雨の弓は放たれた
センソー ワ ニンゲン ノ シワザ デス。
センソー ワ ニンゲン ノ セーメー ノ ハカイ デス。
一九八一年広島。ヨハネ・パウロ二世による日本語でのスピーチより。
✠
人の信仰のあるところ、全てに遍く現れる存在というものは、時にして残酷な現実と立ち向かわなければならないものだ。宗教と政治は分離した原理であり、どこかの国に住む人々は、その国の危機に立ち向かわなければならない。国と宗教の垣根は高く、それは概念的に人の
二〇〇〇年の節目の年、時の教皇ヨハネ・パウロ二世は、地面に口付け、凡そ一七〇〇年に渡るローマ・カトリック教会の全ての罪を認め、懺悔し、世界のあらゆる国、あらゆる宗教、あらゆる民族からの赦しを懇願した。以降、ヨハネ・パウロ二世は様々な国を訪問する折に、大地に口づける儀礼を行った。
三世紀、ローマ帝国の国教に指定されたことで、オレは役目を五人の息子達に引き継がせ、原初の信仰を保つための灯台になることに専念することにした。その後、オレの見通しの甘さは歴史を愛する全ての人々の前にはあまりにも恥ずかしいものだ。しかし、二〇〇〇年という大聖年に、本来在るべき姿に立ち返った長男ローマンと、その先生の英断は、本当によくやったと思う。西洋諸国への衝撃は凄まじく、また、謝罪のための段取りを始めていることが決まった折には、共産主義が立ちゆかなくなった国すらあった。
あの日、我が息子は、血を分けた弟達への横暴も含め、その罪に向き合ってくれた。オレはその勇気に、涙を流して喜んだ。
―――父上様。兄上様について、ご相談があります。
次男坊のコンスタンティン・カトリックが、ふらふら日本を旅していたある晩、連絡を寄こした。オレはすぐに、彼の住む
「おや、父君様。うちの教会などに来て下さるとは。」
「ああ、挨拶はいい。コニー…コンスタンティンはどこに居る?」
「はい、聖堂にいらっしゃいます。人払いを、と言われているので、今他に誰も居ません。」
「そうか、ありがとう。」
聖堂の入り口で礼をし、そっと扉を開くと、いつもは沢山ある筈の蝋燭が、一本も立っていなかった。どうやら皆燃え尽きてしまっているらしい。そんなに長い間、誰も聖堂に入れなかったのか?
「コニー。いるのか?」
暗闇が動く。色の付いた月明かりの光の中に、ボブカットに青い祭服を着た青年が浮かび上がった。東ヨーロッパの長、正教会を体現する者―――コンスタンティンが、何やら深刻な顔をしている。
「どうした? ローマンが早速やらかしたのか?」
「そうじゃないよ、父上様。不気味なくらいに何もやってない。それが寧ろ問題で………。」
コニー曰く。
二〇〇〇年のあの公式謝罪を経て、寧ろローマンの顔は晴れやかになった。弟妹全てが全て、それを受け入れた訳じゃない。寧ろ知らない面子だっている。そもそも接触を拒否しているような子達は、大兄が何を呼びかけても反応しないからだ。それだけに、謝罪を受け入れてくれた者が思ったよりも多かったことを喜んでいたという。
きっかけは分からない。ある日突然、そのローマンが、口を効けなくなった。風邪などではない。そもそもオレ達は余程、信仰の危機にならない限り、体調を崩さない。謝罪に向けて、保守たちから散々な目にあわされただろうが、その程度で参るような幼い子でもない。何せ、オレが一番に仕えていた先生の、後継者なのだ。その名は伊達ではない。
