第55話 1年前、夏
房総で行われていた二泊三日の臨海学校へ、風花はクラスメイトから1日遅れの昼過ぎに合流した。
全日本中学生体育大会の水泳競技100メートル自由形で日本記録を出してから、メディアに引っ張りだこの目まぐるしい忙しさが続いたが、中学での友だちとの大切な思い出となるこの臨海学校には、どうしても参加したかった。
だが、母はオリンピックへ向けて、今はトレーニングが1番大事だから参加は諦めなさいという。父はもともと小さい頃から水泳よりも進学に力を入れたい人で、自分のことで夫婦喧嘩が絶えない家に風花はうんざりだったが、今回ばかりは風花が意地を張って参加することにしたのだった。
宿泊施設である研修センターに着くと、もうみんな浜に出ているらしい。風花は慌てて水着——もちろんスクール水着である——に着替え、クラスメイトのいるビーチへ駆けて行った。
「あっ!」
風に煽られ、パンパンに膨らませたビーチボールが海へ向かって飛んでいき、海面へ着水するとスーッと波に乗ってゆっくりと沖へ向かって流されてゆく。
それを見た風花が「まかせて」と言いながら、ほとんど反射的に海へ向かって駆け出した。ビーチボールはまだ波打ち際から20メートルほどのところをゆらゆらと浮かんでいる。
——大丈夫。すぐに追いつく
風花は目測でボールまでの距離を確認すると、浅瀬からバシャバシャと沖へ向かって走り、膝上あたりまでの水深となったところで頭から豪快に飛び込んだ。
途中で一度顔を上げると、ボールまでの距離は約5メートルと少しに縮まっている。
〈楽勝——〉
日本を制したクロールでひとかき、ふたかきし、一気にボールとの距離を詰めると横泳ぎになりながら片手で掴もうとしたが、ほんのわずか風花が触れるとボールはツーっと離れていく。
〈あれっ、掴めない〉
おかしなもので、ビーチで遊んでいるときの濡れていないビニール製のビーチボールは、片手でも手のひらに吸い付けるように持つことができた。だが、水の上では全く勝手が違う。掴める感覚がないのだ。この軽いボールは水面に僅かに触れるように浮いていて、触れるだけでどこかへいってしまいそうだ。
少し距離が離れたボールを追って近づいた。風花は今度は平泳ぎの要領で両手で掴もうとするが意外と大きいためバランスが取れず、ボールから気が逸れた一瞬で再びつるりと滑ってしまい、そして緩やかに吹いている風に乗るように風花から離れていった。
もう——
風花はもう一度大きく息を吸うと水を掻き、途中で顔を上げたがなぜかビーチボールとの距離が変わっていない。少し訝しんだが、とにかくボールを追った。途中で砂浜の方を振り向いてみると、思ったよりもかなり遠くまで泳いでいた。
〈大丈夫。これくらい平気〉
風花には何キロでも泳ぐ自信はあった。なんなら、小さい頃から地上よりも水中で生きてきたという自負がある。
三角の赤いコーンが浮いている横に張られたロープのようなものを潜って更にクロールで進み、やっとボールに追いついた。
さっきの失敗を思い出し、背泳ぎになって両手でできるだけそっとボールを掴んだ。
その瞬間——
海の水がまるで川のように速く流れ始めた。バタ足で流れに抵抗しようと試みたが、沖へ沖へと流されるのを感じる。
せっかく捕まえたボールは離したくなかった。そうこうしているところへ背泳ぎで上を向いた顔に、いきなり波が被ってきて塩辛い水が鼻から気管に入ってきた。風花は反射的に水中でむせかえってしまった。そして苦しくて、溜めていた空気を肺から一気に吐き出してしてしまう。
——ボコボコッ
風花の目の前が泡だらけだった。
上下左右がわからない。必死にもがいて何かを掴もうと腕を振り回しても何もなかった。
苦しい。息が——吸いたい——
風花が気がついたときには、ベッドに上にいた。白い壁と自分に繋がれた細いビニールパイプ。そして傍に学校の先生の顔。
「大道、わかるか?」
ぼんやりと見えた先生が、最初にそう言ったのをなんとなく覚えている。
夜になって、病院へ両親が来た。母がボロボロと泣いていた。父は何か言いたげに黙って立っていた。
一週間後、プールのスタート台に上がって水面を見た瞬間、足が震えた。
風花は、泳げなくなっていた。
学校も行きたくない。2学期のほとんど部屋に籠った。
水泳なんかやめてしまえという父。今まで無関心だったくせにと母。喧嘩が絶えない。
斉藤コーチも何度も来て扉をノックする。
もう一度、泳がないか——
だけどもう、風花のことで父と母の争う声も、コーチの声も、今の風花には耳障りな雑音だ。
もう東京にいたくない。水泳なんて大嫌いだ。
そう叫んだ風花の環境をしばらく変えてみた方がいい。病院の精神科の先生のアドバイスを受け、東京の大人たちは尾道の祖母へ風花を託してみることになった。
去年の夏からのことだ。
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