第44話 花の色は
未だ梅雨が明けない翌日の月曜日からは、再び雨だった。
目が覚めてカーテンを開け、どんよりとした空を風花は見上げていた。無理をして競技会に出て倒れた昨日の今日だ、孝太が来るはずがない。わかってる。わかってるけど——
シトシトと降り続く雨の中、坂道を下って風花はいつも孝太が国道から上がって来る線路の向こうをしゃがみ込んで見ていた。
風花が孝太を雨の中で待ち続けてもう一週間になる。孝太は、火曜日から木曜日まで学校を休んで、金曜日は大河内写真館の車に乗せられて学校に来たが、まだ少しフラフラしており、翌日の土曜日も朝のトレーニングには来なかった。
その間、風花も孝太と一緒に4月から続けてきた坂道トレーニングをやっていない。風花はいない間に孝太が来てしまったらと、ついそんなことを考えてしまい、いつも待ち合わせをする坂道の下を動けないでいた。
水色とオレンジの水玉柄の傘を畳んで軒先の下に立て掛け、家に上がるとちょうど朝食の準備ができたところだった。
「今日もシャワーは必要なかったみたいね」
祖母がよそってくれたご飯はお茶碗半分ほど。運動をしていなかった去年の秋から少しだけ体重が増えた。もちろん体が成長したこともあるが今は炭水化物を少し減らしている。
「うん。雨だからね」
「来ぬ人を」
「えっ?」
「藤原定家の歌にあるでしょ」
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや
「覚えてるよ。でも、まつほの浦とか意味がわかんない」
「まつほは、来ない人を待つっていう意味と、松帆の浦という場所を掛けた言葉なのよ。この歌では、
「じゃあ、下の句はどういう意味?」
「焼塩って知ってるかね? 藻塩を焼く様から、恋する人に心が焦がれる様子を導き出してる。まつほの浦から藻塩のまでを
「——う、うまいの?」
「もう、超絶技巧を駆使した名歌でしょうね。定家は小倉百人一首を編纂した名人だからねえ」
「結局、どんな意味の和歌になってるの?」
「あら、読んだ通りでしょうよ。この歌の場合は女性が男性を待っているんだけど、待っているのに恋する人がいつまでも来ないので、私の身も焦がれていますという熱烈な恋の歌ね。いやだ、聞いてるだけで照れちゃうわ。まるで今の風花みいたな歌よね」
「なんでそこで私なの。私、こ、恋なんかしてないし」
「いいじゃない、恋してたって。若いんだから、どんどん恋しなさいよ」
「いや、私はまだまだ恋なんてしないの。孝太君だって、ただの友達だもん」
「そんなこと言ってると、すぐ小野小町になっちゃうよ」
「小野小町って——」
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせし間に
「どう? ちゃんと覚えてるでしょ」自慢げに風花がいう。
「じゃあ、意味はもちろんわかってるよね?」
「もちろんよ。花の色は……、花の色が、ええっと……」
「百首覚えたのはいいことだけど、本には意味も書いてあったでしょう。ちゃんと読んだの?」
実は歌を覚えるのにいっぱいいっぱいで、解説は読み飛ばしていたことが、こんなことからバレてしまった。
「花、この場合は桜のことね。雨で色褪せてゆく桜の花をぼんやりとながめてる間に、若くて綺麗だった私の容姿も虚しく色褪せた桜みたいになってしまいましたっていう句ね」
「うわあ……、女子には残酷な歌!」
「ほらほら、どうする風花。恋をする前におばあちゃんになっちゃったら」
「だ、大丈夫だもん。いつか素敵な彼氏ができるもん。今じゃないってだけ」
「素直じゃないねえ。そんなとこは
風花は何気にそれを言われるのが一番嫌だったりする。
「お母さんは、高校生の頃に、頑固なとこがおばあちゃんにそっくりだって、おじいちゃんからいつも言われてたって言ってたよ」
言い返してやった。
「いや、そんなことない。全然似てない。うちはあんな頑固な娘とは似とらん。それだけは全力で否定しておきます」
祖母はムッとした顔でご飯にお茶をかけて流しこみ、お茶碗と箸を持って立ち上がり、流しへ持っていく。どうやら、祖母も〈似ている〉と言われるのが一番嫌らしい。だが、風花から見ると、意地っ張りな二人は実にそっくりなのだが、ここは黙っておこう。
花の色は、か。枯れる前には、なんとかしよう。そう決めた風花だった。
バス停に行くと、いつものようにミオの姿があった。
「おはよ」
手が空いてないので、そう言って傘をちょっと上げる。
「孝太さあ、入院しちゃった。無理しちゃってさ、バカだよね」
ふう、っとため息をつきながら、ミオが小さく首を横に振った。
「入院って——」
風花は思わず傘を落としそうになった。
「ああ、いや。心配するほどひどくはない。ひどくはないけど、とりあえず休養が必要ですって先生から言われて2、3日入院することにしたんだって」
心配しなくていいよ。そんな感じでミオが手をひらひらと振った。
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