第2週 人間の社会ではあれを「くっ殺」というらしい
我が輩は猫である。名前はないが、人の言葉が理解できる猫である。俗に「猫又」と呼ばれるものと思ってくれて構わない。我が輩を見ると、人間達は「ネコチヤン」だとか、「ネチコヤン」と言って、呼びかけるものの、特になにもくれないので、いつも我が輩はやたらとひんやりするマンホールから動くことはしない。
現代で猫又の存在がバレると面倒くさいのは、猫の社会でも同じである。人間達は、「ネコチヤンは絶対人間の言葉が分かっている」と、妙にカンが良いが、猫社会では、「優しい声」「怖い声」「呼ぶ声」くらいしか違いがない。詳細な言葉の意味を理解するのには、10年そこらのろくすっぽ修羅場も潜っていないニャン生では足りないのである。
かくいう我が輩も、それなりに生きてきて、様々な人間模様や猫集会に参加したが、一度だけ、世にも奇妙な「猫」に会ったことがある。
その猫は黒猫だったのだが、いつも誰かの帽子を咥えて移動していた。我が輩や猫たちがにゃんにゃにゃんにゃと何か語りかけても、「うにゃ」としか言わず、ぽけっとした表情で、目を見開いていながら、時々それこそ、人間のように身体をくねらせてみたり、窓際で本を読む好々爺のような目をしているときもある。
猫又が、人間の言葉を解する猫だと言うのなら、この猫は、「人間の仕草を真似する猫」だった。骨格も歩き方も、我が輩達と変わらない。それなのに、この猫はどこか、「人間らしい」猫だった。
「お前、名前はなんていうんだ?」
猫集会の帰り、我が輩はいつものように、誰かの帽子を咥えて出席していたこの黒猫に、初めて声を掛けた。
「うにゃ?」
「名前だ。お前は人間になんて呼ばれている? お前の咥えている帽子は、飼い主のモノだろう。」
「うにゃ。」
「我が輩は、人間には「ネコチヤン」や、「ネチコヤン」と呼ばれている。我が輩は野良ゆえ、飼い主がおらんからな。名前はいっぱいあるのだ。お前は人間になんて呼ばれているのだ?」
「うにゃ。」
分かっているのか分かっていないのか、同じ言葉を繰り返した。そして、テチテチと爪の音を立てながら、石垣を歩いていった。
「おい、名前くらいあるんだろう! 教えてくれてもいいじゃないか。」
「うにゃ?」
「名前だ。名前がないのなら、お前はなんと呼ばれたいのだ?」
「うにゃ。」
このままでは埒が空かないので我が輩は溜息をついて、黒猫の後をつけることにした。
「うにゃ?」
「我が輩は野良である。どこに行こうと勝手だ。」
「うにゃ。」
その時、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、黒猫の表情が変わったような気がした。余りにも一瞬過ぎて、見極められなかったが、もし我が輩が生粋の人間であったなら、その表情に名前をつけることが出耒たのやもしれぬ。
そうして後ろをついていくと、黒猫はぴょん、と、大きな建物の中に飛び込んだ。そして、たったっと走って行く。この建物は、間違いなく人間の建てた建物だが、普通の飼い猫がいるような家とは全く違う。
「お? ツヴィンクリ。またカルヴァンの帽子咥えてきたのか。」
敷地の中で、人の言葉を使っていたモノが、振り返って黒猫を撫でる。
ツヴィンクリ、とは、また奇っ怪な名前だ。人間の使う言葉には色々な名前があることは知っているが、それにしてもあまり聞いたことのない名前だった。
「あー! ツーくん、やっと戻って来た! もう、ぼくの頭もってっちゃだめじゃないかー。」
そう言って、日陰の中からナニカが近づいて来る。日向にいたモノは、ツヴィンクリとやらを抱き上げ、日陰のナニカにツヴィンクリを渡そうとした。
「触るな!!」
我が輩は、咄嗟に日向のモノに噛み付こうとした。が、我が輩の爪と牙を、くるんと受け流し、我が輩は寧ろ、このモノの腕の中で、大股を開く醜態を晒してしまったのであった。
「おー、お前、猫又だな?」
日向のモノは、我が輩の正体を見抜いたばかりか、臆することなく、よしよし、と、腹を撫でた。
「ローマン兄弟、何ですか、猫又って。」
「この国に伝わる妖怪のことだよ。人の言葉を喋る猫のこと。」
「本当にいるんですか? ツーくんのようなものじゃなくて?」
「いるんだって。フランシスコは言葉が分からない小鳥にすら、真福八端を聞かせてたんだぜ。」
「じゃあ、ローマン兄弟、その猫、喋るんですか?」
「どうだろうなあ。猫又っつっても猫だからな、気まぐれに喋ったり喋らなかったりだろ。カリカーリでもあげたら喋ってくれるか? ん?」
そう言って、日向のモノは、我が輩のキモチイイ所を巧みに擽ってくるのであった。我が輩は猫の矜恃を保とうとする理性と、この快楽に身を任せてごろごろと屈服したい衝動とを戦わせながら、きっと睨み付けて、人間のような姿をしているこれに、人間の言葉を言い放った。
「そ、そういうお前は、………にゃふん、何者だ?」
「お、喋った。」
日向にいたモノの腕の中で、息切れしながら言うと、どれどれ、と、日陰にいたモノも覗き込んでくる。そのモノの頭には、あの黒猫が咥えていた帽子が載せられていて、黒猫はその帽子の上に寝転がって、同じように覗き込んできていた。
この時、我が輩は、この表情は、さっき一瞬見たものと同じだと分かったが、それは年を取った人間の一部が、小さな人間の一部に向けるようなもの―――の、亜種のように見えた。
「おまえたち、人間ではなかろう。」
「へー、凄いな、猫又って。下手な人間よりよっぽど本質が見えてら。」
「な、何をするっ!」
そういうと、日向のモノは、我が輩の前足の付け根を持ち上げ、高々と掲げると、左右に我が輩の腰を降らせた。ぷらんぷらん、と、我が輩の下半身が揺れる。
「は、離せー! やめろ! こんな屈辱!」
「はえー、難しい言葉知ってんだな、最近の猫又って。」
「嫌がってますよ、離してあげましょうよ。」
「まあまあ、こういう時やることは決まってるから。」
そう言って、今度は我が輩の首の皮を掴み、我が輩を別の建物に連れ込んだ。
「な、何をする気だ!」
「そう気ィ立てんなよ。お前が欲しがってるもんやるから。」
「いらん! 人間ですらないオマエ達にもらうモノなどないっ!」
「そういうなって。くれてやるっていってるんだからもらっておけよ。…あ、あったあった。」
「や、や、や……。」
「いやにゃあああああああっっっ!!」
―――数時間後。
今までもらってきた、どんな食べ物よりも口の中を幸せにしてもらった我が輩は、はっと気がつくと、花の繁っている石垣の上にちょこんと座っていた。
まだ口の中がべとべとして、ぬるぬるしている。
当分の間、この謎の多幸感は忘れられそうにない。クセになりそうだ。
だが、あの建物に行こうとは思わない。
あそこに入ると、我が輩は人ならざるナニかに、いいように扱われてしまうからだ。
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