第5話 恋慕
本格的な夏がやってきた、ある日のことだった。知り合いの家に届け物をした帰り、神社の前で配達の休憩をしていた元治と会った。
『晴樹君のこと聞きました』
『ああ』
晴樹は元治の実家へ疎開が決まったらしい。工場の帰りを待ち伏せをしていた晴樹本人から話を聞いた。
『いつ、いっちゃうんですか?』
『今度の日曜日、里帰りがてら送っていく』
『そうですか』
元治が、自分の飲んでいた水筒を、こちらへよこした。
『飲んで?暑かったろ?』
『ありがとう』
水筒のコップにお茶を注ぐと、そっと口をつけた。ふと、さっき元治が口をつけたのはどこだったのだろう、とドキッとした。
『まだ、実家で良かったなって思ってるんだ、兄さんのところは、子供も女ばっかりだし、跡取り欲しがってたからね』
神社の階に腰掛けて、隣でゴロンと仰向けになった元治を見下ろす。風邪で木々が揺れると、木漏れ日がチラチラと元治の頬の上で動く。その表情は静かだった。
『寂しいですね』
『…ああ』
元治の目尻が、どこか滲んでる気がして、思わず、そっと指でそこに触れた。驚いてこちらを見た元治が、その指を掴んだ。視線が絡んで外せなくなった。
そこから、伝わってしまったのではないかと思った。茜の心臓は強く脈打って、そのまま破れてしまうのではないかと思うほど、強い鼓動が身体中を駆け巡っていた。
『私…元治さんなら、良かったのに』
浅くしか吸えなくなった息を、何とか吸いながら、茜は言った。
元治が身体を起こす。そんなに体が大きい訳では無い。剽悍な印象の体つきだ。だが、女の茜からしたら、元治の肩幅は大きく、腕は太く、指先を握られている手は大きくて。
『あなたに嫁ぎたかった』
切なくて苦しかった。気が付かないふりをしていた恋心に、その時はっきりと気がついてしまった。
茜の視線を受け止め、その熱に気がついた元治は、ハッとしてその手を離した。
『茜ちゃん、ダメだよ?そんなこと、もう二度と言ってはいけない』
『どうして?』
『もう、結納の日取りも決まったんだろ?』
元治の言葉が現実へと茜を連れ戻し、胸をえぐる。
『…元治さんがいい』
ポロポロと流れ出た涙が熱い。
『君はもっと若くて、君を大事にしてくれる人の所へ嫁ぐんだよ』
元治は立ち上がった。
『もう、俺の所へ来ちゃいけない』
元治は茜を残して、神社から立ち去って行った。その後ろ姿に追い縋ることも出来なかった。
親の決めた相手と結婚しなくてはいけないのなら、人はどうして、恋しく想う相手ができるのだろう。
熱い涙が、頬を伝って次から次へとこぼれ落ちていく。生まれて初めて恋心を抱いた相手は、子持ちのやもめ男。だけど、そんなことは気にならなかった。
あの人の心をこちらへ向けたい、自分を受け入れて欲しい、そう乞う事が、恋なのだと、茜は知った。
日曜日。悩んだ末に、晴樹にと用意した菓子をもって、元治の家を訪ねた。が、もう駅へと出発した後なのか、家には鍵がかかっていた。
茜は駅へと走った。駅へ向かう途中の広場で、元治が晴樹に団子を買ってやっていた。すぐそばの角の裏に回って2人の様子を伺う。
『茜ちゃん、来るって言ってたのに』
『用事が出来たんじゃないかな?』
『会いたかったな』
『お前は茜ちゃんが好きだな』
『だってさ、お母さんに似てるよね?』
『ん?ああ、そうだな、わらったら目尻が下がるとことか、料理の手際がいい所とか』
『違うよ、笑い声が似てるんだよ』
『…そうだな、父さんもそれは思った』
『茜ちゃん、僕のお母さんになってくれたらいいのに』
『茜ちゃんはもう許嫁がいるんだよ、無理だな』
『なんだ、僕たち3人なら仲良くやって行けるって思ったのに』
そこで、元治は相槌を打たなかった。
茜はその場をそっと離れて、駅の改札の前で待ち伏せた。
『あ、茜ちゃん!』
駆け寄ってきた晴樹の頭を撫でて、茜は微笑んだ。
『これ、向こうで食べて?』
『ありがとう!』
『元気でね。向こうでも頑張ってね』
『うん!室井の家に行っても僕、頑張るよ』
晴樹が内緒話するように、口元をおおったので、茜は身をかがめてそっと耳を近づけた。
『お父さん、最近元気ないの、茜ちゃんが来なくなったからだと、思う』
『ええ?』
『だからさ、時々様子見てあげてくれない?』
『…うん、わかった』
茜が頷くと、晴樹は屈託なく笑った。
元治とは、一度目が合った。瞳が潤んで揺れたような気がした。たったそれだけで胸がぎゅっとして痛くて熱くて。
『じゃあ、もう行くから』
『はい』
『茜ちゃん!さよなら!』
『晴樹君、さよなら!』
汽車が見えなくなるまで、手を振り、茜は二人を見送っていた。
『お母さんと笑い声が…』
晴樹の言葉を思い出した。時折、元治から感じた優しい視線は、奥さんを思い出していたからなんだ、と気がついた。
元治は自分の笑い声に、道子の面影を追っていた。
忘れられない人なのだろう。
そう思うと切なくて、胸が痛くて仕方なかった。
「失恋しても、恋焦がれる気持ちは無くなるわけじゃなかった」
茜の目は、恋する乙女のように潤んでいる。梓は胸が熱くなるのを感じた。
『辞めんなよ、陸上』
室井先輩の切れ長の目を思い出す。
『走ってる時のお前、いい
離れて会えなくなっても、やはり恋しい気持ちは無くなっていない。祖母のそれとは深刻さも全く違うけれど、梓には、祖母の気持ちが少しだけ理解出来た。
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