2022/6

第1週 白くても、猫。

 良く雨が降るなあ、と、矢追福音女子修道会でルーテル修道女は外を見上げた。窓からは太陽光と同量ほどの雨が降っている。この所ずっとそうだ。梅雨の走りの日本は、寒暖差が激しくて、人間達は大変そうだ。

 視線を水平に戻すと、色とりどりの傘が、垣根の上を蛙のように跳ねている。明らかに許容量を二倍オーバーしている傘だったりとか、傘ではなく鞄が飛んでいったりとか、垣根越しでもなかなか面白いものがあるようだ。

 その中で、一つの傘が、すっと下に消えた。何か見つけたのだろうか。ルーテルは何とはなしに気になって、傘を持って外に出てみた。

 一人の女子高生が、傘から肩を半分ほどずらして、何やらもぞもぞ動いている。あー、と、ルーテルは心の中で溜息をついた。宗教施設は、何でも良い心だけで回っているから、『責任を取りたくないけど良心も痛めたくない』という、人畜無害の多いことと言ったらない。そんなところに、飼いきれなくなったペットを捨てたところで、殺処分を免れることは出来ないのだが。

 …の、だが。

 少し移動して、段ボールに入っているものを見て、そのまどろっこしさにルーテルは溜息をついた。ふと視線をずらすと、トレードマークの帽子と猫を取った、自分の双子の弟がいた。

 しー………。

 小憎たらしい笑みで、弟は唇に指を当てる。様子を見ていると、別の男子学生がやってきて、濡れて下着が透けそうになっている女子学生の上に傘を翳した。

 女子学生と男子学生は、何やら話をしていたが、突如として、帽子を咥えた白猫がパッと段ボールから飛び出し、チャッチャッチャッと爪の音を立てて、物陰に潜んでいた飼い主に飛びついた。

 その瞬間、まるで白いペンキが落ちるかのように、白猫は黒猫に変わる。

「あ、ねこちゃん!?」

 女子学生が心配そうに辺りを見回している。しかし、男子学生に何か言われ、こちらに背を向けた。その間に、ルーテルは弟の頬を摘まんで、女子修道院の中にある礼拝堂に引きずり込む。

「な、なんだよ、ルーテル。」

「何だよじゃないわよ。大方ツヴィンクリを使って、あの男子学生に女の子に声を掛けるきっかけを作ったんでしょ。」

「うん、あの男の子うちの教会員の子で、相談されたから。」

「このバカっ!」

 良く響く礼拝堂に、ルーテルの罵声が響く。ぽたぽたと雫の零れる帽子を器用に動かして、弟の腕の中で、黒猫のツヴィンクリは眠っている。白猫から黒猫に姿を変えたことからも明白なように、この猫もまた、猫に似て猫でないものである。

「あのねェ! 顔見知りであっても、偶然を装うなんてサイテーよ!」

「なんでさ。あの二人、両思いだよ。」

 ルーテルは右手の傘で殴りつけようかと思ったが、そういえば人間の男ってこういうものだっけ、と、急に気分が萎えた。

「10代なんてあっという間だ。人生100年の時代になってもね。それに、うちの教会員の家族だからといって、別にノン・クリスチャンと恋愛しちゃいけないなんてことはないよ。少なくともぼくはそう教えているよ」

「ふん、ばからしい。クリスチャン同士の子どもと、ノン・クリスチャンの家庭に育った子どもが、価値観を共有することがどれだけ難しいのか分かってないのね。甘ちゃん。」

「それはルーテルの考え方でしょ? ぼくらは違う。」

「…って、話が逸れたわ。そうじゃなくてね、人の恋路に口を出す奴は馬に蹴られて死ねって言うでしょ。なんで余計なことしたのよ。」

「うーん、それは、なんというか。ぼくも、ツヴィンクリ兄弟が猫を模す程に信者なかまを失う前に話したかったから―――。」

 外に、初々しい二人組はもういなかったが、遠くで『雷』が落ちたような音がした。

「もう間もなく、一つの身体になるんだとしても、言葉を交わせるチャンスは多い方が良いって思ったんだ。」

 サイレンの音が近づいて来る。

 小さな礼拝堂に佇む、人を模した何者か達と、猫を模した何者か。

 果たして二人は、善なるものか、悪なるものか、人の敵か、味方か。

 人の姿を捨て、吉凶を占う動物を模した『何者か』は、ただ、一言、「うにゃ」と啼いた。


 じゃあ、と、弟は手を振って、足早に自宅である矢追長老教会へ帰った。もう間もなく、彼に葬儀の依頼があるからだ。

「………。」

 神が人を愛したから、神の愛を父とし、人の信仰を母とし、自分達は創まれてここまでやってきた。今でも、自分達の親戚はどんどんと創まれている。そして同じように、信者なかまの数や信仰の形が変化して、人を模すことが出来なくなったものもある。初代教会偉大なる父のように跡を継がせる教派こどもがいないのなら、弟とあの黒猫のように、どこか別の、近しい擬者と一体になるか、神の愛の中へ還るかしかない。

「………。」

 『ツヴィンクリ派』は、前者を選んだ。人の姿と人の能力を捨て去り、考え方のよく似ていた弟と一心同体になることを選んだ。

 善人にも悪人にも、神は等しく太陽を照らし、雨を恵む。

 それでも動物の姿でしか、見えてこないものというのも、あるのだろうか。動物にしか注がれない恵みというものが。我が子を理不尽にひき殺され神に奪われたと信仰を捨てる母親の流す怒りが、人間の差す傘からしか降らないのと同じように。

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