第5週 マリアさまへの第一歩
戦争があると、何もかもが壊れてしまう。それは建物だったり、命だったり、人格だったり、色々だ。それでも人は立ち上がって、『自分』を生きようとする。その為には食わなければならない。
食うためには仕事が必要だ。売春宿、タコ部屋、教師、技術者、工場勤務…。『自分』に残されたものを駆使して、人々は生き抜いていた。
そんな中で、廃品回収をして生活の糧を得る人々がいた。時は1950年。敗戦国日本で、大炎熱地獄を生き延びた彼等を、教師などの尊敬される人々は、「バタヤ」と呼び。彼等の住む町を「蟻の町」と呼んでいた。
うーん、と、彼女は唸った。
どうにもここは、気持ち悪い。ここは同じ敗戦国であるイタリアから、コンベンツァル聖フランシスコ会という修道会からいくらかの支援が送られている。裕福な日本人も、修道士の活動に感化され、協力を申し出ている。
しかし、そこに神の意志があったのか、というと、そうではないのだ、と、彼女の主は言った。そこで、彼女が例外的に派遣された。
―――こーんなの、『あいつ』の一族にやらせればいいのになあ…。
彼女は天使だ。文字通りの。人類が創られる前に創られ、神と共に人類の創造を喜び、処女マリアに過酷な運命を告げた天使の仲間で、羊飼い達と共に御子の誕生を喜び、救い主の活動を影で支えた。今ぼやいた、『あいつ』の創まれた時も祝福をした。その後はもっぱら、天使達は自然の中に姿を映すだけに留め、神を宣べ伝えることは、『あいつ』を初めとした一族に任せることになった。
それが天意だったのは、天使は今でも不思議だ。
神に似て神に非ず、人に似て人に非ず、さりとて佛でもない彼等の成すことは、自分達から見れば児戯以下だ。じれったいを通り越して腹立たしい。何度も天使達は神に訴えたが、神は天使達よりも、彼等の成すことを優先させた。
彼等は天使達を感知出来ないが、彼等よりも短命である人間は、天使達を認識することがある。今回彼女が派遣されてきたのは、そんなとある女性に、伝言を頼まれたからだった。
―――そろそろ来る筈なんだけどなあ………。
路地裏で待っているが、なかなか人間が出てこない。やっぱりこんな面倒くさいこと、『あいつ』にやらせれば良いんじゃないか、と、思っていた時だった。
路地裏に、薄汚れた男が逃げ込んできた。『あいつ』の息子の一人だ。
まだ癒えきっていないケロイドと、ついさっき破かれたらしい祭服を、申し訳程度に羽織って、その下は全裸だ。流れうる色々なところから血が流れ、酷い暴行を、信者の誰かと一緒に共有したのだろう。天使には気付く事はなく、過ぎ越して、もたれかかることも出来ず、壁に向かって倒れ込み、強かに頭を打って、ずるんと倒れ込んだ。息は細く、遅い。
ただ天使には、その息子のことは哀れに思えなかった。
そのケロイドを刻んだのは『彼』だし、その暴力も『彼』だ。どんなに
軽蔑の眼差しすら向けず、天使は待ち人が来ないか通りを眺める。
―――来た!