ただ、ずっと喋れない訳ではないらしい。ヨーロッパでローマンとコニーが会った時は、快活に喋っていたし、懇親会でも調子の悪そうな所はなかった。彼が日本にいるときだけ、何も喋れなくなるのだという。喋れない、という程ではないが、アメリカにいる時は、口数が少なく、どもりがちで、なんだか俯いているようにも見える、とのことだった。何かを言いかけて、押し黙るのを繰り返しているようにも見えるとも。
「僕は、太平洋戦争のわだかまりが、日米で解けていないからだと思います。ローマ教皇が戦争について言及していたから、マイナーとはいえどちらにも仲間が居るわけだし、複雑な思いなのかも知れません。」
「確かに、教皇自ら謝罪っていうのには世界…いや、日本だとか、その辺り以外は激震した。でも本当にそれだけか? 言っちゃなんだが、仲間同士で戦争なんて、この千年以上、何度あった? そんな事で一々しょげてたら、一五〇〇年以上も闊歩してないぞ。」
「それは同意です。兄上様はどんな人も受け入れる大らかな
「ちなみに、あいつが最後に喋ったのはいつだ?」
「僕はその時いなかったんですけど、矢追カトリック教会の主任司祭曰く、激しい雨が上がったら、いつの間にか喋れなくなっていたそうです。」
フム、と、オレは顎を掴んだ。これ以上、コニーは何も知らないだろう。本人に直接会う方が良い。オレはローマンが今日一日、どこにも行く予定はないということを電話で確認してから、教会を出た。
✠
酷く空気が湿っていて、空も重たい。念のため傘を借りてきたが、早く入らないと僅か数メートルでもずぶ濡れになりそうな不安が、空からゆっくりと、世界を押しつぶしている。矢追カトリック教会まで歩いてくると、教会の庭の花壇に、ローマンが水をやっていた。
「!」
足音に気付き、息子はぱっと顔を明るくし、如雨露を置いて走り寄ってくる。青空に浮かぶ雲の下部のように、少し顔がくすんでいるように見えた。顔こそ気持ちの良い笑顔だが、その笑顔に酷く重たい陰がある。
「久しぶりだな、ローマン。謝罪会見の時以来か?」
うんうん、と、ローマンは頷き、オレの手を取って、信徒会館に案内した。今日は誰も使う予定が無いらしい。衝立で小さくされた部屋の奥まった所まで引っ張られ、ふかふかのソファを指さされる。ここで待っていろ、茶を淹れてくる、という意味だろうか。
「うん、待ってるよ。ああ、でも茶菓子はいい。次の日曜日、確か矢追町の子供会があるだろ。その時に子供達に配ってあげな。」
するとローマンは、あはは、と小さく声を出して笑った。どうやら生物学的には(生物…?)どこも問題が無いらしい。あくまでも、言葉が出ない、という事だ。耳が遠くなったとか、喉を痛めたとか、舌が麻痺しているとか、そういうことではない。
ということは、何か心因性の問題だろう。はて、図太さならオレの子供達一と言っても過言ではないローマンが、それ程に追い詰められるなんて、一体何が遭ったというのだろうか。ファティマの預言騒動でも、ナチスと不可侵条約を結んでも、尚ぺちゃくちゃとよく喋った口が、何をどうしたらそんなにも―――。
す、と、目の前に湯飲みが差し出された。おう、と受け取ると、ローマンは自分の分の湯飲みに口をつけながら、どこからか持ってきた小さなテーブルを置いた。一口飲んで、テーブルに湯飲みを置くと、ローマンも同じように一口飲んで、テーブルに置く。そしてオレの方を期待の籠もった眼差しで見つめてくる。
今日はどんな用事なんだ? なんか面白いことでもあったのか?
