第36話

 やけに早寝したせいか、早朝に目が覚めたフウカに起こされ、俺はあくびを大きなあくびをしながら部屋を出る準備を整える。簡単な身支度を済ませて部屋を出ると、警備の人たちが何人かいる程度で、支部の中は静まり返っていた。


 部屋の中では島に帰れるとはしゃいでいたフウカも、その静けさに圧倒されてか俺の手を握って押し黙る。彼女の手を引いて階段を降り、警備員が開けてくれた扉をくぐろうとしたとき、背後からコツコツと聞きなれた足音が聞こえてきた。


 俺よりも早くその人物の存在に気付いたフウカはサッと俺の背後に隠れる。振り向くとそこには、予想通りアカネさんがいた。白衣のポケットに手を突っ込み、眠そうな顔をしながら歩いてくる。



「おはよう。随分はやいな」



「はい。フウカが早く帰りたいって言うんで」



 アカネさんが近づいてくるたびに、フウカが俺の手を握る力が強まった。アカネさんは数歩手前で立ち止まり、じっとフウカを見つめている。



「あの、何か用でしたか」



「いや、見送りに来ただけ」



 それから一瞬沈黙が流れた。アカネさんは何も話さない。本当にただ俺たちを見送りに来ただけかもしれない。



「じゃあ……お世話になりました」



 俺がぺこりと会釈をすると、アカネさんも頷く。その表情はどこか複雑そうで、それが何を意味するのかは俺にはわからなかった。


 建物の外に出ると、まだ早い時間なのに陽ざしが痛かった。フウカも陽の光に目をしぱたかせている。そこら中から蝉の鳴き声が聞こえた。ほんの少し前まで梅雨だったのに、いつの間にか夏になっていたらしい。



「パパ……あつい」



 バケツ頭の頃は気温に鈍感だったフウカが、そんな風に訴えた。まるで人間の子供のように汗をかき、前髪が額に張り付いている。


 いや、アカネさんも言っていた通り、今フウカは人間の子供なのだ。信じがたいが、受け入れなくては。ポケットからハンカチを取り出して、彼女の汗を拭ってやる。



「日影を歩こう。帰り道は長くなるから」



 赤い顔をしたフウカを、なるべく建物の影に沿って歩かせる。そのうち日陰を探すのが楽しくなったらしいフウカは、俺の手を離れて光から逃げるように影から影へと走った。


 犬の散歩をしていた老人が、ほほえましそうにフウカと俺をと見ている。傍から見れば、ただの親子に見えるのだろう。


 フウカの認知の歪みもあるから、前からそう見えていたかもしれない。けれどそれは、フウカの姿がおかしいという違和感が薄れていただけのことだ。今はもうきっと、誰も違和感すら持たない。



「パパ、早く!」



 満面の笑顔で、フウカが俺を呼んでいる。その姿を愛おしいと思うのと同時に、ますます娘と重なって胸が苦しかった。


 あんな風に笑っていた娘はもういない。俺がフウカを可愛がるのは、娘のように面倒を見るのは、俺がフウカを使って罪滅ぼしをしているにすぎないのかもしれない。



「パパ?」



 自分を見つめながら黙り込む俺を心配してか、フウカが立ち止まる。慌てて足を動かした。


 あの子はもういない。フウカはあの子の代わりじゃない。何度も何度も自分に言い聞かせている。わかっている、と思い込んでいる。



 だからもう考えないことにした。記憶の中にある娘の姿を片隅に閉じ込めて、ただフウカを目に焼き付ける。よく見れば、あの子になんて全然似ていないのだ。



「あんまり先行くなよ」



 そう言う俺の手を、フウカは素直に握る。手のひらが熱いくらいだった。


 2人で駅まで歩き、電車に乗り込むとフウカは俺に体をもたれかけて眠ってしまった。朝早く起きたのと、慣れない暑さで疲れたのだろう。乗り換える駅でも起きなかったため、俺がフウカを抱きかかえて電車を降りる。


 全体重を預けながら眠るフウカは、体が無機物だったころとはまた違う重さがあった。電車の冷房で腕周りは冷たいのに、彼女を抱えた胴体は熱い。


 数時間が経って、最初についた駅に戻ってくる。ここに来たのも、もう1か月前のことになってしまった。潮の匂いがする。


 ようやく目を覚ましたフウカの手を引き、港に船を止めてくれていたカイの元へと向かった。カイはフウカの姿を見てぎょっとする。



「……ゴウさんたちから話は聞いてましたけど、ほんとに人間みたいになってるんですねえ」



 興味津々といったカイの視線を流して船に乗り込む。ようやく帰れるのだ、面倒な状況説明なんかは後に回したい。


 船の下で揺れる波の感覚すら懐かしかった。

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