第3週 箱庭の少女

 カトリック東京教区にある地方都市矢追町。そこのカトリック教会に、先祖代々、カトリックである一家が通っていた。禁教時代を生き抜いた、という訳ではないが、すくなくとも世界大戦による「西洋狩り」は生き抜いている。

 20世紀末、大々的に、且つ抜本的に、教義かんがえかたを改めた俺であるが、案の定、弟が産まれてしまった。それに関しては、二代先の教皇せんせいのおかげで、表向きはどうにかなっている。

 しかし、千と数百年、教えてきた個とを方向転換するのは、中々難しいものがあった。

 俺はいい。俺は結局は人を模したものであって、俺の存在の永続性や確立性は、人間とは違う。しかし、人間の哀しいほど短い生の中で、俺の大変革を受け入れるのは難しい、という人間は多かった。

「そういうわけで、ローマン神父さま、愚息が家を出てしまって、もう三ヶ月…。無理矢理見合いをさせた辺りから、上手く行かなくて、謝ろうとした矢先に……。」

「母さん、ほら、薬を飲みなさい。―――妻には、男は家出の一つや二つ、するものだ、と言っているんですが、何分心を病んでしまうほど心配していまして。」

「昔から、家を離れたりした場合は、『慌てるな、騒ぐな、ほっとけ』と言いますけれど、ご両親も奥様も、そうは行かないでしょうし……。捜索願は出してあるって言ってましたよね?」

「はい、でも、探して貰えるかどうか……。」

「お二人も祈っていかれるとよろしい。…もう夕ミサの時間です。御子息のことをミサでお祈りしますけど、宜しければ手伝いますか?」

 是非に、と、夫婦は顔を上げた。

 実のところ、俺はその気になれば、この夫婦の子どもの行方は分かる。

 信仰のあるところ、遍く我らは現れる。で、あれば、信仰を持っている者、或いはキリストの御心に沿う者がいるのなら、その者の所に現れることは、玄関のドアを開けるより容易い。そして、二人の子どもが、熱心に祈っていることは、それこそ三ヶ月どころか、彼が物心ついた3歳のころから知っている。だからこそ、今回の俺の在り方の問題は、その子にとっては、正しく福音だと思っていたのだが―――。

「―――また、マリア・コルベ菊地きくち勇男いさおを、心に留めてください。感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和が、皆さんと共に。」

「また、司祭と共に。」

 パイプオルガンの荘厳なメロディに合わせて、嗄れて掠れた声が僅かに歌う。このような教会に、勇男のいる場所はない事は、明らかだった。

 ―――とりあえず、会いに行くか。

 香部屋で着替えながら、ローマンは家にあるおしゃれ着を思い出していた。


 夕ミサが終わってから一時間もすると、その町に夜の蝶が羽ばたき出す。それは開店に会わせて、この社会で望ましい姿に溶け込みながら、出勤する合図だ。

 蛹が羽化し、真莉愛まりあはスパンコールのあしらわれた蝶になる。蛹の姿を知っている者は、この町にはいない。真莉愛は真莉愛らしく生きることが出来る。

 ―――そう、思っていたのに。

「こんばんはー。ここって一見さんOK?」

 店が開いたその瞬間、彼は現れた。教会で見た姿のまま。凍り付く真莉愛に、先輩が愛想良く接客に行く。

「いいですよー、いらっしゃいませ! ドーリー・ドーリーへようこそ。こういう店は初めて?」

「いや、この店は初めてだけど、こういう店は結構行くんだ。お店のルールさえ良ければ、カウンターでお喋りがしたいんだけど。」

「料金はこれくらい、で、現金払いのみですが、大丈夫ですか?」

「うん、予算内だから大丈夫。」

「では、ご案内します。」

 先輩がハキハキと案内してくる。真莉愛はどうにも居心地が良くなくて、というより、危機感さえ覚えて、裏方に引っ込もうとした。ところがその客は、

「お姉さん、これ、この『スペルマ』っていうカクテルちょうだい。」

「貴方がそんな単語仰らないでください!」

「え、なんで? お店のカクテルの名前でしょ? 爽やかな青色で美味しそう。」

 『Sperm』の意味分かって言っているんだろうか、と、思うと、絶対に分かっているのだろうが、同時に、「美味しそう」と思っているのも表情からして分かる。先輩が客の見えないところで、真莉愛の腰を触って話しかけた。

