第10話 あの坂道を
ミオが下の句の山から1枚だけ札を選んで、畳の上に置いた。
「例えばこうやってね、読手から『せ』が聴こえた瞬間——」
左手で「パーン」と畳を叩く音をたてて札を一気に払った。そして、さっと立ち上がると今払った札を取りに行き、また畳の上に置いた。
われてもすえに あはむとそおもふ
札にはそう書いてる。
「この句はね」
そう言って、読み札から1枚取って並べて置く。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の、が上の句なんだけど、全部を聴かなくても最初の1文字目の『せ』が聴こえた瞬間に下の句の札が払えるんだよ」
「すごーい……」風花は心から感嘆の声を上げる。
「すごい上級者は極端な話、読手さんの口から漏れる『せ』という言葉になる前の『S』の発音を聴き分けて札を取る人だっているくらい」
と中堂先輩が続けた。
「へえ、まるで水泳の飛び込みみたいだなあ」
そのとき突然、廊下の方から男子の低い声がした。孝太だった。
「孝太、どしたん? 陸上部は?」とミオ。
「また昨日みたいに、風花ちゃんが倒れたってミオから連絡が来るかもしれんしなあ」
ニヤリと笑いながら孝太が風花を見た。
「えっ、いや、今日は大丈夫だから。ほんと、全然。うん」
慌てて風花は今日は元気だとアピールする。いやだ、顔が火照るじゃん。
「ああ、こいつまた風花をおんぶしようってこと? このすけべ」
ミオが風花と孝太の間で、手を腰に当てて仁王立ちした。
「ばーか。冗談に決まってるだろ」孝太はそう言いながら、ズカズカと畳に上がり、札を一枚拾った。「それよか、さっきの話だけどよ」
「さっきの話って?」
「ほら、Sの発音の話。あれって、何か耳を鍛える方法ってあんのか?」
「ああ、あれは生まれつきの部分もあるんだよ。感じがいいってかるたの世界ではいうんだけどね。でも、繰り返し何度も聴いてるうちにある程度はわかるようになる音もあると思うよ」
「ミオは?」
「うん。うちは感じがいいって言われる方かな。それが? 孝太、中学まではいくらうちが誘っても、かるたなんかまったく興味なかったくせに今更なによ」
ミオが訝しげに孝太を睨みつけた。
「いやな、俺はさ、ほら今日から水泳部にも入ったからな。かるたは意外と水泳のスタート練習になるかもしれんと思ってさ。ついでに、かるた部にも入るかな」
孝太が空中をクロールで泳ぐ仕草をしている。
「本当に水泳部作っちゃったの? あっきれたあ。陸上はどうすんのよ」
「もちろん陸上もやるさ。でも、水泳部は長谷川先生が顧問をしちゃるって言ってくれたしな。陸上と水泳で、今日から俺はハイパーアスリートを目指すんじゃ。ついでにかるた部も入れといてくれ」
とシャツを捲り力こぶを作ってみせた。
「どっちつかずになっても知らんけんね。まあ、かるた部はなんかの頭数が必要なときのために、幽霊部員に登録しとくわ」
そう言って、ミオが深いため息をついた。
「今日は初日だし、部活はこれくらいにしとこうか。2人も新入部員も入ったし、今年は豊作だよ」
本気かどうか、中堂先輩がうれしそうに言う。
「先輩、孝太は幽霊だからあてにしないでくださいね。それより、とりあえず風花をなんとか6月までに仕上げちゃいましょう」
ミオがそう言うと、中堂先輩は壁に据え付けてある棚から、紙を数枚取り出して風花に差し出した。
「これはね、さっき言った『決まり字』を初心者用にまとめたものだから、あなたのおばあちゃんの本にでも挟んで、いつも持ち歩きながらできるだけ早く覚えてね」
とサラリと言った。
紙には、決まり字ごとにとても綺麗にまとめてあった。
「私、暗記ってちょっと苦手なんですよね」
風花はそうつぶやくように言いながら、さっと目を通す。
——ん? うっかりはげ? 何これ。
「あの、この『うっかりはげ』って?」
「ああ、これの本来の歌は」中堂先輩が読み札から1枚取り出した。「あった、これこれ」
そう言って、その札を畳の上に置いた。
はげしかれとは
「この歌の決まり字は『うか』の2文字で取れる札なんだけど、対応する下の句が『はげしかれ』だから、語呂合わせで『うっかりはげ』っていう有名な覚え方があるのよ。どう、なかなか覚えやすいでしょ?」
先輩が「うっかりはげ」とすました顔で言ったものだから、風花は思わず吹き出してしまいそうだった。
「さっき言ったけど、本来の和歌としての百人一首とは違う、競技かるたに特化した覚え方で、あなたのおばあさんには悪いけど、とりあえず大会に出たいから頑張ってね。じゃ、今日はこのへんで解散ね」
そう言って先輩は立ち上がり、「そうそう」と手をポンと叩き、
「昨日みたいに倒れても困るから、体力強化も頑張って」
と言い残して、さっさと3人を残して部室を後にした。
「じゃ、俺は走って帰るから」
帰りのバスを一緒に待ってた孝太が、バスが来た途端にそう言ってリュックを背負った。
「なによ。じゃあ、今まで待ってなくてもよかったんじゃん」
とミオが言うと、
「バスと競争じゃ。朝は負けたけん、帰りは絶対勝つ!」
と変な気合いを入れて、風花とミオを乗せたバスの発車と同時に走り出した。
「ほんと、単純ばかよね。幼馴染として恥ずかしい」
つくづく呆れた、という顔でミオが肩を窄めた。
結局、何度かバスに並びかけた孝太であったが、あと少しのところでバスに先を越されたのだった。
だが、ミオはああ言ったが、理由はどうあれ孝太の気合いは気持ちいいと風花は思う。できることなら、いつかはバスに勝たせてやりたい。そんなことを思った。
久しぶりに、負けてはいられないという思いが風花の胸に溢れた。自分も明日の朝から、あの坂道を毎日走って上ろうか。
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