「おねえさん。」
お勤めから帰る途中の彼女を呼び止め、天使は両手を差し出した。
「おめぐみください。今日、集めた新聞を燃やされてしまったんです。」
「まあ、いくらくらい必要なの?」
「お金はいっぱい必要。あたし、学校に行きたいの。カオを犬のうんこでかくす生活はもういやだ。」
「ええと…。」
女性は困っている。彼女の知性であれば、この辺りで気付く筈だと思うのだが。
と、風が吹いた。枯葉が一枚転がっていった。この先は風の通り抜ける空間など無いというのに。何気なくその枯葉を視線で追った女性は、その目を見開き、荷物を取り落とし、天使を通り過ぎて駆けだした。
「あなた! あなた大丈夫ですか!? 今お医者さんに連れていきますから―――。」
「サトコさん、どうしたの?」
通りの方から、疲れた声が聞こえてくる。奉仕帰りだからだ。天使は、主に仰せつかってはいなかったものの、彼等も導けるかも、と思い、すっと消えて飛び去り、よく見えるようにしてやった。遠くに飛び上がると、重たい荷物を牽いている者や、ヤクザなんかがうろうろしている。
「人が、人が死にかけています!」
「どれどれ、診せてごらん。」
サトコと歩いていたと思しき、数人のうちの一人が、路地に入ってきた。どうやら彼は医者らしい。医者は、『息子』に呼びかけたり、ひっくり返したりして、言った。
「サトコさん、これは僕達の出番ではありませんね。」
「どうしてですか? 早く運んであげて下さい!」
「サトコさん、現実を見ましょう。彼はついさっき、死んだばかりです。ゼノさまに連絡しておけば、葬儀をしてくれるはずです。」
「いいえ、生きています。彼は生きています!」
「サトコさんは死体を見たことがありませんから、分からないだけです。明日も朝早くから奉仕でしょう? あとは専門家に任せて、ぼく達は帰りましょう。」
「―――いや! 触らないで!!」
バシッと叩くような音がした。天使は上手くいきそうだ、と、にやりと笑う。
「…貴方に感謝します。私は今日、最も重い偽善を知りました。貴方は帰ってください。私もすべきことがありますので。」
そういうと、彼女は『息子』に向き直り、手を握って語りかけ始めた。死を受け入れられないことはよくあることなので、気の済むまでさせてあげよう、と、青年は背を向けて、仲間と一緒に帰った。天使も、天に帰った。
ただ、その後の事がなんとなく気になったので、天から見下ろしていた。
サトコは、冷えた身体を震わせながら、『息子』の手を握り、掠れた声で歌を聴かせていた。
そこに、ボロボロの『息子』とは正反対の、真っ白に輝く、如何にも人成らざる者だと分かるような、痩せた男が歩いてきた。『あいつ』だ。心底天使が軽蔑している男だ。
「お嬢さん、身体が冷えますよ。お帰りなさい、家に帰れば温かいシチューがあるでしょう。それが嫌なら、せめて上着を買いに行きなさい。」
サトコは振り向かずに言った。
「いいえ、そんな暇はありません。いつこの方が目覚めるかわかりませんから。」
「何故帰らないのです? 若い娘がこんな時間までこんな所に。これでは強姦してくれと言っているようなものですよ。」
「貴方には、こんなに嬲られて今にも死にそうに凍えている方がどれほど心細いか、見えないのですか!!」
サトコは声を荒げ、地べたに背中をつけていた『息子』の肩を頑張って持ち上げる。首の骨が折れているのか、喉仏が二つあるように見えた。
「私は愚かでした。慰問なんて偽善です。本当のキリストの愛なんかじゃない。自ら汗を流し、ここで仕事をし、ここで暮らしてこそ、私が感動したベリス・メルセス宣教修道会の精神があります。私は修道会には入れなかったけれど……。ここで暮らすように、きっと
「………。」
それを聞くと、『あいつ』はサトコの後ろから回り込んで、その腕から『息子』を抱き上げた。その衝撃で、喉仏が一つに戻り、眉を顰める。そしてもぞもぞと動くと、『息子』はすやすやと眠り始めた。明らかに苦痛のないその表情に、サトコはほっとしたようだった。
「ありがとう。貴方の信仰が、息子を救った。ゼノ修道士なら今
サトコはその言葉に何か感じるものがあったのか、大きく頷いて走り出した。寒さに赤く色づいた頬は、明日から始まる血の滲むような日々を先取っているようだった。
ローマ・カトリックの尊者。社会奉仕家。霊名はエリザベト・マリア。別名『蟻の町のマリア』。1958年、蟻の町の住人
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