第66話 尾道の子 前編
ある日の昼下がり、小柴美織は尾道市郊外にある大型家電量販店にいた。高校は春休みに入ったばかりで、千光寺の桜の便りも聞こえ始めたが、春というにはまだ少し風が冷たい。
新学期から受験生となる美織だったが、相変わらず競技かるた中心の生活を送っている。悔しいことに、1年の冬は中堂秋穂、2年の冬は床田千佳にクイーン戦予選西日本大会決勝で敗れ、本戦への出場は叶わなかった。しかも、今年勝ち上がった床田千佳は本戦で見事クイーン位を勝ち取っている。
今年の冬は受験生ではあるが必ず床田千佳にリベンジすると誓いを立てた。今日もスマホで流す百人一首を聞くためのイヤホンを買い替えるつもりだ。
店舗に来てみると、イヤホンがたくさん棚にぶら下がっていて、どれにしようか悩みどころだった。もともと百人一首の微細な音を聞き分けたいので、できるだけ高性能なものを選びたいのだが、同じような性能を謳うものが多いので目移りがする。
商品がぶら下がっている棚の端から端までゆっくりと見ていた美織は、突然左の二の腕あたりを掴まれた。
人はあまりにも驚くと言葉を失うらしい。悲鳴も上げられないまま美織が驚いて振り向くと、腕を掴んでいたのはなんと孝太だった。
「孝太、いきなり何をするん」
それが孝太とわかってやっと強気な言葉が出た。
「来いよ」
だが孝太は何も応えず、美織の腕をしっかりと握ったままズカズカと歩き出し、美織は引き摺られるように孝太のあとを追うしかなかった。
風花と喧嘩したあの日、美織は孝太の部屋に通じる窓も鍵を閉めてしまい、あれから一度もあの窓が開けられたことはない。
最初は幾度か孝太が何か話しかけようとしていたのはわかったが、美織が避けていることを感じたのだろう、いつしか孝太からも話しかけることもなくなっていた。
孝太に連れて行かれたのは、店内にずらりと並んだテレビの前だった。その中心にはおそらく百型と書いたひときわ大きなテレビが据え付けられている。その真ん前に立たされた。
店舗にあるテレビの全てでは、人気お笑い芸人の番組をやっていた。
「なんね! いきなり!」
そこまで来て美織はやっと我に返り、孝太が掴んでいる腕を強く振り解いた。
「いいから、そこにいろよ」
孝太はその大型テレビに近づくと、そこに置いてあるリモコンを手にして、チャンネルを変える。どうやら今はコマーシャルの時間らしい。おそらく新人と思われる若い女優が汗を額に浮かべながら、ペットボトルのスポーツ飲料を一気に飲み干している。
「ああ、ちょっと。勝手にチャンネルを変えないでね」
すぐに近くにいた販売員が近づいてくるが、そのタイミングでスポーツ飲料のコマーシャルが終わり画面が切り替わった。
画面にはキラキラと光る水。そこにはプールが大写しになっていた。
——さて、競泳の全日本選手権、先ほど行われた男子平泳百メートル決勝は、前評判通り順当に北橋涼介選手が勝って二度目のオリンピック代表を決定づけました
アナウンサーの言葉に、解説者が「さすがですよね」と言葉を添えた。
「君、勝手にチャンネルを変えたらいけんよ」
販売員がリモコンを手に持った。
「今から尾道の子が二人、オリンピック代表をかけて泳ぐんです。お願いします」
孝太がその手を両手で掴んで止めた。
「尾道の子? これから?」
——さあ、次は女子自由形百メートル決勝となります。解説の田口さん、このレースの見どころは。
——そうですね。高校生になって、この2年間で一気に頭角を現した坂本莉子選手を中心としたレースとなりそうですね。彼女は前回のレースでオリンピック標準記録を突破してますので、今回もかなり期待できそうです。
「はい。オリンピック候補なんです。だから、このレースだけでも見せてください」
孝太が必死に頭を下げる。販売員は少し考えている様子だったが、そのうちにその場を離れたかと思うと、店舗にあるテレビをすべてチャンネルを水泳に変えたのだった。
——さて、選手の入場です。
順番に選手が入ってくる。
——田口さん、他の注目選手はいかがでしょう。
——そうですね。5コースを泳ぐ
「帰る」
美織は画面から目を逸らし、出口に向かって歩き出そうとした。
「ミオ、もう逃げるな」その瞬間に孝太が強い口調で美織に言い、再びその腕を掴んだ。「ちゃんと向き合ってやれよ」
「逃げとらん」
美織はそう言うのが精一杯だった。
——日本記録といえば、2コースを泳ぐ大道風花選手がその記録保持者です。中学3年生で日本記録を出して一気に注目された選手です。田口さん、彼女はその記録を出した時から約2年ほどレースに出場がありませんでしたが。
——彼女のコーチに伺ったところ、あの日本記録を出したあと少しスランプになり、しばらく水泳から離れていた時期があったと言ってましたね。もともとのポテンシャルは高い選手なので、どれほど回復してきたのか私も注目してます。
スイミングキャップを被ったトレーニングウェア姿の風花の姿が映っている。手にしたバッグを置いて、柔軟を始めた。
——そういえば、田口さん。レース前に音楽を聴いている選手は大勢いますが、今映っている大道選手が聴いているのは、なんと百人一首らしいですね。
風花の耳が画面に大きく映し出された。
——えっ、そうなんですか。
——そうなんです。百人一首を聴くと、今は遠く離れた場所にいる大切な友達からのエールをもらっているようで、勇気が出ると言っていましたね。
再び出口に向かおうとした美織の足が止まった。
「ミオ、頼むから最後まで見ててやれよ」
場内では、選手の紹介が始まっていた。
2番目に呼ばれた風花が高く手を上げた。
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