そんな眼だ。オレが逆に覗き込んでも、不思議そうな顔はするものの、顔は明るい。少なくとも、隊長が悪くてどこかが痛い、という感じはしない。
「前も言ったけどさ。もう一人で謝罪も出来るようになったし、やっと一人前だな。人間の大人と同じだけに成長できた訳だ。一七〇〇年間、積もり積もったものを謝罪した勇気、オレは
褒められるということは、どんな人間であっても嬉しいものだ。況してやそれが、確かに自分が努力したのであれば、努力を認められれば認められるほど、気分は良いし、やる気も繋がる。その辺りはオレ達も普通の人間と変わるところではない。
「で、だ。一人前の大人になったお前には、父から褒美のプレゼントをやろうと思う。何がいい?」
イエスとノーで答えられない質問。身振り手振りで答えられない質問。どのように答えるのだろうか。
ローマンは斜め上を見つめて考えた後、両手を合わせて思いつき、パッと腕を広げて笑った。
「…? なんだ? 抱っこでいいのか?」
こくこく。
しまった、答えを言ってしまった。しかし、ふれあうことで感じ取ることもあるかもしれない。少し尻を動かしてローマンにくっつき、胸元に抱き寄せて、背中をさすった。
「いいこ、いいこ。頑張ったな。えらい、えらい。」
神が同意するかのように、背中が温かくなる。湿っぽい曇天が切り裂かれて、太陽が出始めているのだろう。すりすり、すりすり、と、甘える息子の額に口付け、おしまいだ、と、頭を撫でようとした。胸元に埋まっていた顔が、オレの背中から零れる日差しを受ける。
「!!!」
その時だった。全く突然に、ふんわりと得意気だった顔が、ハッと凍り付いた。何ぞ悪霊でもいるのか、と、振り向くと、そこには見事な虹が架かっているだけで、寧ろ清々しい空模様が広がっている。だがどういうわけか、胸に鼻先を埋めて震える我が息子は、この空を見て酷く怯え始めたようだった。
「ローマン? ローマン大丈夫か? 茶、飲めるか?」
テーブルに手を伸ばそうとすると、ぎゅっと腕ごと抱きつかれる。…というより、締め上げられる。酷く震えていて、力の加減が出来ていないのだ。…痛い。
「大丈夫、大丈夫。一緒にお祈りしような。」
ふるふる。
それは意外な答えだった。何かあったら祈る、とりあえず祈る、なんとなく祈る。それはこの子が、オレの跡を継ぐ前から教え込んでいたことで、話を切り上げたり、興味が無かったりするときに、「お祈りしておきますね」と言う方便を言う文化になっているくらいだ。………自分で言ってて少し悲しいが。
それ程祈りというものの力を信じているこの子が、祈りを否定する。ということは、神と向き合う事が出来ない―――つまりは、何らかの罪の記憶がこの子を苦しめているということだ。あの歴史的謝罪の後に分かったのだろうか、それとも、あの謝罪とは関係ないところだろうか。
…というより、何かに怯えている…? 罪に怯えているのか? ならば、誰が裁く罪だろうか。
「ローマン、ちょっと、痛い…。」
「~~~。」
いやいやと首を振られ、更に力強く締め上げられる。肩に力が入りきっていて、本人とて痛かろう。
「分かった分かった。そばにいるから、どこにも行かないから、だから力を弱めてくれ。お前も痛いだろ。」
よしよし、ぽんぽん、と、根気よく頭を撫で、背中を叩いていると、段々と力が抜けてきた。ローマンの身体とオレの身体の間が徐々に開いていき、ゆっくりと大きな呼吸を繰り返す。
「………落ち着いたか?」
「………。」
ローマンは俯いたままで、眼を合わせようとしない。泣いているようにも見えるが、涙は零れていない。唇が震えて、指先も冷たく、色も悪かった。オレが来た時は楽しそうにしていたのに、同じ日の姿とは思えないくらいに別人だ。
………。よし。
「!」
ぐいっと引き寄せ、ソファの上に二人で倒れ込む。きょとんとしているローマンを、今度はオレが抱きしめ、にっと笑ってやった。
