠くにトランクが落ちていた。キャスターのストッパーも、鍵もかけていなかったのか、随分と遠くに転がっている。
「緊急停止ボタンがおされました、お怪我はありませんか!」
バタバタと駅員さんが2人走ってくる。やば、と、思った。この前ニュースで、駅には「全部の電車を強制的に止めてしまうボタン」と、「危険や報告のためにあるボタン」があるとやっていた。どうやら私が押してしまったのは前者らしい。
男性はあわあわと説明した。
「すみません!俺、俺の商品が線路にぶちまけられちまって、取りに行こうとしたら、か、彼女が引き止めてくれて、その、すみません!」
とりあえず人が転落したのではないらしい、と、駅員さんは少し顔が緩む。が、線路の中を見て、うわ、という顔をした。
「あの、あれは一体…?宝石ですか?」
「いえ、あの、俺の家で作ってるアクセサリーで…。行商から帰った所だったんです。」
「ちなみに、いくつくらいありますか?」
「ええと、それなりに売れたから、全部で1キロに少し満たないくらいです。」
「いくつ」と個数を聞いたのに、「いくら」と重さを答えられた事に、私を含めた3人の顔が、藁半紙のような色になった。
とにかく私は帰れないし、駅員さんが2人掛かりで1キロのさざれ石を拾い集めるのを手伝う訳にもいかず、ホームの椅子に座って待っていた。
「あの。」
「ん?」
「あの、アクセサリーってどんなのを売ってるんですか?」
沈黙がいたたまれなくて私がそう尋ねると、男性は肩掛けカバンからA5位のファイルを取り出した。
「これに全種類入ってる。良ければ暇つぶしに見てみてくれ。」
「私お金ないですよ。」
すると、どこか無表情だった男性は、あはは、と、笑った。
「恩人に金を貰ったら、神様に怒られちまうよ。」
「恩人なんて、そんな…。」
「だってさ、」
―――俺の大事なもの、守ってくれたから。
大事なものとは、男性の商品のこと以外の何物でもないはずなのに、私は「感謝」されたことが何だかとても苦しくて、泣き出してしまった。
けれど男性は慌てるまでもなく、私の手に握られたファイルを開いて、膝に乗せ、捲りながら言った。本当なら「恋人がいる女がやらせていい事じゃない」と元カレが怒鳴るから拒まなければいけなかったんだけれど、不思議と嫌悪感よりも安心感が強くて、寧ろ男性が私の後れ毛はもちろんの事、服にも触れないようにファイルを捲っていた。「自分を大事にしてくれている」と錯覚してしまうくらいだった。
ファイルの中は九等分されていて、その中に親指の爪くらいの、小さなペンダントトップやピンズ、バッヂ、指輪まで入っていた。とてもじゃないが、ハンドメイドには見えないくらいにクオリティが高く、一致しているのが、素人目にも分かる。
しかしそれよりも、二重に重ねられたOPP袋を通し、蛍光灯だけの薄暗い中で、まるで太陽か何かのように輝くその宝石のようなアクセサリー達に、思わずため息が出た。
その内の一つに、ピンク色と透明なパーツで出来た、ピンズがあった。
色味から言ったら、まったく例えとして不適切だ。
でも私には、そのピンズが、朝日の登る海岸のように見えた。
「きれい…。」
「あげるよ。」
「いいんですか!?」
見本なのに、とか、悪いですよ、とか、そんなことを言わないといけないのは分かっている。でも、正直に言うと、どうしてもそのピンズが欲しかったのだ。ぶっちゃけ、あわよくばとも思っていた。
「うん、大事にしてくれそうだし。」
「でも高いんじゃ…。」
「大切してもらって、天寿をまっとうしてくれれば、俺はそれが幸せなんだよ。」
男性にとって我が子にも等しいものを、それも、見本をくれるという。でも、ここで謙遜したくはなかった。
「じゃあ、これ! これが欲しいです!」
「はいはい。つけておいきよ」
「いいんですか!? やったァ!」
元カレにプレゼントするばかりで、親戚の男以外に物を貰ったことがなかった私にとって、それは初めての「異性からのプレゼント」だった。
その時私はやっと、元カレに「大切にされてない」という、誰もが気づくことに気がついたのだった。そうしたら涙が止まらなくて。
でも男性は、私に興味を無くすことも、下手に慰める訳でもなく、フーっとタバコの煙を吐いたのだった。
その後男性は、何度も駅員さんに頭を下げ、無事キャリーケースを引っ張りながら駅を出ていった。私も遅れて到着した電車に乗って、帰路に着く。胸に留めたピンズを改めて上から見下ろしていると、どうやらこの4つのパーツのアクセサリーのモチーフは、天使のようだった。だからなのか、付けているだけで自己肯定感が湧いてきて、家に着く頃には、元カレに送る別れの文面が出来上がっていた。
他にも、海ほたるのようなもの、新緑のようなもの、色々あった。今度会ったら、シリーズ買いしよう。と、思ったところで、気がついた。
私は、あの作家さんの名前を知らなかった。
小さなピンズで、私の心を救って、こんなに元気にしてくれたあの作家さんの名前を、知らなかった。
他のシリーズも欲しいし、何よりまた会いたかったので、色んなアクセサリーのイベントに出かけたけれど、会うことは出来なかった。外に出る時はいつもピンズをつけて、時々外して眺めては、あの作家さんにもう一度会いたい、と、何年も思い続けた。
その後私は、高校で出会った先輩と交際を始めた。2人目の彼氏は、私の最後の彼氏になり、その誓いのために、教会に行った。
彼氏は熱心なわけではないけれど、一応クリスチャンらしい。「嫌ならいいけど、出来ればお世話になってる神父様に祝福して欲しい」と言うので、私は寧ろ二つ返事でOKした。だって、チャペルで結婚式なんて、女の憧れだ。
…が、実際は、結婚に当たって、結婚という儀式のことを知ってもらうための授業を受けなくてはいけないらしい。
「それ、勧誘?」
私が聞くと、彼氏、もとい、婚約者は大爆笑していた。婚約者が誓ってそんなことはしない、と言うのと、その勉強会の初日、高級魚の天然鮎の塩焼きが食べられるというので、行くことにした。しかも1匹数千円するような魚の炭火直焼きが、500円だという。
決して天然鮎が食べたかった訳ではない。断じて違う。これから寝食を共にする婚約者のために行ったのだ。
「神父様、彼女が婚約者です。」
「おお、美人になったなぁ。いらっしゃい。」
おいでおいで、と、神父だという男性は、私を教会のホールに招き入れ、1番に席に座らせ、1番最後に焼けたアツアツの天然鮎の塩焼きをくれた。
思ったよりも地味で短いお祈りをしてから塩焼きを丸かじりすると、炭火の香りと水分の無くなった香ばしい塩、そして塩味を吸い込んだ天然鮎がとても美味しくて、私は恥じらいもなくガツガツと食べてしまった。
「美味しかった…。…でも。」
食卓には吸い物もご飯もあったので、おかずにして、もっと味わえばよかった、と、思っていると、ひょい、と、白目を向いた鮎が泳いできた。
「あげるよ。」
「いいんですか!?」
「うん、大事にしてくれてたから。」
「あ、あの、そう言えば、神父…さん? さま? の、お名前はなんですか?」
「俺? 俺の名前はローマン。」
そうして、私は実に10年の時を経て、あの日私にピンズをくれた作家の名前を知った。
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