第32話

 電子音が聞こえて目が覚める。アラームのものではなかった。思わず寝過ごした、と飛び起きると、見慣れない部屋が目に入り混乱する。


 そうだ、昨日はここに泊まったんだ。焦りでばくばくと逸る心臓を落ち着かせるように息を深く吸い込むと、まだ鳴り続けているスマホに手を伸ばした。


 画面にはアカネさんの名前が表示されている。通話ボタンを押してスマホを耳に当てると、向こうからバタバタと慌ただしく人が動いているような雑音が聞こえた。



「ミクニ? 朝早くからごめんな」



「いえ、大丈夫です。それより何かあったんですか?」



 時計にちらりと目を向ける。時刻はまだ6時前だった。いつものアカネさんとはとは思えない、切羽詰まっているような声に動揺する。



「昨日あんたが連れてきたあれ……フウカ、やっけ? それがなんか急に動き出してん。あたしらじゃどうにもできんくて、ミクニちょっと来てくれへん?」



 アカネさんの言葉を上手く呑み込めない。フウカが、動いた?俺が事情を聞こうとしても、アカネさんはどう説明すればいいかわからないのか、じれったそうに俺を急かしている。



「とにかく来て! あたしらも何が起きてんのか、どうしたらいいんかわからへんねん。タクシー代は出すから! じゃあ、待ってるからな」



 アカネさんの一方的な言葉で電話は切られる。さっきのものとは違う衝撃で、俺の心臓はまたどくどくと音を立てる。ベッドから降りるが、足元がふらついて上手く立てない。


 浅く呼吸をしながら服を着替える。何が起きているかはわからないが、とにかく行かなければ。フロントに電話をしてタクシーを呼んでもらい、身支度を整えて部屋を飛び出す。まだ朝早い時間だからか、道路は空いていた。


 料金を投げるように支払い、タクシーを降りて走る。建物の外からでもわかるくらい、支部の中はざわついていた。扉を開けると人だかりができている。黒と白の集団を押しのけて前へ進もうとすると、子供の高い声が聞こえた。



「離して! パパたちのところに帰るの!」



 フウカの声だった。俺は人々の波をかき分け、彼らが取り囲む最前列に辿り着いた。


 そこには、1人の女の子と、それをなだめようと奮闘するアカネさんや、研究員の姿があった。


 その女の子からは確かにフウカの声がした。けれど、見た目が違うのだ。まるで普通の女の子のように人間の頭があり、手足があり、胴体がある。俺の知っているフウカではない。


 思わず顔をしかめてしまった。アカネさんは俺を見つけると、少しほっとしたような顔をする。



「ミクニ! よかったわ来てくれて。朝研究所来たらこの子こんなんになってて、もうあたしら何が起きてるかわからへんし、この子はこの子で癇癪起こすし」



 何が起きているかわからないのは俺の方だ。俺が呆然とその場に立ち尽くしていると、フウカと目が合った。



「パパ!」



 そう言って、嬉しそうに彼女は駆け寄ってくる。俺の知らない姿で、俺に抱き着いてくる。その体はひんやりとしていたが、人間にありうる範囲の冷たさだった。抱き着いてきた彼女の腕にそっと触れる。


 今まで彼女についていたロボットの腕ではない、明らかに人間の皮膚と、肉と、骨の感触があった。俺がぐっと力を込めて腕をつかんだからか、フウカが不安そうに俺を見上げる。



「パパ?」



 全く知らない少女から、パパと呼ばれることに違和感がないことが恐ろしかった。俺が今まで知っているフウカではない。それなのに、俺の心は彼女がフウカであることを無意識のうちに受け入れている。


 事実を考えている頭と、心とがないまぜになって気持ちが悪い。俺はそっとフウカを体から引きはがす。途端に彼女はくしゃりと顔をゆがめて、その瞳から涙をこぼした。


 今まで見ることができなかった表情は、こんなに豊かだったのだろうか。見ることができれば、と思っていたものが見えたら恐ろしいと思うなんて、自分勝手なのはわかっている。


 けれど、俺も混乱していたのだ。どうすればいいかわからずに、体が硬直する。



「……ミクニ」



 アカネさんの声が聞こえる。いつの間にか辺りは静まり返っていた。フウカがぐずぐずと鼻をならす音だけが聞こえる。



「少しだけ、時間をください」



 そう言うとアカネさんは頷いて、研究員や職員たちを散らした。俺は覚悟を決めて、フウカの前にしゃがみ込んだ。

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