「寝ろ! 父さんが一緒にいるから。
不安そうに視線を泳がせていたが、ローマンは結局何かに納得したらしく、自分からオレの鎖骨の間に額をくっつけ、比較的早く、穏やかな寝息を立て始めた。やはり、あまり眠れていなかったのだろう。
「………。嗚呼神よ、我が為に清き心を創り、我が子の衷に
此の子を聖前より棄て給う勿れ。汝の
汝の救いの歓びを此の子に返し、自由の霊を与えて此の子を保ち給え。
さらば我は
✠
―――世界大戦以後、俺には三人の妹が出来た。
それまで、戦争と言えば、戦地に兵士が赴いて、兵士同士で殺し合った。女子供、老人達は、見たこともない彼方へと祈りを捧げることしか出来なかった。
しかし、飛行機が開発され、戦地は人々の暮らしの場まで広がった。この惨劇を見た女達は、きっと今に悪いことが起きる、と、慌てて神の救いを求めた。これが、キリスト教三大異端と呼ばれる三姉妹の始まりである。
その戦争は、先の世界大戦を凌ぐという意味で、第二次世界大戦とでも呼ぶべき大きな戦いだった。それだけに、多くの著名人が良心に従い―――投獄され、殺されていった。
俺達は、俺は、自分の仲間を護る為に、極力中立を保った。そうすれば、少なくとも
こんな二足のわらじは、別に今に始まったことじゃない。地球が丸くて本当に良かったと思う。信仰のあるところに俺がいる。ならば、敵国に分かれようとも、俺はどちらにも在る。俺たちはそういうモノだから。
大戦は、今年で早くも四年だ。真っ先に落ちると思っていた小国が粘っていたのである。しかしそれは、勝機があるから粘っていたのではなくて、だれもが正気を失い、誇りと蛮勇を間違え、命の優先順位を間違え、抵抗するばかりであった。
殺戮を持ってして、殺戮を止めさせるしかないと、誰かが言った。その為の兵器なら、あるのだと。
兵器の開発者の中にも、当然ながら俺の仲間は居た。だからその存在そのものは知っている。開発の為に、一度ニューメキシコで実験をしたが、威力は思ったより小さかったといっていた。
しかし、その爆弾を落とす時に、何があるのか分からないし、何か事故があった時に、良心が咎めるのもいやだ。結果、アメリカでは最も仲間の少ない俺達におはちが回ってきた。
「ローマン様、どうか、どうか、一緒にフライトしてくれませんか。」
四年も続けば、人の心というのは摩耗して、もうその残滓もない。それは日米に限らず、どの国でもそうだ。アメリカは、何度爆撃しても降伏しない日本をなんとしても手に入れなければならなかった。それは俺も同意している。何故と言えば、日本が陥落すれば、ソ連からの共産主義がアジアを斡旋する。共産主義は明確に
同時に、もう零戦と戦いたくないという兵士の気持ちも理解していた。日本は爆弾を積んで突っ込んでくる。生きて祖国に帰るためではなく、死して道連れにするために。カミカゼは、アメリカ人を酷く混乱させたし、訳の分からない行動心理にも怯えた。
誰もが怯えていた。怖くて怖くて震えていた。震えて飛び散った心の雫は既に枯れ果て、揺れる心の大地はひび割れ、誰も住んではいなかった。祈りを忘れ、お祭り気分の宗教行事に逃げて、尚人々は摩耗していた。
「ああ、いいよ。隣にいるから、一緒に飛ぼう。これが最後のフライトになるように祈っているから。」
一人のパイロットが―――爆弾を落とす任務に就いた、一人のパイロットが、酷く怯えていたので、俺は搭乗を受け入れた。何せ人類未到の爆弾を使うのだ。不安でない訳がない。
日本列島が見えてくる。フランシスコと訪れたとき、俺達は歓喜に打ち震え、あの島国を聖母マリアに捧げると祈ったのだっけ。世界中のどこもが、あの島国のように美しかった。けれども全ては灰燼に帰している。
そんな時だった。美しい雲を見たのは。
