第43話 プールの底に光り輝く

 放課後、風花はデッキブラシを片手にプールの底に立っていた。今朝まで降っていた雨のせいで、床のコンクリートは生乾きで特にまだ擦ってないところは足の裏が少しヌルヌルと感じる。

 水の張られていないプールの真ん中に立って周りを見渡してみる。四方をコンクリートに囲まれた箱の中から見える景色は不思議な感じだ。そして、ここから見える空は相変わらずどんよりとした曇り空で、もうすぐ夏が来るという気配さえない。


 〈よし〉


 気合を入れて塩素を少し入れた水を張ったバケツにブラシを浸してから、風花はコンクリートの床を擦り始めた。

 おもしろいもので、たぶん一昨日の雨の中で孝太が擦った場所が、他の場所より白っぽくなっていて、まだブラシをかけていない場所をはっきりと浮き出している。

 ジャッ、ジャッというブラシが床を擦る音が周りの壁に反響するのだろう、やけに響いて感じた。


 しばらく集中して作業をしていると、湿度が高いこともあり、たいして気温も上がってないのに汗が額に浮かんできて、だんだんと着ているTシャツも湿り始めた。それでも手を休めることなく、風花は黙々とブラシをかけ続けた。


 思い返してみれば、風花はこうやってプール掃除をするのは初めてだ。物心のつく前からスイミングスクールに通っていた風花は、いつもきれいな水の張られているプールで泳ぐのが当たり前だった。むしろ、プールというものが「掃除」が必要なものであるという意識が全くなかった。

 少し考えればそんなことがあるはずもないのだが、こうやってデッキブラシをかけていると、自分が今まで、いかに至れり尽くせりの中でスイミングを続けられていたのか改めて思い知らされた。


 無心で掃除をしていた風花が少し腰が痛くなり、背筋を伸ばそうと手を止めたとき、背中の方から〈ジャッ、ジャッ〉と幾つもの音がしていることに初めて気がついた。驚いて振り向くと、いつの間にかミオや何人かのクラスメイトの女子たちがデッキブラシを片手にプールの底に立って床を擦っていたのだ。


「なんだよ、水泳部にも女子がおるなら、早く言ってくれよ」

 そんな声が頭の上からして見上げると、何人もの男子たちもプールサイドに立っている。

「ブラシ、まだある?」

 菊池君は、ひょうきんなクラスのまとめ役だ。

「あっちの小屋にたぶん——」風花が金網の向こうを指差した。

「よっしゃあ。おーい男子諸君、早く掃除をすませて水を張ったら、女子の水着が拝めるぞおー!」

 菊池君が大声で叫ぶと、「ああ、そりゃあ急げ!」と男子たちが騒ぎ出し、我先に小屋へ駆けて行く。

「えーっ、私、水着なんかならないからね」

「いや、もうダメダメ。水泳部の大道さんと小柴の水着は、この夏の男子の楽しみのひとつなんじゃけん、よろしくな」

 ヘラヘラと菊池が笑っている。

「ちょーっと待った。勝手に決めんでや。あんたらには絶対に見せんわ!」

 男子たちの騒ぎを聞きつけ、ミオが駆け寄ってきて手にしたブラシをプールサイドの菊池に向かって突き出すと、「おーっとっと」と言いながら大袈裟に菊池が避けてみせた。


 梅雨の晴れ間の夕方、笑い声を響かせながら、プールの床や壁のコンクリートがどんどん綺麗になっていき、結局、クラス全員がプールに集まったので、孝太が熱まで出して頑張ろうとしたプール掃除は、たった1日で終わったのだった。

 

  ⌘


 6月の最後の日曜日、孝太が出場する備後地区の代表を決める陸上競技大会がびんご運動公園で行われた。

 だが、木曜日になり、かろうじて熱の下がった孝太の調整不足は明らかで——


 午前中に行われた八百メートル予選に出場した孝太は、スタートこそうまく飛び出したが、すぐに一気にかわされて徐々に後方へ置かれてゆく。


「孝太! 頑張れー!」

「孝太君! 頑張って!」


 スタンドに陣取った風花とミオも声を枯らしながら声援を送るのだが、毎朝バスから見える孝太の走りには程遠いのが素人目にもはっきりとわかるほど、孝太の顔が苦痛で歪んている。

 

 八百メートル競技は、トラックを2周する。だが、最初の一周で既に集団の最後に落ちてしまった孝太の足がもつれそうになっている。


 風花は席から立ち上がると、階段を駆け降りて観客席の一番前の柵にしがみついた。すぐ横にミオも駆け寄ってくる。


「孝太君!」「孝太!」

 風花とミオ、二人の叫び声が届いたのか、苦悶の表情の孝太が一瞬だけ右手を握りしめて肩まで上げたように見えた。


 ——お願い。お願い、最後まで孝太君を走らせて!

 

 風花はいつの間にか泣いていた。人目も憚らずボロボロと涙をこぼしながら必死に祈っていた。

 苦しみながら最後まで走ろうとする孝太の背中。毎朝、毎朝、一緒に坂道を走るその背中を、今すぐグランドに降りて押してあげたくて、だけど手が届かなくて、できなくて、悔しくて。

 すがりついた観客席を分ける柵の鉄パイプを、手が痛くなるのも忘れて叩きながら、ミオと二人でひたすら叫び続けた。


 フラフラになりながら孝太はゴールラインを過ぎ、そして倒れ込んだ。陸上部の先生が駆け寄ってタオルで体を包むのが見えた。そして孝太の、高校生になって初めての大会——高校総体への最初の挑戦はあっけなく終わった。


 夏が、すぐそこまで来ていた日曜日のことだった。

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