第65話 旅立ち

 まだ暑い夏休みの終わり、旅立ちの日を迎えた風花は祖母と尾道駅にいた。

 背負った白いリュックは先日母に買ってもらった帆布製のものだ。祖母は列車の中で食べるお菓子をたっぷりとそのリュックに詰めてくれた。家財道具などはすでに小包にして送ってある。


 あれから——


 結局、風花は美織とはもう顔を合わすこともなかった。何が彼女をあそこまで怒らせていたのか、真意は聞けないままだった。

 風花が尾道に住み始めて海潮高校に通い出し美織と知り合ってから、美織はことあるごとに孝太とは付き合ってない、ただの幼馴染だと繰り返してきた。むしろ孝太と風花の仲を積極的に取り持とうとしてきたのは美織だったはずだ。

 因島に行こうと言い出したのも、美織だった。前日まで二人で水着を選んだりして彼女自身も楽しみにしていると風花は思っていた。それが当日にドタキャンをしたあたりから、なんとなく美織の考えていることがわからなくなった。

 そして、どう考えてもあの風花にぶつけた言葉を素直にとると、本当は美織は孝太が好きだったのではないかと疑ってしまう。

 それならなぜ。いったい美織は何を考えていたんだろう。


 風花と祖母がホームのベンチに座っていると、パタパタと走ってくる美織の母——文子の姿が見えて、風花は立ち上がった。

「はあ、間に合った」

 文子は、息を切らしながら風花の両手を取った。

「先生が寂しがるから、たまには尾道に帰ってくるんよ」

 先生、とは風花の祖母のことだ。

「はい」

 風花が大きく頷く。

「ミオの代わりにはならないかもしれないけど。最後の最後までほんと強情な子でごめんね。でも、絶対あれは本心じゃないから許してあげてね」

 心配そうなおばちゃんの顔。

「きっと私のせいなんです。だから許して欲しいのは私の方で」

 風花は涙が溢れそうで、それ以上の言葉を飲み込んだ。

「きっと、ほんのちょっとしたボタンの掛け違いなのよ。いつかちゃんと話せたら絶対誤解は解けるはずだからね」

 そういえば、母たちも昔に何かあったらしい。その誤解を解くのに20年以上の時間がかかったと母が言っていた。

「はい。いつかまたミオに会いに尾道に帰ってきます」

 風花が文子手をギュッと握り返すと、美織の母は小さく何度も頷いた。


「そういえば、孝太は来てないんかいね」

 文子があたりを見回した。

「孝太君とは昨日さよならをしたから」

 ホームで見送りなんかされたら、絶対泣いてしまう。

「あらま、冷たい男じゃねえ」

「私が来ないでって言ったんです」

「へえ、そうなん」

 文子は、納得いかないという顔をした。


 孝太とは、高校総体で必ず会おうと約束した。

 それが簡単な目標ではないことはわかっている。しかも実績はあっても長いブランクのある風花と、今年の予選では熱を出して散々な成績だった孝太だ。

 同じ夢をみようと二人で昨日誓ったのだ。

 

 列車がホームに入ってきた。新幹線の駅は祖母の家から遠いので、祖母も歩いて行ける山陽本線の尾道駅から普通列車で福山へ行き、そこから新幹線に乗る。

「じゃあ、行ってきます」

 風花は祖母と文子に、あえて「行ってきます」という言葉を使った。たった半年しか住んでいないが、もうこの街は自分のもうひとつの故郷なのだ。

「気をつけて」

 さっきからほとんど喋らなかった祖母が、そっと小声で言う。その声が風花の胸にやけに深く染み込んだ。

「おばあちゃん、ありがとう」

 風花は列車に乗り込もうとした足を止めて、祖母に抱きついた。自分より小さい少し痩せた祖母の体にしがみつく。

「何も心配いらないわ。お父さんとお母さんが帰ってくるのを首を長くして待ってるわよ」

 ぽんぽんと背中を優しくそっと叩かれると、もう涙が止まらなくなった。

「何を泣いとるんね。もっと喜んで帰りんさい」

 うん、と応えるのがやっとだ。

「ほら、列車が出ちゃうよ」

 祖母に背中を押され、風花は列車に乗り込み席へ着く。窓の外には祖母と文子の顔がある。

 やがて静かに動き出した列車の窓の向こうで、二人が手を振っていた。

 祖母の目に光るものがあったのは、風花の気のせいだっただろうか。


 尾道駅が見えなくなった。市街地を過ぎて海沿いの道路と並行して列車は走ってゆく。

 林芙美子は尾道を離れるとき、どんな想いだったのだろう。

 向島のドッグの錆びた鉄の色が遠ざかる。


 海が見えた。海が見える。


 だけど、私は今その海から遠ざかろうとしている。


 ハッと気がついて、風花は腰を浮かせ両手を窓に押し付けた。

 線路脇の道路を東へ向かって走る見慣れた背中——

 加速した列車は、バスよりもずっと早く、瞬く間にその背中を追い越して突き放した。

 必ず会いに行くから、とその背中は強く語っていた。

 やがてその姿は涙で曇って見えなくなってしまった。

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