虹だ。虹が雲に映っている。否、雲が虹色になっているのだ。ぱっと光が迸った後、美しい虹色の雲が、奇妙な形の入道雲になっていた。不思議な雲も出来るものだ。これが新型爆弾の特徴なのだろうか? 俺は何かを決定的に見落としているような、なんだかぽっかりと空いたような、空虚な気持ちでありながらも、その美しい雲をじっと見ていた。
「ああ、良かった。任務が無事終わりました。これで帰れます。………ローマン様? ローマン様?」
「え…。あ、ああ、そうだな。帰ろうか。」
何か会話をしたのだっけ。思い出せない。酷く虚しくて、身体が軽くて熱い。こんな奇妙な感覚は、今まで感じたことがない。
それもそのはずだったのだ。ヒロシマにいた俺の身体の一部が、一瞬にして蒸発してしまったのだから、身が軽くなって当たり前だし、そのような攻撃は今まで有り得なかったので、今までにない感覚がしたのだ。
事の重大さに気付いたのは、いつだっけか。アメリカのカトリック教会とローマのカトリック教会は対立し、一枚岩ではなくなっていた。共産主義という明確な敵がいたにも関わらず、だ。
第二次世界大戦後にも戦争は続いた。共産主義との戦いだ。
「
酷く疲れた。あちらこちらで、良心を取り戻せなくなった兵士達の叫び声が伝わってくる。
戦争はいやだ。政治はいやだ。そんな風に思うことは今まで何度もあった。その度に、流星のような命の全てを戦争に費やす人々の為に祈り寄り添い、なんとか誤魔化してきた。
しかし、そんなものではもう、揺り戻しが出来ないほどに、疲れていた。仲間達を鼓舞する事が出来ない。抜け殻のようなミサを行って、聖体をかじっても、御血でくちびるを濡らすよりも、感情もなく塗れる頬が渇くことがない。
時の教皇ヨハネ二三世が、そんな俺の弱音を聞いて漸く、史上初めて、問題提起をするための
しかし、その時、原爆を落としたのが、俺であることは含まれていなかった。理由は簡単で、俺はアメリカであったことを、
疲れた、疲れた、疲れた。何もしたくない。
そう思っていることが、神にバレたのだろうか。
豪雨の去った矢追カトリック教会に、巨大な色の濃い虹が架かり、俺は声を失った。喋ろうとすると、虹の縄が舌を束ねてしまい、喋れない。原爆を落とした兵士達が沈黙しているのに、誇りに思っているのに、俺が何かを言えば、彼等の良心のよりどころはなくなる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
良心にだけ従えば良い時代は、最早とうに過ぎ去っていて、それなのに俺は、増えていく敵から逃げる今年か考えなかった。罪科を数え始めるのは、あまりにも遅すぎた。
「久しぶりだな、ローマン。謝罪会見の時以来か?」
―――親父がやってきたのは、そんな時だった。
俺が花壇の世話をしていたとき、コニーの家から電話があった。事務員が代わりに出てくれたが、親父が俺に会いに来たいと言っていると聞いた時には、すわとうとうバレたかと思って、呼吸が乱れた。しかし親父にバレていることで、神にバレていないことなど無いのだ。…元より神から隠すなど無理な話なのだが。俺は待っていると言うように伝えて、花壇の世話の続きをした。コニーの家からうちまでは、歩いて三〇分もない。親父が何を言うのか、何を詰問するのか、気が気でなかった。
思ったより早く、親父は教会にやってきた。その顔がしかめ面でなかったことに、心底安堵する。この頃誰に会うにも怯えていたから、心の底からほっとした。父の手を取り、信徒会館の奥の方に呼び寄せる。衝立が沢山あるから、何をしていてもそうそう信者に見られることがない。…時々居るのだ、野次馬が。
とにかく親父の気が変わらないうちに、と、俺は親父をソファに座らせた。手を少し動かすだけで、親父はすべて、俺の言いたいことを理解してくれていた。
「うん、待ってるよ。ああ、でも茶菓子はいい。次の日曜日、確か矢追町の子供会があるだろ。その時に子供達に配ってあげな。」
「あはは。」
