第56話 もう一度、君に
「離岸流って言うんだって」
「リガンリュウ?」
「うん。岸から離れる流れで離岸流。8月ぐらいから特に、
2人はプールサイドに腰掛けて、足を伸ばした。爪先で水を弾いてみる。
「それにしても、その状況でよく助かったね」
しみじみと孝太が言う。
「近くを通っていた漁船が気がついたらしいの。カラーのビーチボールが目についたんだって。そしたら人がいたって」
風花は泳ぐだけなら、それこそ何キロでも泳げる自信があった。それなのに初めての海の強い流れに気が動転してしまったのだ。
「一日入院して東京へ帰ってから、プールのスタート台に上がったら、急にプールの中の水がすごい勢いで流れてるように見えて。一回スタート台を降りてから、錯覚だって自分に言い聞かせてからもう一度台に上がって、今度はプールにたくさんの泡が見えて、体がすくんでしまって飛び込めなかったの」
「じゃあ、それから一度も泳いでないのか?」
風花は小さく頷いた。
「泳げない自分の居場所がなくなった気がして、それから学校にも行けなくなって部屋に閉じこもっちゃってね」
父と母が自分のことで喧嘩を始めたのはその頃だ。無理にでも泳がせたい母と今は水泳から離そうという父の争う声が余計につらかった。
斉藤コーチも何回も部屋の前に来たが、語りかけられる言葉さえも、その頃の自分には耐えられなかった。
雑音しか聞こえない家にいたくなかったその時に目に入ったのが、祖母からの今年の年賀状だった。
気が向いたら遊びに来なさい——
毛筆の柔らかい書体の祖母の文字が、優しく風花を呼んでいる気がした。
それが去年のことだった。
「もう一度泳ぎたいとは思わないの?」
孝太の言葉に風花はかぶりを振った。
「かるたをしてても、札に飛び込もうとするとたくさんの泡が襲ってきて、息ができなくなるの。だから水なんて絶対無理。結局、私って——弱虫なんだよね」
ふう、と風花は大きくため息をついた。
「そんなことない」突然、孝太が勢いをつけて立ち上がった。「君が泳げないなんて、絶対にそんなことがあるはずないよ。だって俺の目が今でもはっきり覚えてるんだから」
「だから、無理なんだって!」風花の感情が思わず爆発した。「水面を見ただけで体が動かなくなるんだよ! そんな気持ち、孝太君にもわかるはずがない」
「俺は——この間のレースで体が動かなくなった。前に進もうとしても、まるで後ろから何かに引っ張られてるみたいに走れなくなったよ。でも、少しずつ体を慣らして、今は走ることができる。風花ちゃんだって、絶対に……うん、絶対に泳げるようになるさ」
「気安く言わないで!」
風花は孝太に背を向けて、足首までしか水のないプールから出た。
これ以上言ってもわかってもらえない——
「帰る」
孝太を振り切るように、風花は更衣室へ向かって歩き出した。
「オン・ユア・マーク」
背中から孝太の叫ぶ声がした。
思わず足を止めて風花が振り向くと、孝太が右手でピストルを持っているように空へ向かって差し出していた。
「俺たちはお互いにアスリートだよ。競技線に立たなきゃ何も始まらないんだ。それでも君が泳ぎ方を忘れたと言うのなら、思い出すまで僕が絶対に手を離さない。流されないように必ず僕がそばにいるよ」
「でも、どうしても……怖いのよ」
「じゃあ、一から泳ぎを覚えるっていうのはどうだ。初めて水に入る子供みたいに、少しずつ。なんならここだっていいじゃないか」
孝太が立っているのは、足首までしか水がない子供が遊ぶためのプールだ。
「そんなことできるかな」
風花は自信がなくて泣きそうだった。
「できるさ。さっきも言っただろう? 僕がずっと手を繋いでるから。絶対離さないと誓うよ。その水着を着た君はとても可愛いけど、僕はやっぱり去年の夏にあのプールで見た競泳の水着の君をもう一度見たい」
孝太が風花に向かって両手を差し出した。
一瞬だけためらったが、孝太へ向かって風花はゆっくりと足を踏み出した。
翌週がお盆になる8月10日、風花は尾道駅にいた。
今日、母が15年ぶりに尾道に帰省する。風花も母に会うのは半年ぶりだ。
新幹線が止まる新尾道駅は少し市内から遠いので、福山駅で在来線に乗り換えてくるという。
しばらく待っていると、よく晴れた空の下を列車が入ってきて、ホームのベンチに座っていた風花は立ち上がって線路の方へ少しだけ近づいた。
列車の扉が開く。どの扉から降りてくるかわからないので、キョロキョロと必死に母の姿を探すと、一番前の扉から母が降りてくるのが見えて、風花は人混みを縫って駆け寄った。
母はホームへ降り立つと、風花を見つけて笑って手を振った。
風花はあの去年の夏のことが起きてから、母の笑顔を見ていなかったことに気がついた。いまはそれだけで、うれしくて泣き出してしまいそうだ。
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