「真莉愛ちゃん、知り合い? どうする、接客変わろうか?」

「いえ、多分、私じゃないとダメなので…。先ほどは失礼しました。きちんと接客します。」

 カクテルを作り、真莉愛は客の前に持って行った。

「…どうぞ。」

「へー、これが『スペルマ』ねえ。綺麗だな、頂きます。」

 カクテルグラスというよりも、ファミレスのコップに近い容器に入れられた、上が青空色の、下が雪色のカクテルが、氷が傾いて少し混ざる。真莉愛はこそこそと言った。

「それ飲んだら、帰ってくれますか?」

「やだ。あ、ポッキーセットもちょうだい。あと真莉愛、何飲みたい?」

「だってローマン神父さ―――。」

「ここは『女の子』と、お喋りする店だろ? 俺は『真莉愛』と話しに来たの。歴とした客だよ。別に説教垂れるつもりもない。」

 真莉愛は言外に『さっさと帰れ』と、一番高いカクテルを強請った。いいよ、と、客―――自分が3ヶ月前まで世話になっていた教会の神父は、にっこり笑って気前よく注文する。それが妙に居心地が悪い。

「両親に言われて、連れ戻しに来たんじゃないんですか?」

「おい真莉愛、俺は今客だぞ? そういうのじゃなくて、楽しい話がいい。」

「どうやってココを見つけたんですか?」

「導き的なモノ。」

 本当にそうだろうなあ、と、真莉愛は肩を落とし、ポッキーセットを出して、最初の一本を手につけた。

 それから、ローマン神父は、本当に話と酒を楽しむだけ楽しみ、それだけで帰って行った。名刺を強請られることも、住所を聞かれることも、地元の話もしなかった。

 プロ三ヶ月目の真莉愛が前後不覚になるほどに呑ませても、ローマン神父は全く酔いつぶれることはなく、真莉愛を気遣う余裕すらあった。明け方近くの閉店間際になって、何十枚もの大金を本当に現金で支払い、ローマン神父はやっと、帰る、と言った。真莉愛の客だから、と、真莉愛は先輩に付き添われて、外に出る。

 そろそろ、蝶は蛹に戻らなければならない。

「んじゃ、暇が出来たらまた来るわ。カクテル美味しかった。次は先輩とお話ししようかな。」

「あらあ、待ってますね!」

「じゃ、気ぃつけてな、真莉愛。呑ませすぎてごめんな。」

 そう言って去ろうとしたので、真莉愛は、あの、と、呼びかけた。

「ん?」

「―――両親にもらった名前は、捨てました。でも、貴方にもらった名前は、使わせて下さい。」

「うん、好きな名前を名乗るといい。―――もう、お前の中の『少女』を、隠す時代じゃなくなった。」

「この町にも、貴方は来ますか?」

 この店ではなく、この町に。この、夜の蝶が集い、蛹として世を忍ぶ町に。公然の秘密として、この町が、蛹の町だと言われているこの町に。

 蛹を悪だと断じた貴方は、来てくれますか。

「―――求めよ、然らば与えられる。…教会の門を叩きたいなら、叩け。俺はそこにいる。」

 泣き崩れた真莉愛が、顔を上げたとき、もうローマン神父はいなかった。


 【Gender Incongruence】

 個人の経験する性と割り当てられた性別の顕著且つ持続的な不一致によって特徴付けられる。ジェンダーの多様な振る舞いや好みだけでは、このグループとして診断名を割り当てる根拠にはならない。―――2018年6月18日、世界保健機構より発表された「国際疾病分類」より。尚、本発表により、「性同一性障害」という語句は消え、また同疾病は、精神疾患ではなく「性の健康に関連する状態」として分類された。


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