変な声だったが、笑い声が出た。掠れて揺れて、酷く弱々しい声だ。もしかしたら、擽ったり驚かせたりすれば、俺の声は出るのかも知れない。けれども、今俺を驚かせるモノは、怯えさせるモノは、あの大戦の過ちを大聖年という節目に露にできなかったこと以外にない。そんなことを、よりにもよって親父から言われたら…。…消える。消えさせてもらう。もう誰もが、
信仰のあるところ、遍く我らは存在する。
で、あるならば、信仰のないところには、どのように近い場所であっても、在ることは出来ない。
✠
それから暫くして、俺は徐々に声が出るようになった。それは偏に、俺自身が、原爆に声を挙げるようにと求められたからだ。あの後教皇も代わり、完全に機を無くした俺だったが、教皇が日本に来る度に、ヒロシマとナガサキで定例のような訴えを聞く度に、心が重くなった。
転機はある日突然、全くの青天の霹靂だった。アメリカでミサを行った後、その教会の司祭と茶を飲んでいた。ドアをノックされ、信者の娘が問いかける。
「神父様、神父様、変な軍人さんが、ローマン様はいらっしゃるかといらしています。」
何か引っかかる言い方をされ、俺は久しぶりに舌が重くなる感触がした。
「名前は? なんでローマン様に?」
「ジョージさんという方です。ローマン様とは、数十年前に仕事を一緒にしたと。」
「ローマン様、ご存じですか? この頃は終戦日が近く、日系人がデモを行っていますから、追い返しますか? ジョウジというのは、日系の名前かも知れません。」
「いや、いい、会うよ。…にしても、どのジョージだろ。」
「ははは、ジョージはいっぱい居ますからなあ。」
「メアリー、ありがとう。二人だけで話したいから、一番奥の会議室にお通ししておいてくれ。茶を飲んだら行くよ。」
「では、ご案内してきます。」
この数十年に、と言われても、実のところアメリカが関与した戦争だけでも何百万と俺は会っている。顔を見れば思い出すだろうが、名前だけでは不可能だ。ジョージはいっぱい居すぎる。親父ほど徳を積んでいない俺は、遠くから気配だけで個人を特定できない。アメリカ軍にいたのか、それともアメリカ軍に抵抗する原理主義の人間か…。とにかく、ジョージだけでは分からない。
二人分のコーヒーを持って、指定した会議室に行くと、杖を突くのも大変そうな位に老いぼれた男が待っていた。すぐに、彼のファミリーネームを思い出す。
「ザベルカ…。ジョージ・ザベルカじゃないか! どうしたんだよ、こんなところまで! 祈れば会いに行ったものを…。ほら、立つな、座ってろ。コーヒーはブラックで平気か?」
何か切羽詰まる感じがして、俺は捲し立てて座らせた。彼はあの大戦で、カトリックの信者や、或いはWASPに入らないアメリカ人で構成された五〇九部隊の従軍司祭だった。―――即ち、あの原爆を落とした部隊にいたのだ。俺と共に。
「ローマン様、ローマン様、お久しぶりでございます。是非とも今回は、わたしは貴方様を自分の足で尋ねなければと思ったのでございます。どうぞ、力をお貸し下さい。」
震える指でコーヒーを啜ったザベルカは、魂を振り絞るように言った。
「この数十年、わたしは考えていました。暴力についてです。ローマン様、今も昔も、キリストの精神は変わっちゃ居ない。変わったのはわたし達の方です。
ローマン様、私達は認めるべきです。神の愛し子を神の敵と誤認して殺したことを。
ローマン様、私達は償うべきです。愛の神の子として、|私たち(アメリカ人)に愛されるべきだった
―――アメリカ人カトリック司祭が、「アメリカ・カトリック教会は」という但し書きを添え、戦争についてのもう一つの罪過を告白するまで、あと九年。
どうか来たるべき贖罪の日に降る雨が、死の黒ではなく、希望の光に溢れた虹色でありますように。
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