第67話 尾道の子 後編

 それは美織と孝太がまだ中学3年の夏のことだ。

 全日本中学陸上選手権に出場した孝太が、帰ってきてから様子がどこか変だった。何があったと美織が聞いても、ヘラヘラ笑っている。

 ——へんなやつ

 そして、その理由は翌月になり判明した。

「ねえ孝太、これなに? 陸上部のくせに、なんでスイムマガジンなんて買ってるの」

 ある日、美織が孝太の部屋に入ると、机の上に水泳専門誌「月刊スイムマガジン」という本が置いてあったのだ。

 孝太がニヤニヤ笑いながらページを捲って指差した。

「俺、全中でついに出会ったんだよ。俺の女神と」

 品川西中3年大道風花、日本新記録——

「俺は来年、絶対に高校総体で彼女にもう一度会いに行く」

「バッカじゃないの」どうせ会えないアイドル、夢のまた夢。

 鼻で括って嘲笑う美織が、翌年その「孝太の女神」と出会うことになるとは、その頃は思いもしなかったが、孝太を見ていてひとつだけはっきりわかったことがある。

 孝太は絶対に私を選ばない——

 孝太にとって、私は姉であり妹であるということ。それなら私も、その立場であり続けようと決めたのだ。


 だが、自分が間を取り持ったにも関わらず、目の前に孝太と風花の仲が急速に接近して行くにつれ微妙な感情が美織に湧き起こってしまった。

 わかってはいたのだ。それは純粋に自分の心だけの問題だということを。そして、もちろん特に風花には何ひとつ罪がないことを。


 そして抑えようのない心をあの日、風花に爆発させてしまった苦い記憶が今、美織の脳裏にまざまざと蘇っていた。目の前の風花が映るテレビ画面を直視する勇気が持てないでいた。


 ——さて、いよいよ激戦の女子百メートル自由形決勝のスタートです。


「あれ、お前ら何してんの」

 横から聞き慣れた声がした。同じクラスの菊池だった。

「おう」孝太がひょいと菊池に手を挙げる。

「誰かの応援?」孝太が顎で示す先のテレビ画面にちょうど風花が映っている。「あれって東京に帰った大道風花だよな。これ何の試合?」

「オリンピックの選考会だよ」

 へえ、という顔で菊池が美織の隣に立った。

 彼の話では、さっき尾道の選手が今から水泳で泳ぐと館内放送があったらしい。菊池の他にも少しずつテレビの周りに人が集まりつつあった。

 

 会場に笛が鳴り、選手がスタート台に上がる。

 テイク・ユア・マークス——

 全員が前屈に構えて静止した。会場が静寂に包まれた。


「一字決まり——」

 孝太がポツリの呟いた。


 ——まずは2コースの大道が抜群のスタートを切りましたが、すぐに4コースの坂本と5コースの夏目が大道を交わしました。


「ああ、ちょっと離された」

 先頭の坂本から風花が体ひとつ離された。間に5コースの夏目。

「いや、風花ちゃんはバテない。尾道の坂で鍛えたんだ。後半勝負」

 ボソリと孝太。


 ——さて50のターン。まずは坂本、体半分の差で夏目がターン。その夏目から体ひとつの差で大道がターンをしました。先頭の坂本は現在、日本記録更新のペースです。


「先頭の坂本って子、尾道昇華高校の子なんだって」

 テレビに集まった人の中からそんな声がする。ざわっと湧いた。

「よっしゃ。がんばれ」と何人かの声。「ぶっちぎれ!」


「2コースの大道風花も海潮高校です!」突然、美織が振り向いて叫んだ。「風花!」


 ——さあ、ラスト30。依然日本記録ペースの坂本が夏目を一気に突き放しにかかります。今、体ひとつのリード。


 再び、テレビ桟敷がざわつく。「行け」という声。


 ——残り20。おっと2コースの大道が追い上げます。

 ——夏目選手をかわしたかもしれませんねえ

 ——あと15メートル。大道の怒涛の追い上げ、坂本も逃げる!


「行け、風花!」美織が再び叫んだ。

「大道、そこだ抜け!」菊池の声。

 風花はその声に背中を押されるように、ペースが上がる。


 ——あと10メートルだ。


 周りが大騒ぎとなった。「尾道の子」二人のトップ争いだ。

「二人ともがんばれ」という声。

「風花!」美織の涙声。


 ——残り5メートル。大道が大きく抜け出した。これは日本記録更新だ!


 アナウンサーの高揚した声。


 ——大道風花、日本選手権初優勝! 自分の日本記録を塗り替えましたあ!

 ——すごい。これは……世界記録ですね

  解説の田口がいう。

 ——ああ、ああそうです。大道風花、世界新記録!


 興奮冷めやらない人々の中で、美織は涙が止まらなくなっていた。

「これがあのとき決めた、風花の答えなんだ。もう許してやれよ」

 隣で孝太が言った。

「そうじゃない。そうじゃないんよ、孝太。うちが全部悪いんよ。風花は全然悪くなかったのに——」美織が声を詰まらせた。「今更、うちから風花に許してなんて言えないよ」

「なんだ。そんなら簡単だろ」

「えっ?」

「おめでとうって言えばいいんじゃないか?」

 孝太がニカっと笑った。美織は躊躇いながら小さく頷いた。

 

「さて、今度は俺がどうしても総体にでなきゃいけなくなったから、走って帰るわ。じゃあ菊池、ミオを頼むわ」

 孝太は菊池と美織を置いて、さっさと店を出て行った。


「なあ小柴。お前、大学はどこ受けんの?」

 帰りのバスの中で、菊池が聞いてきた。

「広島市内の女子大にするか、広大にするか迷ってるけど」

「女子大はやめんか?」

「なんでさ」

「女子大は俺が行けないしさ。広大なら、俺も頑張りがいがあるから」

 照れながら、菊池が鼻をかいた。


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