第4話 雨宿り
曾祖母の部屋は、生前使っていた部屋だった。置いてあるタンスや他の調度類もほとんど梓の記憶、そのままである。
「ばあちゃん、一つだけ後悔してることあるんだよ、な?」
タケルの言葉に、おばあちゃんは軽く目を伏せた。そしてもう一度顔をあげた時、瞳が潤んで輝いていた。
「少し長くなるけど、私の昔話を聞いてくれるかい?」
頷いた梓や、2人の座敷わらしに、目線をやると、お茶を入れながら、おばあちゃんはゆっくりと話し出した。
「あの日は、残暑が厳しかった」
おばあちゃんがシワの深い目をそっと伏せた。その眼裏には、どんな風景が写っているのだろう。
*
昭和十九年、茜は十七歳だった。親の決めた許嫁の元へ嫁ぐことに決まっていた。その相手にも軍の召集がかかるか分からない中、稲刈りが済んだ時期に祝言をあげる事になっていた。
「もう、その時には、あの人に対する自分の気持ちが、恋だってことにも自覚していた」
茜が好きになったのは、男の子と二人で街の外れに住んでいた、郵便屋さんだった。遠縁の親戚の男の人で、子供の頃から面識のある人だった。
「母親にはね、話したの。好きな人がいるって、でも向こうは子持ちだし、後ろ盾もなんにもない人だったからね。お父さんが許すわけないから、絶対に言うな、諦めろって言われてねぇ」
静かに笑ったその表情には、複雑な色が浮かんでいた。
「自分が親になってからは、あの時の母親の気持ちも分かるようになったよ。何が間違ってたとかじゃないの。どうしようもなかったって事も。でも…」
深い皺の刻まれた瞼の縁に、涙が浮かんだ。
「あの約束だけは、1度だけしたあの人との約束だけは、どうしても果たしたかったの」
梓とハナは顔を見合せた。タケルだけが、茜の横顔を、いたわるような目で見ていた。
*
茜には1つ年上の従姉がいた。小さな頃から仲良しで、年頃になってからは、離れて住んでいる従姉に、手紙で色んなことを書送り、文通していた。
その手紙は月に2度ほど行ったり来たりしていたので、そろそろ返事が来るかな、という時期には、待ち遠しくて家の前で郵便屋さんを待つ事があった。
郵便局に勤めていた
いつも茜が、従姉からの手紙を待っているのを知っているので、元治は街中で茜を見れば、気さくに声をかけてくれた。茜にとっては、元治は親戚のおじさんの1人、ずっとそうだと思っていた。
ある日、女学校から帰る途中、突然雨が降り出した。下校途中の店の軒先で雨宿りしていたら、店のおじさんが、親切に傘を貸してくれた。お礼を言ったあと、その臙脂色の傘を開いて、家の方へと歩き出した。
そこに、仕事先から、傘もなしに家へ戻ろうと走ってくる元治と会った。茜は思わず彼を呼び止めて、同じ傘に入ってもらった。少し遠回りになるが、元治を家まで送り届ける事にした。
『そういや、ぼちぼち縁談進んでるんじゃないの?おばさんが言ってたけど』
言われて、茜は俯いた。
『やだな、会ったことない人なんて』
『まあ、よくある話だけどな。親父さんは相手と会ってるだろ?仲人立てて親同士が話詰めたんだから大丈夫だと思うよ?』
元治の気を遣うような言い方に、胸がきゅうと切なくなった。元治がそっと傘を私の方へ傾けた。見ると、元治の肩が傘の外に出ている。肩が濡れるのを構わず、自分を気遣われた事に気がついた。そんな些細なことに、元治の優しさを感じて、胸が温かくなった。
『元治さんは?どうだったの?奥さん』
『俺か?道子とは何回か会ったことあったし、お互いこの人と結婚するんだなってわかってたからな。初めは、まあ、やっぱり遠慮があったけど、少しづつどうにかなるもんだよ』
と、遠い目をした。
『あ…ごめんなさい』
亡くなった人を思い出させてしまった。こんな雨の、それでなくても少し心細くなるような日に。
『ああ、いいんだよ。気にするな』
少し砕けた言い方で、元治さんは笑った。道子さんには、そういう話し方で話していたのかな?と茜は思った。
元治の家まで着くと、雨が小降りになるまで家にいなさい、と言ってくれたので、お邪魔する事にした。
『おかえりお父さん』
居間から顔を出したのは、八歳になる元治の息子、晴樹だった。
『こんにちは』
『茜ちゃんだ!どうしたの?』
ちょうど茜ちゃんが通りかかったから、傘に入れてもらったんだよ、と元治は言いながら、手を洗い、釜に火をつけた。
『あ、私がやりますよ?』
『いつもやってる事だから、出来たら晴樹の相手をしてやって貰えると助かるな』
晴樹を見ると、そんなの慣れっ子なのか、宿題の続きをするために、ちゃぶ台に向かっている。自分があのくらいの歳の頃は、祖母なり母なり、宿題をする茜の横で、縫い物をしながら、豆の筋を取りながら、相手をしてくれた。分からない所は父や兄が教えてくれた。その相手が晴樹には居ない。不憫に思えて、茜は決めた。
『じゃあ尚更、私がやるから晴樹くんの宿題見てあげてくださいよ』
家庭科で使った割烹着を、カバンから出して着込むと、台所の準備を見た。今夜は汁物だと分かる。
『いや、でも…』
『たまには勉強を見てあげてくださいよ。私もそうして貰って大きくなったんで』
茜が引かないと分かると、諦めたのかほっとした顔をした。
『…じゃあ頼もうかな』
晴樹の勉強を見てやる元治の、優しげな声を後ろに聞きながら、茜は台所仕事をこなしていく。水汲みは学校から帰った晴樹がやっておいてくれたのだろう。釜に薪をくべてお風呂を立て始めた。
『今日は一緒に入るか』
宿題がすんだのだろう。元治が晴樹に声をかけると、晴樹の喜ぶ声が背中で聞こえた。2人が風呂一緒に入っている間、時々聞こえる笑い声を聞きながら、茜はなんだか幸せな気持ちになった。
道子さんが生きてたら、こんな気持ちになったのかな、と、父子の仲の良さを微笑ましく思った。食事の仕上げを済ませると、ふたりがサッパリした姿で出てきて、茜も夕飯を一緒に食べた。
元治が店をやってる隣の家から電話を借りて、茜の家に知らせてくれていたので、夕飯の片付けが終わる頃、父が迎えにやって来た。
『茜ちゃん!また遊びに来てね!』
『晴樹くんもね』
手を振って、父と並んで傘を広げた。夜道を懐中電灯を提げて歩く父が、妙にだんまりと静かだと思っていたら、途中で口を開いた。
『茜』
『うん?』
足を止めた父を振り返った。
『あんまりあの家には行くな』
『どうして?』
『元治にも後添えをと思っている。話も何回か来てるんだ。そんな家にお前のような嫁入り前の若い娘が出入りしてたら、近所になんて思われるか、分かるだろう?』
そう言われて、茜は嫌でも自分の縁談を思い出した。
黙った茜の傍を、父はまた歩き出した。傘に当たる雨音がパラパラと聞こえる。
茜は、それ以上何も言わなくなった父を斜め後ろから見つめ、歩き出した。
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